逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

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涙と共に種を蒔く人

2022-07-18 14:57:22 | 説教要旨
2022年7月10日 主日礼拝宣教
「涙と共に種を蒔く人」詩編126編1~6節
 この短い126編の詩には、歴史的背景がある。それはユダヤ民族にとっては何年たっても忘れられない歴史的出来事であるバビロン捕囚とその後解放されたことだ。ユダヤの人々は、バビロンに約50年にもわたって長い間捕われていた。それがペルシャ王キュロスによって解放されたのだ。そして多くの者は故国に帰還し、その後エルサレムの破壊された城壁は再び修復された。また小規模ながら新しく神殿も再建された。それを大いなる喜びをもって歌ったのがこの詩であったと言われている。
「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。」(1、2節)。ここに「シオン」とあるのはエルサレムのこと。そのエルサレムに「連れ帰られる」ということをもって長年の夢が果たされたこととして喜び、その口に笑いが満たされたというのだ。
 この喜びの出来事は、2節に「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」とあるように、主が彼らのために大いなることを為したのだ。それはユダヤの人々だけではなく、諸国民もそれを認めたというのだ。そしてここに「大きな業」という言葉が2度も繰り返されているのを見ても(2,3節)、それがその時代のユダヤ人にとってまさに起こりえないことが起こった奇蹟として受け取られていたのだろう。
 126編の詩人は、この大いなる業をさらに農夫の労苦とそれが報いられる喜びにたとえて、大変印象的に歌っている。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(5,6節)。ここに農夫がいかに苦労して地を耕し、そこに種を蒔くこと、しかし時来たってそれによって得る収穫がいかに大いなる喜びであるかがよく歌われている。
 バビロン捕囚が当時のユダヤ人にとっていかに甚だしき屈辱と悲哀であったか、他の詩人も歌っている。哀歌2:11「わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので/わたしのはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えていく。」そう歌っている。それ故に、キュロス王による彼らの解放と帰還とはいかに大いなる歓喜と感謝であったかがうかがい知れるだろう。この短い126編の詩の中に「笑い」「喜びの歌」「喜び」が繰り返されていることによってもそのことが想像される。
 しかし、それはこの詩に歌われているユダヤ人の民族的な解放、回復の場合にとどまらない。私たち一人ひとりの人生もまた同じであろう。人生は涙の谷である。詩編42:4に「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と。」と歌われているように、涙は昼も夜も人間の食物である場合がしばしばである。
 涙と共に食を取る経験なき者に人生の何たるかは到底解らないであろう、と言っているようだ。しかし、それに耐え抜く者にとって大いなる喜びが待っているのではないだろうか。この短い詩は平凡にして真実たる真理を私たちに良く教えているのではないかと思わされる。  
 そして、その背後には、必ず回復をもたらしてくださる主への信頼、信仰がある。現在の苦しみと空しいと思われる祈りも、いつか、報われる時が来る、という待望の信仰を伝えているのではないか。その信仰の表明を「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」という言葉に託しているのではないか。待望の信仰を持ち続けたいものである。

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