住田功一のブログ

メディアについて考えること、ゼミ生と考えること……などをつづります

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について

2023-08-07 22:45:00 | メディア関連
1993年(平成5年)8月7日(土)22:15から45分間、NHKラジオ(第1放送)の「ラジオアングル’93」という枠で全国に放送されたラジオドキュメンタリーが、『長崎市民は退避せよ 〜防空情報放送は何を伝えたか〜』です。

戦時中のラジオは、空襲警報や警戒警報を連日伝えていましたが、それに「敵機(米軍機)の数」「進む方向」「予想到達時間」などが加えられるようになりました。
それが「防空情報放送」です。これを全国で初めて実施したのは、西部軍と福岡放送局だったという資料が残っています。

各地の陸軍軍管区司令部の放送室(ブース)の中で当時の日本放送協会のアナウンサー(戦時下では放送員と呼んでいました)が、軍から手渡された情報メモを読み上げ、ラジオを通じて放送していました。

「防空情報放送」は、
東部軍管区の情報は東京・竹橋の司令部の放送室から、
中部軍管区の情報は大阪城公園内の司令部の放送室から、
西部軍管区の情報は福岡・大濠公園にあった司令部の放送室から…
といった具合に、軍管区に合わせたブロック単位で放送されていました。

当初は、「○○上空の敵少数機は東進中なり」というように、敵機の動きだけをおおざっぱに伝えていましたが、空襲が激しくなるにつれ、内容や形態も変貌していきます。

   ○      ○

1993年にNHK『ラジオ深夜便』で情報提供を呼びかけたところ、700通近いお便りが年配のリスナーから寄せられました。

福岡空襲や仙台空襲で。そして、昭和20年8月9日には長崎原爆投下の際に…。
それまでとは異なるメッセージをラジオが呼びかけたというのです。

そうした聴取者からの情報を元に、当時の放送局員や軍関係者を訪ねて取材すると、それまで放送史には残されていなかった事実がわかってきました。

いまから、ちょうど30年前の番組で、取材・制作者の私としても記憶が薄れてくる年月です。

ここでは、放送された内容をそのまま文字に起こしました。

放送史の中でも特異な記録ですが、内容について、新しい情報や、ご不明の点、ご指摘があればお知らせください。

住田功一

----【目次】-------------------------------

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269


ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』① プロローグ〜奇妙な退避放送

2023-08-07 22:00:00 | メディア関連
<プロローグ 奇妙な退避放送>////////////////

効果音
・空襲警報のサイレン

アナ
特集「長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか」

効果音(再現音)
・「東部軍管区情報、東部軍管区情報、房総半島より本土に侵入せる敵B29は、先頭梯団が帝都に侵入しつつあり。後続梯団は伊豆半島上空より⋯」→B.G.

ナレーション
太平洋戦争の末期、日本は、アメリカ軍の空襲にさらされていた。ラジオは、連日のように一般市民に空襲警報や軍管区情報などの「防空情報」を伝えていた。

効果音
・(戦時中の)町のノイズ

ナレーション
昭和二十年八月九日、九州。
朝から、暑い夏の太陽が照りつけていた。
時計の針が11時をさす頃、突然、九州各地でラジオから切迫した男性の声が流れた。

証言インタ
・証言①男性「長崎市民は至急退避せよーってね。ほとんど悲鳴に近いようなね、放送があって、そしてすぐ何秒か後にですね、『長崎地区全員退避せよー!』といって、ぷつっと切れちゃったんです」。

・証言②女性「いままでにない大型爆弾です。みんな早く避難するようにというとっても切迫した男性アナウンサーの声がいたしました。それが立て続けに激しい放送がございました」

効果音
・(閃光と轟音のイメージ音)


リポーター
私たちスタッフが、聴取者の皆さんに、「戦時中の防空情報放送についての思い出をお寄せください」と呼びかけたところ、700通近いお便りをいただきました。中でも一番多かったのが、この長崎に原爆が投下された時の退避放送についてのお便りでした。

