小野友五郎でも滝川播磨守も、大きな権力を持っていなかったのに、どうしてなのか、「悪者」にされているような感じを受ける。薩長からみてのそればかりではなく、旧幕府の中からもそのような見方がをする者がいたのかもしれない。
小栗上野介もそのように見られていた一人で、小野友五郎と滝川播磨守は、維新後口を閉ざし、小栗は命を奪われてしまったので、言いたいことも言えない。
最新の研究がどのようになっているのか全くわからないので、何とも言えないのだが、小栗上野介(小栗忠順)の、慶応3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ちヘの関わり方についての解釈には疑問がある。
小栗が主導したとか、煽動した、命令したというように言われることがあるのだが?
小栗上野介もそのように見られていた一人で、小野友五郎と滝川播磨守は、維新後口を閉ざし、小栗は命を奪われてしまったので、言いたいことも言えない。
最新の研究がどのようになっているのか全くわからないので、何とも言えないのだが、小栗上野介(小栗忠順)の、慶応3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ちヘの関わり方についての解釈には疑問がある。
小栗が主導したとか、煽動した、命令したというように言われることがあるのだが?
小栗は強硬論者ではあったかも知れないが、薩摩藩邸への攻撃については大坂の意向を聞くべきではないかという意見であったという見方もある。これが事実であれば、小栗の評価も少し変わってくるのではないか。
維新後生き延びた者の中には、讒言とまではいかずとも、知っていてもかばうことをせず、身を保ち、死んだ者をスケープゴートにしてしまった悪人がいる可能性はある。あるいは、知ったかぶりをして、「じつは、彼が・・・したのだ」と、その場にいたような顔をして得意げに話したり、伝聞や想像・思い込みを事実であったかのように談話や筆記を残したりした者も多いと思う。
そういう、歴史の作られ方は、恐ろしい。
維新後生き延びた者の中には、讒言とまではいかずとも、知っていてもかばうことをせず、身を保ち、死んだ者をスケープゴートにしてしまった悪人がいる可能性はある。あるいは、知ったかぶりをして、「じつは、彼が・・・したのだ」と、その場にいたような顔をして得意げに話したり、伝聞や想像・思い込みを事実であったかのように談話や筆記を残したりした者も多いと思う。
そういう、歴史の作られ方は、恐ろしい。