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信徒ウリヤの彷徨(さまよい)

或るCホームの日々、改題
 信徒ウリヤ
は、彷徨えるプロテスタント教会の信徒です。

2012年6月3日の礼拝説教

2012-06-10 19:49:31 | 礼拝説教
水戸中央教会

2012年6月3日 ヨハネ福音書14章8~17節 新約p.196
「祈りの大切さ」

  「神は愛であり、全能だというのに、
なぜこんなむごいことをするのか?本当に神などいるのか?」
という問いは、大きな災害の度に必ずと言ってよいほど問われてきました。
そして、今回の東日本大震災でも問われ、「神なんていないのだ」ということが、
声高になりました。

 「神は愛なり」これは、神の本質であり、
私たちが人を愛することを大切にする根拠です。
神が愛だから、私たちは神を愛し、隣人を愛する。神は、最高の概念であり、
最高の真理であるから、「愛」ということが、
人間にとって最も重要な概念であることをこれは示しています。
このことを信じるがために、私たちは、地震が起ころうが津波が押し寄せようが、
原発が爆発しようが、変わることなく、愛なる神を伏し拝み、
だからこそ人を愛するのです。

 この悲惨な大きな災害によって、
神を信じることが無意味になってしまったのではありません。
そうではなくて、この悲惨な大災害の中で、
私たちは人を愛するということがいかに大切なことであるかを確認しています。
 愛する人を災害によって失った、言いようのない悲しみは、
いかに人の命が、私たちに喜びをもたらし、生きる支えであり、
また、死を悲しむ者自身の命も大切なものであるかを私たちに訴えています。
したがって、私たちの神が愛であるということを、
今回の大災害は否定する根拠ではなく、
私たちは、神の愛をもってこの大災害を越えて生きてゆくことへと召されているのです。
私たちの神が愛であるがために、今、私たちがどのように生きるか、
どのように神を証しするかが問われています。

 私たちが日曜日に、仕事を休んで、礼拝に集まることを大切にするのは、
この愛するということが、何によりも大切であることを信じているからであり、
この愛は、私たち人間の内にはなく、
その源である神からいただかなければならないからです。
しかし、ここに集う私たちもそのことを知らずにいました。
 愛は自分の主観的な感情ではなく、思い込みであることを望みません。
そうではなくて、愛は、客観的に、真実な意味で、相手のためになるか、どうかを望みます。
ですから愛は、私たちの思いからではなく、神から私たちに注がれるものです。
神は愛です。
 このこと、神は愛であるということは、宗教でなければなりません。
それは、人間が人間として生きてゆくためには、そうでなければならない真理です。
人間が互いに愛し合うということ、
そして、その愛を最も大切にするということがなければ、人は自滅します。
これは宗教でなければなりません。
時代と共に変わりゆく学説や哲学であってはならないのです。

 神の愛とはどのようなものでしょうか?
 神は、ご自身の愛がどのようなものであるかを示すために、
イスラエル民族をご自分の民として選ばれました。
この民はエジプトで寄留者であり、奴隷でした。
イスラエルの先祖はアブラハムにさかのぼりますが、
アブラハムは、神によって自分の父の国を捨てて、寄留者となりました。
ですから旧約聖書には寄留の外国人を大切にすることが繰り返し言われています。

レビ記 / 19章 34節
あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、
自分自身のように愛しなさい。
なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。
わたしはあなたたちの神、主である。

詩編 / 146編 9節
主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。
しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

 神様は、イスラエルをご自分の民としてお選びになった時、
何か素晴らしい能力があったからとか、
強大な国を作っていたからと言うような理由で選ばれたのではありません。
小さな弱い民であったからだと言われています。同じように私たちも、
私たちの素晴らしさのゆえに神様に選ばれたのではありません。

 フィリポが、イエス様に尋ねます。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
それに対して、イエス様は答えます。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのだ。
なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」
今回の震災で、「神は愛だというのに、なぜこんな悲惨なことが起きるのか?」
という問いは、このフィリポの問いと同じです。