リポーター
緊迫した男性の声。「退避せよ!」という非常事態を告げることば。それまでに聞いたことのない放送だったと皆さん言っています。

リポーター
実は、長崎市役所のまとめた「長崎原爆戦災史」という分厚い記録書にも、この『退避放送』についての記述があります。ちょっとそれを読んでみます。

「福岡、佐賀の各地でラジオを聞いた人々の手記や証言によると、『長崎に新型爆弾が投下された模様です』という情報に続いて、『長崎市民は全員退避せよ』と伝え、しばらくして、『市内に火災が発生したので、長崎市民は消火にあたってください』と、繰り返し繰り返し放送したとある。」
「退避から一転して消火へ。異例の呼び掛けの放送であった。長崎放送局の放送機能は原爆の爆発と同時に壊滅していた。この放送がどのようなルートであるのかは明らかではない。」

このように書いてあるんですね。

リポーター
こんな放送がなぜ放送されたのか?退避の命令は間に合ったのか?私たちは取材を始めることにしました。

➡️ ②八月九日、長崎<1>につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』② 八月九日、長崎<1>

2023-08-07 21:00:00 | メディア関連
<八月九日、長崎1>/////////////////////////////

効果音
・セミの声 S.E. (長崎のイメージ音)

ナレーション
昭和二十年八月九日午前、長崎県首脳は、市内諏訪神社の近くの山肌に掘られた大きな防空壕の中にある臨時の知事室に集まり始めていた。
「次は長崎だ」。原爆で壊滅状態になった広島の惨状が次々に伝えられる中、永野知事は、長崎も危ないと感じていた。知事は、長崎市民のうち、老人、子ども、女性を長崎市内から疎開させることを検討していた。
疎開対策会議には、溝越(みぞごし)警察部防空課長、中村特高課長、藤本教学課長らが呼ばれていた。

ナレーション
中学生の一部と小学生を疎開させるために、どのような手続きをすればよいか、混乱なく疎開を進めるにはどのような方法をとればよいか。会議が始まろうとしていた。

効果音
・コチコチと時計の音 F.I.

ナレーション
その時、B29が、長崎上空にさしかかっていた。

効果音
・コチコチと時計の音 止まる

➡️ ③終戦前年に始まった「情報放送」につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』③ 終戦前年に始まった「防空情報放送」

2023-08-07 20:00:00 | メディア関連
<終戦前年に始まった「防空情報放送」>//////////

リポーター
私の手元に、藁半紙で作られました1冊のパンフレットがあります。
『九州の情報放送』という題がついています。昭和十九年に、福岡放送局が発行したものなんですね。
青いインクでタイプ印刷された冊子。もう赤茶けてぼろぼろですが、表紙には赤いインクで『マル秘』のスタンプが押されています。
ここには、終戦の前年の昭和十九年七月八日に、防空情報放送、警報以外に防空情報放送が全国で初めて実施されたといういきさつが書かれています。その中を読んでみます。

「電波は敵機を誘導してしまう。しかし空襲下、防空体制を強化し、戦意を高揚し、流言飛語を防ぎ、民心を安定させるためにはラジオが有効だ」
「議論の末、陸軍の九州地区を統括する西部軍と福岡放送局は、防空情報放送を始めた」と、このように書いてあります。

つまり、それまでは、警戒警報、空襲警報を出したあとは、電波を停めてラジオは沈黙を守っていました。それをあらためて、随時、敵機の情報を出していくことにしたというのです。

ナレーション
戦時下のラジオは、様々な制約のもととで放送を続けていた。それまでの逓信省の検閲に加えて、軍部も放送の内容に介入するようになっていた。
戦意高揚に反する番組や、被災情報は、差し止められていた。

ナレーション
ところが、昭和十九年七月、福岡の西部軍は、空襲警報などの『警報放送」に加え、『防空情報放送』の開始を許可。やがて、東京の東部軍、大阪の中部軍、札幌の北部軍でも実施。さらに、仙台の東北軍、名古屋の東海軍、広島の中国軍でも『防空情報放送』が始まり、昭和二十年には全国の軍管区で実施されるようになっていた。


リポーター
取材を進めるうちに、NHK名古屋放送の資料室に、当時の『東海軍情報』の録音が残っていることがわかりました。
戦時中の防空情報で今でも残っているのは、わずか1分ほどのこの録音だけです。もともと録音盤に記録されていたものです。

