ものつくりおじさんの制作日誌

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【雑記】ら抜き言葉

2023年06月10日 | 日記
※風邪ひいて理屈っぽくなった記事なので、読まなくて良いです(笑)

 すごくどうでもいいことだけど、小・中学生くらいで国語の先生から「ら抜き言葉は正しい日本語ではないので、注意して、正しい日本語を使いましょう」と習ったことがある。それ以来、「ら」抜き言葉がダメなんだと思い込んで、色んな人の「ら」が気になるようになった。親しい人であれば「その言葉遣い間違ってるよ」と訂正したこともある。

 そもそも「ら」抜き言葉とは何か?
現代語ではよく「たべれる」「見れる」「来れる」という用法をするが、これが所謂「ら」抜き言葉である。本来は「食べられる」「見られる」「来られる」と使うらしい。若かりし自分は、本来の用法が正しいと信じていた。

 しかしながら、最近になって「ら」抜き言葉のほうが合理的であることを知った。例えば「食べられる」を例にすると、受身・可能・尊敬の3つの意味に解釈できる。「先生は食べられた」という例文があるとすると
①先生が怪物に食べられた(受身)
②先生は毒がないので食用できる(可能)
③先生がお食べになった(尊敬)
の3パターンがパッと思いつく。
これの「ら」を抜くと「先生は食べれた」という例文になる。すると、受身と尊敬の意味合いは消えて「(何かを物理的に)食べることが可能」という意味だけに限定される。
 
 つまり、余分な「ら」が付いている事によって様々な意味に解釈できるため混乱が生じる。「ら」が無ければ意味が絞られてシンプルになる。こういう理由で現代はシンプルなほうに日本語自体がシフトしていった。これは他の言語にもよくあることで、複数の意味から1つの意味にしぼられていったり、シンプルな用法に変化していく。これを言語のドリフトと言って、まぁ当然の変化である。
日本語に限っても、古文と現代文では単語の意味や活用、文法も細かい部分が異なる。時代の流れに沿って日本語の形態も大きく変わるのは当然のことだ。

「ら」抜き言葉だけではなく、誤読や誤用も目くじら立てて「本来の正しい日本語は〜」と蘊蓄たれる古代人がよくいる(というか、自分がそうだった)。テレビでも「正しい日本語は〜」と謎の教養番組やっていたりするが、そもそも正しい日本語なんか存在しない。言語は常に時代とともに変化していく、これで良いじゃないか。

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