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宇宙的に解く人の死の悲しみ

2021-03-10 12:40:51 | エッセイ

JR福知山線・尼崎脱線事故現場 ©毎日新聞社


 悪夢のようなあの事故の記憶がよみがえる。2021年の今年は慰霊の儀式を、小規模ではあるが、執り行うというニュースが流れてきた。

 その日、2005年4月25日は月曜日で、JR福知山線に近いカトリック系の大学への出講日だったため、大阪・梅田駅から尼崎方面に向かって行った。尼崎に着くと暫く停車し、「長いなあ・・」と思っていたら、事故があって出発の見込みが立たないというアナウンスがあった。講義の時刻が迫っている。尼崎駅で下車し、タクシーで向かった。大学へ着いた頃、西の方1km先の上空におびただしい数のヘリが舞っていて、ただならぬ状況が察せられた。尼崎駅から少し北に進んだところで大変な脱線事故が起っていた。

 それから小1年もたった頃だろうか。グリーフケアに心血を注いでおられた同大学の高木慶子教授(*)が「人の死が悲しいというのを宇宙的に見たらどうなんでしょうか?」という趣旨のことを語りかけて来られた。「宇宙的に見たら」というのは枕詞か、筆者に対するリップサービスで、全く信心の気がない筆者を少し考えさそうという魂胆だったのか、ともかくも、近々、関係の会合を催すから少し話して欲しいとの依頼であった。

 少しは考えた。結論は「人は、食物連鎖の循環からはみ出してしまった結果、もはや、食われてしまう存在ではなく、死が非日常的なものとなったため」という、高木先生の意に添わない誠に素っ気ないものになってしまった。そう、魚のように、どうしたって食われてしまうなら、たくさん子どもを作って、何%か生き延びればいいや、いちいち死を悲しんでいる暇はない、ということになるのではないか、と思った。

 筆者がガキの頃はまだ死が身近にあった。たまに80位のじいさんがいると、村民の尊敬の的だったほどで、近所のじいさん、ばあさんはたいがい60を過ぎると脳溢血で死んでいた。わけの分からぬガキどもには祝言ほどではないが、村民が皆集まり、祭りのような葬式だった。近くの坊主の読経が済めばすぐに野辺送りで、墓場までみんなで行列をしたし、その墓場には墓堀りを終えた親父連中が待っていた。じいさん、ばあさんが死ぬのは当たり前とみんなが受け止めていたのだと思う。死に場所はもちろん自宅だし、まだ死も、人の誕生も、ごくごく身近にあった。

 しかし、21世紀の現代、死も、人の誕生も、遠い、遠いものになった。死や誕生は病院にしかなかったのに、昨年はコロナ騒ぎでその病院にも近寄れず、肉親の死さえ家族から奪われた。

 コロナウイルス騒ぎで、ウイルスの殲滅が何より大事な課題のように喧伝されているが、人体の中がウイルスだらけであることを見れば、コロナウイルスを殲滅することなど不可能だろう。とすれば、如何に共存するかである。同様に死を回避するのも不可能なら、如何に折り合いをつけていくかだ。そんなことを考えさせられたニュースだった。

(*)グリーフケア入門: 悲嘆のさなかにある人を支える(高木慶子、上智大学グリーフケア研究所 編)などがある。

 


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