録音素材
(東海軍管区、名古屋局=大竹アナ保存)
「(ブザー) 情報。志摩半島南岸を西南進したP38、8機は、11時35分、尾鷲南方海上を西南進中であります。
静岡県・警戒警報解除。静岡県・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。
これで、今回の東海防空放送を終了いたします。時刻はただいま、11時39分になります。以上」

リポーター
ブザーが鳴ったあと、米軍機の機種、数。何時何分現在の情報なのか、という内容です。
「志摩半島の南岸を西南の方向に進んでいるP38、8機は、11時35分現在、尾鷲の南方海上をさらに西南の方向に進んでいる」。こういう表現はシンプルですけれども的確な情報です。しかも、現在の時刻も放送することで、情報が入ってから現在までの4分間にさらに敵機は遠ざかっているだろうということを、きちんと伝えているんですね。
単なる、警報の発令や解除だけでない、これが、いわゆる『防空情報放送』の基本形です。

ナレーション
防空情報放送は、はじめは、軍司令部から専用電話で送られてくる原稿を、放送員、つまりアナウンサーが、放送局のスタジオで読み上げていた。
しかし、昭和二十年に入り、毎晩頻繁に空襲が行なわれるようになると、放送員と技術員が、軍司令部に出向いて待機するようになった。

リポーター
西部軍司令部の建物は、福岡市の大濠公園のそば、お城の石垣の上の高台に今も残っています。現在は裁判所の倉庫になっています。
1.5mほどもある分厚いコンクリートの白い壁。二階建ての頑丈な造りです。
今回の取材で、建物の平面図や写真を、私たちは入手しました。
これを見ますと、当時の西部軍の内部の様子がわかってきます。

効果音
・電話交換室のようなノイズB.G.

司令部一階の部屋には、電話交換機や無線機がずらりと並んでいます。
ここには、九州各地の監視哨=肉眼で米軍機の行方を追う監視哨からの情報や、電波警戒機の基地からの情報が、絶えず入ってきます。

何十人という若い女性通信員たちが、灰色に近い国防色のスラックス、そして白い開襟シャツといういでたちで働いています。
彼女たちがテキパキとジャックをつなぎ換えては、レシーバーで連絡を受けてゆき、情報の内容通りに操作盤のキーをカチッと倒しますと、隣の作戦室の大きな地図、4m×5mはある大きな九州地図の所定の位置に赤いランプがつく仕組みになっています。

効果音
・モールス信号の音 B.G.

リポーター
西部軍の作戦室は、四十畳敷きほどの広さで、丁度、大学の階段教室に似ています。
床は、雛壇のように三段になっているんです。
そして一番前の低い段に置かれた長机には、海軍や航空隊などへ連絡する将校が控えています。真ん中の段の長机には、米軍機の航跡=飛行機の跡を地図に記録していく将校や下士官が並んでいます。
そして、一番後ろの高い段には、青みがかったカーキ色の軍服、胸に金モールをさげた当番の参謀が座っています。その横で、参謀の補佐をする将校が、九州の地図、そこに点滅する赤ランプの動きを見て、どの地区に敵機が向かっているかを判断し、参謀に地区ごとの警報や防空情報の発令を諮ります。参謀がよしと判断するとメモが作成されて、そのメモが、すぐ隣の部屋の放送室に待機する放送員に手渡されます。
これが、防空情報放送が出る仕組みです。

ナレーション
監視哨の情報が入ってくると、3分から5分で参謀が判断して、放送員のもとにメモが手渡される。
敵機の大編隊が次々にやって来る場合、情報はひっきりなしに出された。
およそ1分間の防空情報放送が、一晩の空襲で200回も出されたことがあるという。

ナレーション
福岡放送局では、6人の放送員が交代で、技術員とともに絶えず司令部に詰めていた。電話ボックスのような放送室は、一人が入るのが精一杯の狭さで、夏には30度を超える暑さに達した。
放送員は夜間空襲の時には、ほぼ徹夜で、情報メモを伝え続けた。


リポーター
これまで市民に知らせなかった情報を、少しづつ伝え始めた裏には、軍部や政府のどんな意図があったのか?
昭和史、特に軍部の仕組みに詳しい拓殖大学教授の秦郁彦(はた・いくひこ)さんは、こう話しています。

