三河武士がゆく

プロバイダーが、2025年3月31日付でホームページサービス終了しますので、記事の一部をブログへ引っ越しします。

戊辰戦争拾遺 遅れた長崎丸と河津三郎太郎ら伝習砲兵

2023年06月28日 21時48分03秒 | 歴史
王政復古のクーデタの知らせが江戸に入り、幕閣は在京老中の要請に応えて、12月14日、兵の急速上京を命じた。この時、乗船として長鯨丸と長崎丸があがっている。長鯨丸は何度か出帆予定を変更しながら、23日に勘定奉行並、小野友五郎らを乗せて出帆していると思われる。しかし、長崎丸はさらに遅れて、砲兵頭並、河津三郎太郎(祐賢)、大砲差図役頭取、永持五郎次(明徳)ら伝習砲兵を乗せて、翌慶応4年1月2日に着坂したと思われる。河津ら伝習砲兵は14日、上京命令を受けているのだが、遅延の理由は何であったのか。

この伝習砲兵隊が、鳥羽・伏見の戦いの緒戦に間に合っていたとしたら、戦局に大きく影響したかわからないが、簡単に戦線が崩れることはなかったかもしれない。

この他にも旧幕府支援の兵が大坂を目指しており、大津方面から入京を図る旧幕府歩兵などもいた。さらに長崎丸が着坂した1月2日には歩兵一個大隊を乗せた順動丸が品川を出帆しているのである。

河津と永持は共に明治政府の陸軍に仕え、砲兵の大隊長を経て要職を歴任している。