おばかなオヤジの日々・弐

I'm out of practice, but I will try
それがアヤマチのもと。

回顧録

2011年09月03日 | other

先日の引継ぎ会のときに話題に上がったお話。

ポンポンではなく車です。

なんと山派XRさんとこんなところで話が合った様な・・・・・

意外と年寄りっぽいひとだな。。。。。

 

A73 ランサーのWRCの動画です。70年代中盤ですね。

A175 ランサーターボ 出たばっかんときはすげえッって思いましたよ。

国内ではアドバンカラーのランサーを良く見ました。

A73ランサーを倒すために日産が投入したのはPA10 バイオレット サファリラリーでは

510 ブルーバード、DATUN240Z、とかも有名でったと記憶してますが、

このころはまだ、免許もなかっただけんね、

オヤジのダットラでダートをドリフトさせながら走らせるのがおもろかったなあ~ッ。

栄光への5000キロ とか言う映画があったような?たしか石原裕次郎だら?

車は240Z(S30)じゃなかったかな?

中2のころ兄貴が先に出た、A73 ランサーGSRを買ってラリーにはまって逝っただよ。

車に乗れるのがおもろくて、ウエイト代わりに乗せられた助手席で、

よくゲロはいてました。

toyotaでは TE27 カローラレビン、あたりから始まってると思いました。

TE27は若いころ乗ってました。 27.37はリーフスプリングだったんでやたらと跳ねる

車だったと言うような記憶です・・・まあ金は無かったんで足回りは二の次ってやつで。。。

この後は 神大ラリーで優勝したことあるって言う、TE71 カローラGT セダンにも乗ったりしました。

TA40 セリカ ものったんですね。画像はRA40 2000GTです、オイラがのったのは1600GT

でした。RAのRは18RGっつう2000ccのDOHCエンジンの型式のRを入れてる。

だでTAは2TGのTだね、1600ccDOHC。 角目4灯のやつ。

わすれちゃいかんのが。。

スバル:スバルはレガシーからかな?

水平対抗エンジンの独特な排気音は賛否両論・・・・・おいらは好きじゃない。

スバルインプレッサとランサーエボリューションはヨーロッパでは

スーパーカー扱いだそうです。(しばらく前だけど)聞いたときは驚きですね。

あとは80年代一瞬光った、マツダ ファミリア 323 4WD 一度全日本仕様に乗ったこと

あるだけど、コーナー1本目で死ぬかと思った車だ。

慣れれば、走る、ちゃんと曲がる。すっげえ止まる、4輪ドリフトもやれちゃう車でした。

借りた本人には死ぬかと思った話はしていない。

 

国内メーカーもWRCからは撤退して休憩中な会社が多いんだけど

’80~’90年代はすっげえ時代だったんだろうな、

TOYOTA,NISSAN,SUBARU,MITSUBISHI,MAZDA,みんなヨーロッパを走ってたよね。

お~っとSUZUKIがあったよ。忘れてた、ここ最近元気な活動していただいてます。

パイクなんかはまた、モンスターで勝っちゃったりして・・・・

モンスターも昔は日産の営業さんでした、ブーバードとかで走ってたもんね。

 

なんだか、またレースやりたい・・・・・・気もする。

過去にこんな車乗ってただよ。

TA?47カリーナ、TA40セリカ、チェイサー、(ここまではストリート仕様)

ここからダート仕様 110サニーから始まって、TE27 レビン、B310サニー、TE71カローラGTセダン、AE86、

ここでレース資金難のため撤退。

特に4、5年のったA型エンジンはすべてのバランス取りを技術審判部長の手ほどきでチューニングを行った。

バランスの取れたエンジンは振動しないって言ってたけど・・・・・ふんとにしない。

ヘッドは5個くらい面研、IN,EXポート研磨、アームのコーナー取りをやった。

鋳肌はオイル下がりが悪いから、鏡面にしろって。。。

コンロッドはピストンとセットでウエイトチェック!メタボなやつは贅肉を剥いで・・・・

クランクは回転バランス取る治具に乗っけて、重いケツの贅肉を剥ぐ。。

すげぇめんどくさくて、とちゅうから見かねた技術審判部長がやってくれました。

腰下終了。

ミッションも何かやれっていってたけど、ついに出来ず仕舞い・・・・

面研を会社でやってたときにフライスの師匠が何で穴が2個しなないんだ?って言ってた。

話を聞くと、師匠はあのF1エンジンOX66(YAMAHA)の加工をしていたそうだ。

OX66のポートは5個有ったって!!すげえな師匠。

ポート研磨は全ての内径を合わせろって事で、紙で基準になる型紙を何個か作って合わせていった。

こんなことばっかりしてるとレースに出れん。だからエンジンが3基くらい有ったよ。

2基は自分のあと1基は部長のやつ借りてました。

ちなみに部長はモータースの社長でした。

自分は2Tエンジンの25カローラだったな、この車も何回か借り手レースに出て勝たせていただきました。

分解~組み立てを何回もやるとトルクレンチが要らない右手になってました。

技術審判部長は全日本ラリーでナビもして人で、ダートの師匠はダートラでそのころは知らない人は

もぐりだろってくらいの人だった。

 

長くなったんで今日はおしまい。

 

 

  はじめてポンポンのったのは10歳、HONDA CUB 55だった。

 

 

 

 

 

 

コメント
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