須貝英の『イングリッシュ商店』

箱庭円舞曲の俳優・須貝英が、徒然なるままに綴ります。

ツイッター始めました。

不意に湧く。

2010年10月08日 | 今日の一人
どうも、須貝です。

ブログ、ツイッターというツールを利用して様々な方に自分の言葉を配信しています。

10年後に自分の言葉を青臭いと恥じることになっても構わない。僕は僕が今思うことを思う通りに言葉にするだけ。

常に誰かや何かとの距離を測り続けなければ、どこにいていいか分からなくなる。例え僕が立つ場所が一つだとしても、その営みは必要だと僕は思う。

偉そうなことばかり言って、悟ったようなことを言って、とよく言われるし自分でもそう思うが、その都度言葉に、形にしなければ、いつかその思いが失われていってしまう。形にならなければぼんやりと消えていく。例えそれが答えだったとしても、答えに至る道に通ずるヒントだったとしても、兎にも角にも言葉にしなければ失われていってしまう。

だから僕は色々な方に批判されながらも、言葉にし続けるつもり。


箱庭の打上げでお話をして、自分の中でぼんやりとしていたことがはっきりとした。僕のような若造青二才の言葉を真摯に聞いて下さる。有り難い。

僕はお客さんにとっての保証になりたい。「あの人が出ているならその作品は面白いはずだ」という、観劇の上での保証。映画と違って、観劇の失敗は割合取り返しが付かない。映画は1,800円、月初日であれば1,000円で観ることが出来るけど、お芝居はやはり高い。6,000円払って観た芝居がつまらなかった日にゃあ目も当てられぬ。だからこそ、僕は作品を選ぶ上での指針になりたい。それが5年後の僕の理想像。

「お話はつまらないけどあの人はいい」ということではなく。僕が出ているからには、まず面白そうな作品をちゃんと僕が選んでいるという前提があり、かつ、何かしらの問題があっても僕が面白くしてやるという自負があり、そういう覚悟を背負わなくてはいけないものを、何が悲しくて「脚本が…」だの「演出家が…」だの「共演者が…」だの、作品がつまらないことの言い訳を転嫁するんだ。結局それに出演しているあんたはどうなんだ、あんたがあんたの判断力と勘を総動員して選んだ道じゃないか、責任をぼやかすなよ、棚に上げるなよ、と思う。

きっちり常に結果を出すのが、プロだと思う。当たり前なんだけど、ことお芝居のような芸術絡みの事柄になってくると、自分の作品を自分がやっているという理由だけで許してしまうことがある。それが一番つまらぬ。

僕が今後出る作品は必ず面白いでしょう。僕はそれに向かう努力を絶対に怠らないつもりです。これは一つの挑戦です。

僕自身若いから何の説得力もないし、こういうことを言うと絶対に「お前は何様だ」と言われるから本当は言いたくないけど、若い頃ほど、作品は選ぶべきだと思う。先々の予定を埋めるためにつまらない作品に出る必要はない。この話は面白いんだろうか、という基準を、決して低く持ってはいけない。創作作品に出演するのであれば、例えば分かりやすく「シェイクスピアとおんなじくらい面白いかな?」と思ったっていい。それが判断基準だっていい。

つまらぬ作品に間に合わせで参加した所で、お金と時間と評判を失い、自分の審美眼が曇るだけである。その同じ時間を働いて素晴らしい作品の鑑賞に充てるがよい。


果たして僕は。僕は舞台に上がることが許されているのか。日本は上手い役者の絶対数が圧倒的に足りないと思う。僕はいつも、役者と名乗っていい最低ラインの技量が自分だと思っている。最低ラインが自分、というのは、自分だからえこひいきをしているわけじゃなく、冷静に自分くらいの技量が多分極普通なんだろうなぁと思うからです。

なぜ面白いことをやってやろうということに貪欲になれないのか、分からない。もっともっと貪欲になりたい。まだ足りない。手を抜きたくない。自分を甘やかしたくない。生活の全てを費やしてもいい。つまらないよりはずっといい。


ずっとずっと、マシだ。


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