杉田劇場から

2005年2月5日にオープンした磯子区民文化センター杉田劇場のスタッフが綴るブログ。公演案内の他に美味しい情報も♪

旧杉田劇場の舞台幕に広告を出した男

2021-08-02 | 旧杉田劇場

 昭和23年、劇場の経営が厳しくなってきた頃、地元の有志により舞台幕を新しく寄贈したいという話が出た。そこで、浜中学校の美術の先生に赴任が決まっていた間邊典夫さんが、10日でデザインを描き上げてくれた。「杉田らしい舞台幕」にという思いから、杉田のシンボル「梅」と杉田の「海」と、その遠浅の「海」にあふれる「ウミネコ」をモチーフに描かれている。

 その舞台幕の下方には、支援してくれたお店、会社、個人の名前が書かれている。そのほとんどが地元の商店などのようだが、ど真ん中に特別扱いで「志村高明」という人の名前が見える。この人はだれなのか。長らく謎のままであったが、最近、杉劇☆歌劇団を指導している井上学さんから、「どこかで見た記憶がある」というコメントをいただいた。

 それから間もなくして、志村高明の名前が載った資料が『浜・海・道Ⅱ』(磯子区役所発行/1993年)であることが分かった。そう言われて私もこの冊子を読み返してみて、確かに自分もかつてこの人物の名前をここで見ていたことを思い出した。

 志村高明の名前が出てくるのは、磯子における花卉栽培の歴史を綴った《磯子・花の街》というページである。そこには、こんなことが書かれている。

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 磯子区の中原・杉田方面は、西に円海山、東南に東京湾に囲まれ、冬季温暖で夏季の海風に恵まれたことから涼しく、明治初期より花卉栽培や西洋野菜の栽培が盛んとなった。
 とくに花卉栽培は、安政6年(1859年)横浜の開港により、居留外国人たちの生花の需要から生まれたといえる。明治4年4月には山手公園で、日本で初めてのフラワーショウが開かれた。日本の人々も初めて目にする西洋花の美しさに魅せられたことだろう。

花栽培の始まり
 磯子区の花栽培は明治24年(1891年)頃より、中原・杉田方面でのテッポウユリの栽培から始まったといわれる。大正元年(1912年)には、中原の山口直吉氏がチューリップ、スイセンの栽培に成功し、数年後にヒヤシンス、グラジオラスを栽培している。
 一方、温室栽培は杉田の伊澤九三吉氏が開祖とされる。動機は山手百番バンテング商会に勤務中、外国人の花卉愛好熱に目をつけ、明治42年(1909年)に50㎡(約15坪)の温室を作り、フリージア、ユリ、バラ、ゼラニュームなどをつくった。
 その盛況をみて中原の山口直吉氏が16.5㎡(約5坪)の温室を作り、チューリップ等の球根類を栽培した。さらに大正末期(1924年)には、5~6名の人々が温室を作り、花卉栽培が大盛況となって富岡や笹下付近へと広がったといわれる。

ヤマユリからテッポウユリ(イースター・リリー)
 明治初年頃に来日した外国人は、山野に咲き乱れるヤマユリの魅力にひかれた。大輪で香り高い花をつけるユリを、有望な輸出商品として目をつけ、地元の人たちに山堀りをさせたため、数年を待たずに掘りつくされた。
 そのため人工増殖による栽培に切り替わってきた。その不足を補うためテッポウユリに目が向けられ、明治24年には杉田のユリ仲買人の間辺銀蔵氏が栽培を始めた。
 テッポウユリといえば、キリスト教の復活祭のイースターに飾り花として用いられるイースター・リリーと呼ばれるユリがある。このユリはまぎれもない日本産のテッポウユリで、1830年に琉球諸島(一説には宮古島)からイギリスに渡り、1856年にアメリカ合衆国ニューヨーク東南にあるバミューダ島に渡ったといわれる。これらの球根はほとんどが横浜港から船積みされたといわれている。

バス停「温室前」
 栗木には「温室前」というバス停がある。しかし今、まわりを見渡してもそれらしき面影はない。
 この辺では昭和10年頃から20年頃にかけて、山梨県出身の志村高明氏が妻ハツさんと共に100坪と90坪の2棟の温室でカーネーションや菊を栽培していたという。
 つてをたどって訪ねてみると、ハツさんは健在だった。
 「バス路線を開設する際にバス会社の人が来て、この名前を付けたんですよ。温室では夫と二人でテッポウユリやカーネーションを作り、『カンギ(岩亀)』と呼ばれた戸部市場に出荷しました。
 早出しの菊を作ったときは、温室のまわりを黒い布やゴザで覆って、日照時間を調節しました。冬は温度管理のため、夕方の5時から朝の5時まで一晩中、夫と二人、交代で石炭のボイラーを炊きました。その時は私が先に起きて、夜中の12時に夫を起こして交代したものでした」

 今でも現役のバス停「温室前」の温室とは、志村高明氏の温室のことだったのである。当時、花の栽培で名を成した人だったわけだ。

 これは『浜・海・道Ⅱ』に掲載されている志村高明氏の温室である。

 これも同冊子に載っている志村高明氏の写真である。後方に写っているのは従業員だろうか。かなり大規模にやっていたことがうかがえる。

 

 ここまで分かってきたが、舞台幕に名前を出した「志村高明」と同一人物かどうかは確定的ではない。そこで、栗木のことなら何でも知っている曽根武夫さん聞いてみた。

 「確かに志村高明という人は栗木にいたよ。地元じゃ(たかあき)ではなく、みんな(こうめい)と呼んでいたそうだ。温室での花卉栽培ができなくなったあとは土建業を営んでいて、結構羽振りが良かったという話だ。戦後すぐ市会議員の選挙に出たんだけど、落選している」

 曽根さんからこんな話を聞き、戦後の市会議員選挙結果を知りたくなった。そこで思い出したのが、郷土史家・葛城峻さんからお借りしている「選挙結果」をまとめた資料である。

 昭和22年4月30日に行われた横浜市会議員選挙結果。定数8人のところに29人も立候補していたんだね。残念ながら、志村高明氏は614票で落選。

 ちなみに、4位当選の飛鳥田喜一氏は元横浜市長・飛鳥田一雄氏の父親である。

 

 それから4年後の昭和26年4月23日の市議選。前回と比べて5倍近い票を獲得したが、今回も落選だった。

 曽根さんのお話では、志村高明氏はかなりの資産家で、政治的にも野心のあった人だったという。ということで、旧杉田劇場の舞台幕の中央にその名を載せたのは、この志村高明氏であることは100%間違いないだろう。

 旧杉田劇場の内部を写した写真はこの通路の壁に掛けてある。

by うめちゃん


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