秦郁彦教授 解説
戦時下の日本は、政府と軍部による徹底した情報管制というものが行われておりまして、防空情報についても、その例外ではありません。
軍部が考えてましたのは、もうその10年以上前からのいわば伝統なんですけれども、市民のバケツリレーで火を消していくと。こういうかなり原始的な方法なんですね。で、その体制のままB29の空襲を迎えたわけですけれども、こういう防空消火法が全く役に立たないということがわかってまいります。
つまり、国民のサイドがクチコミなどによって、とにかく逃げるのが第一であるという観念で対応していくと。それに対して、生産第一という政府や軍部の立場との矛盾ですね。これでやっぱり妥協せざるを得ないという格好で、なし崩し的に、軍部の防空情報担当者が、いわば若干で歩み寄るというかたちで、防空情報の中身を変えていったということだと思いますね。
それから、もちろん、情報を与えることによって、国民の不安を鎮めるということもあったと思います。

➡️ ④放送室からの悲痛な叫びにつづく

----【目次】-------------------------------


ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
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②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』④ 放送室からの悲痛な叫び

2023-08-07 19:00:00 | メディア関連
<変貌していく内容〜放送室からの悲痛な叫び>////////////

ナレーション
当初、『防空情報放送』は、「甑島(こしきじま)上空の敵少数機は東進中なり」というように、敵機の動きだけをおおざっぱに伝えていたが、空襲が激しくなるにつれ、内容や形態も変貌をとげている。

効果音
・炎のイメージ音

リポーター
燃え盛る炎。夜空が真っ赤に染まる。
熊本が空襲された夜、佐賀市で放送を聞いた岩崎彰代志(あきよし)さんは、ラジオから流れた西部軍情報のその言葉に驚いたといいます。

ラジオを聞いた岩崎彰代志さんの証言
「いつもはだいたい西部軍管区ですか、そこの放送は非常に紋切り型の放送ですけど、その日の放送は非常にこう、実況放送みたいな感じの放送でした。特に、熊本市がいよいよ空襲が始まったと、焼夷弾が落ちたと、燃え始めたと、そして『熊本市民はさかんに防火に敢闘しております』という言葉だったですもんね」

リポーター
いつもの軍管区情報とは違う、呼びかけるような口調。そんな放送は実際にあったのでしょうか?
九州地区の防空情報を担当した、福岡放送局の石田吾郎放送員は、福岡が空襲された夜、手渡された、一枚の原稿についてこう話しています。

福岡放送局の放送員だった石田吾郎さんの証言
「最後の空襲の情報がですね、突然『福岡の皆さん』とこう書いてあるんですね。あれっと思って。それで、目でね、(原稿を)持ってきた人に聞いたわけですよ。目でね、これでいいのかっていったら。かまわないと。それを繰り返せと」
「正しくはないんですけども、『福岡の皆さん。敵機は福岡に大きな損害を与えております。そして、死傷者もかなり多数出ております。しかし、皆さんの意気は軒昂』といったのかな、『高まっていて、少しも挫けたところはありません』と、『みなさん頑張ってください』と、そういう文句なんですよ。さよならとは言わないんですがね」
「情報放送っていうのはね、当時は、戦意高揚っていうんですかね、柔らかい言葉は一切使っちゃいけない。敵機来襲せりとかね。我が方の損害軽微なり。敵に多大な損害を与えとか、決まり文句なんだけども。一枚だけ、『福岡の皆さん』って出てきたからね、びっくりしちゃったんですよこっちもね(笑)。なぜあそこでもって文章が変わっちゃたのかね」


ナレーション
各地の軍司令部と放送局は、早く、しかも混乱なく情報が伝わり、人心安定に役立つように工夫を重ねていく。
大阪・中部軍では、「岡山」と「和歌山」を聞き間違えないように「備前岡山」「紀伊和歌山」と区別した。

ナレーション
福岡空襲の際、次々に上空を通過する敵機におびえる佐賀県民に対し、佐賀地区司令官は、「今夜来襲している敵機は、全部福岡方向に侵入している。目下のところ佐賀県に影響はない」と、佐賀放送局からのローカル放送で、「安心するように」と放送している。

