その1からの続きます。
二日目・・・
﨑津集落へ
海辺の漁村
ここも、ボランティアの方に色々教えて下さいました。
アワビ貝とか身近なものを信仰具として代用し、漁村特有の形態で信仰を続けた集落
諏訪神社から﨑津教会の先端が見えます。
キリスト教解禁後明治21年に建てられた教会の跡に建つ建物は
今は﨑津教会のシスターが寝泊まりしてるそう
昭和9年「教会」を再建するときに
かつて「踏み絵」が定期的に行われた場所に建てた・・・
(このようなところに、キリスト教の強さ?覚悟!が見え隠れ)
のが・・・ ↓
「﨑津教会」(写真少し傾いてます?)
教会の中は、写真撮影禁止で紹介できませんが、
ゴシック形式の建物で、珍しい畳敷き
﨑津地区は、明治になり
「潜伏してました」と告白して
改めて「カトリック」信者になった地区・・・
かつて農産物と海産物を物々交換して交流した山の向こうの農村「地区」は、
先祖代々の「隠れキリシタン」としての信仰を大事にし、今も維持されてるとか。
信仰の指導者を「帳方」さんといい
帳方さんの高齢化は、どこでも同じで後継者不足と言われてるそう。
狭い軒先で家々が建つこの地に
「トウヤ」と呼ばれる90センチ幅の路地が、数十本も海に通じ・・・。
ここの地区は、一年中しめ縄を飾ってる家が結構あります。
江戸時代からの風習で、
「うちは仏教ですよ」
ということだそうですが、
こうすることにより、お上の目をカモフラージュした名残りが
(今は風習になったのかしら?
←クリックで拡大
潜伏キリシタン集落らしい・・・丘の上の墓石・・・
﨑津地区を後にして向かったのは・・・
白亜の「大江天主堂」
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1933年にフランス人宣教師ガルニエ神父が、
私財を投じ建てた「ロマネスク様式」の天主堂。
「﨑津教会」が街の中にあるのに対して、丘の上に有ります。
(という事は、坂を上るのです)
明治40年に若い詩人5人
(与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里)が、
この天主堂でガルニエ神父に会いその人柄に感動
そのうちの吉井勇の「歌碑」が建れられてます。
<白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿>
吉井氏は昭和53年に再訪し、往時を懐しみ詠んだ歌が・・・
<ともにゆきし友みなあらず我一人 老いてまた踏む天草の島>
お昼は・・・
天草二江港で
うに丼を頂きました!
独特の臭みが、全くなく美味しい!!
この後、小舟に乗ってイルカウオッチィングを兼ねて島原半島へ渡る予定が、
波が高くてキャンセルとなり・・・「残念!!」
結局↑のフェリーに30分ほど乗って、島原半島は
島原の乱の主戦場だった「原城跡」へ
広いけど・・・
今は何も残ってません。
何かの跡とか・・素人はこれだけじゃ分からない。
37000人以上が、亡くなりました。
いまだに、発掘すると「骨」が出てくることもあるそうです。
四郎のものと言われる墓石もありましたが、
信じられない位小さくてびっくり。
それに対して天草四郎像は、立派。
城跡に発掘された石と、畑が混在する不思議なところ。
海に向けて建つ石像は、ザビエルと天草四郎と四郎のお姉さんだそうです。
石の上に「十字架」が!!
メサイアの最後は、こういうのにインスパイア-されたのかな?
この日は、九州五大温泉の一つ・・・雲仙温泉 東園(泊)
とりあえず・・・〆その3へ続く