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日下周一(1915-1947)、悲劇の素粒子物理学の開拓者

2021-01-15 08:42:03 | エッセイ

 日下周一(くさかしゅういち)は大阪で生まれ、カナダで育ち、そしてアメリカ合衆国で研究生活を送り、31歳の若さで事故死した理論物理学者である。オッペンハイマー(1904-1967)の下で中間子や核力の研究を行い、パイ中間子が発見される前に亡くなってしまった。湯川秀樹(1907-1981)や朝永振一郎(1906-1979)よりやや若い同時代の研究者だった。

 彼は1915年(大正4年)、大阪市に生れ、5歳の時に医師だった父親らと共にカナダのバンクーバーに渡った後、ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業。MITへ留学して修士課程を経た後、バークレーのカリフォルニア大学に移ってオッペンハイマーに指導を受け、1942年春、博士号を得た。そして、プリンストン高等研究所に移り、アインシュタイン(1879-1955)の同僚後輩となった。1943年にはパウリ(1900-1958)と核力についての論文を書き、名門女子大学スミス大学の講師となった。

 その前に日米は戦争状態に入っていたから、日下は敵国人として大変苦しい状態におかれ、カナダにいた姉たちは内陸部へ強制移住させられるという具合で、戦争に翻弄されていた。1944年、日下は軍籍を得て陸軍科学研究所に移り、1946年に除隊するとプリンストン大学へ行ってウィグナー(1902-1995)の下で講師・助教授となった。そして、1947年8月31日、夏のセミナーが終わった翌日、同僚と海水浴へ行き、遠泳中に溺死してしまった。まだ31歳だった。

  バークレー時代の1939年、ソルベー会議の後にアメリカにやってきた湯川と会っている。その頃、日下はクリスティと共に中間子のスピンや宇宙線バーストに関する研究を行っているところだった。翌1940年夏、日下は初めて帰国し、大阪大学や京都大学で小林稔(1908-2001)、内山龍雄(1916-1990)らと議論し、湯川と再会した。

 日下は1939年から1945年までの間に10編ほどの論文を発表している。湯川、坂田、武谷、小林、内山らのライバルであり、彼らと共に中間子論の構築に貢献したが、研究生活は短く、まさに悲劇の物理学者であった。

 現在、プリンストン大学では日下奨学金が設けられ、日下の顕彰が行われている。

詳しくは、http://seigakukan.sakura.ne.jp/ 


■2021.3.10.追記

 昨年、大阪市立科学館館長の斎藤吉彦氏から、私たちが開催した2005年の日下シンポジウムのことを南部先生が少し紹介していると知らせて来てくれた。南部先生の追悼集「素粒子論の発展」(江沢洋一編、岩波書店)の中のp.400以下「基礎物理学-過去と未来」と題した講演録のp.423に

「先週、大阪の科学館で、私は出席できませんでしたが、日下周一というプリンストンで亡くなった日本人の追悼のシンポジウムがあったはずです。日下という人は、実はもともと大阪出身で、お父さんと一緒に、小さいときにカナダに移住して、それからバークレーでOppenheimerの弟子になった人です。それでそこのころまで宇宙線の研究をしていました。R. F. Christyと日下、どちらも大学生ぐらいだったと思いますけれども、彼らは宇宙線と大気との相互作用の計算をして、宇宙線のスピンは0か1/2でなければならないという結論を出しております。ですから、坂田さんが二中間子論を出したときも、そういうことが念頭にあったのではないかと思います。」

とある。このシンポジウムには南部先生も出席予定だったが、飛行機の都合で間に合わなかった。

 それにしても驚きは彼らの仕事が大学の卒業研究レベルだったこと。大学がまさに最高学府だった時代の伝説か。Oppenheimerは1938年に中性子星とブラックホールの理論を発表するが、これらも学生の卒業研究か、修士研究だった。むむむ・・・・・


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