ナレーション
一方、東海軍管区と名古屋放送局は、防空放送を始める際、「文語体」にするか「口語体」にするかで意見が分かれた。結局、東京・東部軍と大阪・中部軍に放送員を派遣して、実態調査にあたらせた。大竹正(おおたけ・ただし)放送員は、文語体で放送していた東部軍に派遣された。

名古屋局の放送員だった大竹正さんの証言
「実際に東部軍管区司令部の放送を聞いてですね、やっぱり私の思っている文語体の方が、緊迫感があっていいじゃないかと。帰ってきて、文語体を主張したけども、聞き入れられなかったということですね。それまで空襲警報は大阪のが入っていたわけです。それが一般の耳には印象が深いわけですよね。それに司令部が、民衆対策というかね、なるべく、軍と民衆とをつけておきたいために、文語体ではいかにも軍がやっているような感じだということで、断固として参謀が口語体にせよと、こういうことだったんですね」

ナレーション
防空情報放送は、様々な表現を模索しながらも、軍側が情報を発表し、その原稿を放送局の放送員が読むという原則には変わりはなかった。

効果音
・空襲警報のサイレン

ナレーション
ところが、空襲が激しくなってきた昭和二十年七月十日未明、仙台放送局は、異常な事態に直面した。

効果音
・ザァーッ(焼夷弾の落下音) さかまく炎の音

ナレーション
空襲警報発令直後から、東北軍管区司令部は、ばらばらと落ちてくる焼夷弾の雨にさらされた。建物周辺が、炎に包まれた。

ナレーション
やがて、軍司令部と仙台放送局との回線が切れ、軍管区情報は沈黙してしまった。東北一円のラジオが、黙ってしまった。

効果音
・(ラジオの無変調音)

ナレーション
しかし、やがてラジオから、やや緊張してうわずった声男性の声が流れ始めた。

ナレーション
当時結婚したばかりだった、山田あきさんは、宮城県北部の登米町(とよままち)で ラジオを聞いていた。

登米町でラジオを聞いた山田あきさんの証言
「『市民の皆さん落ち着いてください。落ち着いてください。頑張ってください。放送局も熱くなってきました。後ろの方が赤くなってきました』ってそういうようなことを言いましたけど。それを何度も繰り返しましたけども、それでもう(聞くのを)やめて、見に出て行きました。うちの中から仙台は見えませんから。川まで行って、川の土手から見ました」
「ぼうーっと夕陽のもっと赤いみたいに地平線が赤くなっていまして、ときおり火事のように、火事のもっと大きな爆発みたいなのが、ばーっ、ばーっと赤く見えますけど、音はなんにも聞こえませんでしたけど」

ナレーション
「『敵機は焼夷弾攻撃を行なひつつあり、仙臺市民は防火に万全を期せよ』ラジオは生々しい聲を叩きつけてきた」
翌日の青森『東奥日報』は、その夜の放送をこう伝えている。

ナレーション
マイクに向かったのは、仙台放送局の庄司寿完(しょうじ・じゅかん)副部長だった。

仙台局の副部長だった庄司寿完さんの証言
「我々は電波法の規定で放送できないんですよと言って反対したんですが、局長があの有名な、名アナウンサーで名を売った松内(則三)さんっていう局長で。松内さんは大変放送の使命感というのか、情熱を持っている人でしてね、そんな常識的なことを言ってどうなるかと、いま仙台がやられているときに放送が機能を持っているのに黙っている手があるかというふうに叱り飛ばされましてね。そして、仙台空襲実況放送をやれと、私はまあ厳命でやらされたっていうのが本当なんですよね。結局、『今我々の仙台市が敵の空襲を受けてやられております』ということを反復して言うしか手はないわけですよね。外にも出られない。出たって真っ暗でわからない。なんだかごうごうという音と、不気味な体に響くようなズシンというような地響きみたいなそういう状態の中で、『みなさん、これにめげずにがんばりましょう』ぐらいのことしか言うことないわけですよね。『仙台がやられております』というような、敵愾心からくる悲痛な叫び声だったんだろうと思いますねぇ」


ナレーション
防空情報放送の目的は、空襲を受けながらも、戦意を高揚し民心を安定させることにあった。
そして、より早く、より解りやすくと工夫が重ねられていった。しかし、その防空情報放送にも、問題点があった。

