
伊勢山といえば、西区の伊勢山皇大神宮を思い浮かべるが、こんな名前のケーブルが存在しているということは、滝頭にも伊勢山があったのだろうか?
昭和30年代の明細地図を見ると、広地と岡村の境界にこの名を付けた高台が描かれている。
『磯子の史話』の《伊勢山―はなれ山の項》には、こんなことが書いてある。
「もとはもっと大きな山でしたが、岡村の町づくりをする頃、田を埋めるために削り取ったのです。山上には南面の台地に太神宮社、頂上には稲荷社がありました。この山には横穴古墳があって、大正14年に土取りをする時に発墳しました。そのことを記した碑ができましたが、いまは金蔵院に移してあります。掘ったところは伊勢山の南麓で、ここは金蔵院の堂畑だったからで す」
この伊勢山がケーブル名に残されているのだ。
横浜市立脳卒中・神経脊椎センター近くでは、「万治」と書かれたプレートのついた電柱が並んでいる。
これは平成3年に閉院した「万治病院」の名称なのだが、その前身は明治12年に和泉町(浦舟町)で開設された横浜避病院。その後、横浜市伝染病院と改称され、明治33年に横浜市万治病院と再改称された。
明治10年代のコレラ患者
そして大正11年、滝頭に移転してきた。(地図は昭和7年)
病院名の由来は、「万病を治療する」だと思っていたが、実は最初に避病院のあった場所が吉田新田で、その埋め立てが始まったのが江戸時代の万治年間だったことによる。【参考:『横浜の疫病史』他】
昭和34年の磯子区明細地図。万治病院は滝頭の奥の方にあった。一帯は民家が少なく、養鶏場が点在するような場所だった。
現在はその跡地に横浜市立脳卒中・神経脊椎センターが建っている。
by うめちゃん
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