リポーター
初めは順調に機能していた防空情報放送も、戦争の末期になると後手後手に回ることが多くなったといいます。
中部軍に詰めていた、大阪放送局の酒井裕(ひろし)放送員は、こう話しています。

大阪局の放送員・酒井裕さんの証言
「監視哨と中部軍管区司令部との間は、有線電話連絡だったんです。で、監視哨担当の下士官が司令部の中におりまして、それが監視哨と密接に連絡を取っていたんですけど、なにせ電話のことですからね、放送の方がずっと早いわけですよ。とうとうしまいには、監視哨に対する連絡ですね。これも、両方で会話する必要のない一方的な通話で済むような連絡は、どんどんラジオを使いました。」
「あまりいい例じゃないんですけども、監視哨を叱りつけたりするようなこともあったように覚えていますけどね。『お前のところの情報は遅い!』と、『もっと迅速に情報を送れ』ということをラジオでやったわけです」
「アメリカ軍の方も、電波探知機に対する防御策を講じたらしくて、侵入してくるまでわからなかった。末期などは、たしか岡山、岡山ははっきり覚えていますが、四国も高知だったでしょうか。全く警報なしにいきなり空襲を受けたということも度々ありました」
「監視哨から、『なんか岡山の地方が真っ赤だぞ』っていうんで、だいぶ中部軍管区司令部の人たちもあわてたらしいですね。私はどうせ、放送室に詰めっきりですから、司令部の中の状態はもちろんわからなかったんですけども、見てきた人の話では、かなり狼狽していたという話です。もういきなり空襲警報ですからね。空襲警報出したときにはもう燃えてるんですよ」

リポーター
西部軍で、電波警戒機を担当していたた大石勇少尉も、情報収集の問題点をこう指摘しています。

西部軍少尉だった大石勇さんの証言
「あれはたしか10万ボルトぐらいの衝撃波っていう電波をぶつけて、それが戻ってくるのをブラウン管でつかまえて、方向と高さと大体の数をあれして、送ったわけですね」
「ただ、当時の性能からいって200海里で捕まえろっていうのが案外捕まえられなくて、150キロになっちゃったりね、あるいは100キロになっちゃったり。だから捕まえたころにはもう敵が来てるとか、いうふうなことがあったと思うんですよ。
それでこんど、(陸上に)入っちゃうと、こんどはわかんなくなっちゃって。内地を追跡はできなかったと思うんですよ、この警戒機はね。あとは目で見るか、音で聞くか。対空監視哨がね捕まえる(捕捉する)以外ないと思うんですよ。
あの音は敵機である。あの音は味方だという、まず音の訓練を受けてるでしょ。それから形ね、飛行機の形であれは敵だ味方だと。そういうのを対空監視哨は訓練されてるから…。
今の世の中だったらレーダーでちゃんとね、あれするけど。そのころは雲の中入っちゃったら、おそらくわかんなくなっちゃうんじゃないですか」。

リポーター
この頃になると、日本本土の制空権は米軍の手に落ちていたと、拓殖大学の秦郁彦・教授はいいます。

秦郁彦教授 解説
マリアナ基地からのB29だけではなくて、20年6月に沖縄が陥落しますと、沖縄からも、大型機、中型機、小型機、これが西日本に毎日のようにやってくる。
合間には、アメリカ機動部隊の艦載機もやってくる。こういう三つ巴の状態になりまして、日本中どこかの時間帯にはアメリカの飛行機が飛び回ってるというような、そういう状態になりますと、防空担当者も一般国民もだんだん不感症になってくる。
そういう状態の時に、広島に原爆機が飛んで来た。
で、前の日に、夜に、B29は西日本の宇部とか今治、その他いくつかの地方都市にですね焼夷弾による攻撃を加えておりまして、関係者はもうそれで不眠不休。疲れ果てて、というところへ8月6日の朝を迎えると。

一応、新型爆弾が次に使われることを阻止するということを考慮して、大本営としてはですね、単機または少数機のB29の行動に警戒せよと。
それから要地の上空は戦闘機で哨戒せよという指示を出しています。しかし、すでに日本の戦力は枯渇状態にありましたから、この通りに末端までその指示が徹底していたかどうか、ということは非常に疑問ですね。

➡️ ⑤八月九日、長崎<2>につづく

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ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269