 神は愛であると、教えられ、信じていると言いながら、
私たちは、この愛である神を、一向に神としてこなかった現実を示しています。

 私たちは自分を愛してくれるのが神の役割であり、
神様としてこの愛なる神をあがめるのではなく、
愛なる神は、私の人生の幸福のために仕えるべきだとずっと思ってるから、
先のような問いが起こってくるのです。
そして、神様が自分の思う通りに、働いてくれないと、
「神などいない」と、私たちは言うのです。

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」

 私たちの心の奥底にあるのは、不信仰であり、
その本質は、愛である神を愛さないことにあります。
愛するということに価値を置いていないので、
イエス様の内に父なる神が働いておられることが、分からないのです。

 イエス様は人となられた神です。
イエス様を通して、神様はご自身の存在を具体的に示して下さいました。
 
 神は愛です。
 神は最高の権威であり、私たち人間が最も偉大な方としてひれ伏す対象です。
そのことを覚えて、心の底からの悔い改めをもって、
愛なる神を礼拝しなければならないと思わされます。
そのように考える時、偶像礼拝の愚かさが明らかとなります。

 動物や山を神として平然としていられるということは、恥ずかしいことです。
何を神とするかということは、人生の価値観を決定することですが、
私たちは本当のところ、神を何にするかによって、
自分の価値観が決定されるのだとも思っていないのです。
神の価値を決定するのは自分だと私たちは信じて疑わないからです。
 その意味では、私たちは本当に神の導きによって、
キリスト教信仰に至ることができたことを感謝しなければなりません。
そしてまた、その恵みに対して、感謝の薄いことを告白しなければなりません。
このように振り返る時、私たちは、自分が愛とは程遠いことを思わされます。
愛はどのようなものかということは、コリントの信徒への手紙一13章にも示されています。

コリントの信徒への手紙一 / 13章
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、
真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思
い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、
はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。」

この言葉に触れる時、本当にこのような愛からかけ離れている自分自身を私たちは見
出すのではないでしょうか。愛は聖霊の働きです。ペンテコステの聖日を先週、私た
ちは祝いました。聖霊に満たされた人々は、自分たちの知らない言語で、突如、福音
を語り始めました。そのような特別な経験や出来事に私たちは心を奪われますが、そ
れは何の益もないことであることが言われています。異言や奇跡や癒しを行えること
を私たちは願い求めます。しかし、私たちが願い求めるべきは、愛なのです。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真
実を喜ぶ。

忍耐強くあること、情け深いこと、ねたまないこと、自慢しないこと、
高ぶらないこと、礼を失しないこと、自分の利益を求めないこと、
いらだたないこと、恨みを抱かないこと、不義を喜ばず、真実を喜ぶこと。
これらのことが、異言よりも奇蹟よりも価値のある聖霊の働きであり、
求めるべきことです。
このことを私は求めて来なかったと、
私自身、みなさんの前で告白しなければなりません。

 ねたんだり、自慢したり、高ぶったり、恨みを抱いたりしたことなどが、
具体的な生活の中で自分でもすぐに思い浮かびます。
しかし、このような愛に反する言動は、
聖霊に満たされていないことから起こってくることだという認識は、
今までありませんでした。
「相手が悪いのだ」というように思い、正義に訴えるような気持ちが強く、
自分の霊的な状態が不完全であるからだとは思ってもみませんでした。
「神様は一体、何をなさっているのですか、早く、あの者を罰してください。」
というような信仰であったのです。

 この間違いに気づくきっかけを見出したのは、我が家の犬のダビデの病気でした。
 1ヶ月ほど前に悪性のリンパ腫であることが、分かったのですが、
その衰えていく様子を見て、「かわいそうに」という気持ちに私もなりました。
そして、その心の向きと言うか構えで、自分の不快な出来事、
他人との対立とか疑いとかを眺めると、どうしても許せないと思っていたことが、
赦せる気持ちになるのに気がついたのです。
 悲しみと言うのは、実は本当に大きな価値があると思わされたのです。
非常に積極的な意味が悲しみにはあるのだと思わされました。

 イザヤ書にも「彼は悲しみの人で」という言葉があります。
「ペットの病気ぐらいのことで、大げさな。人の死だったら、また全然違う。
大層なことだ」
と思われるかも知れませんが、私にとっては、
逆に、自分がどうしても許せないと思っていたことが、
その「ペットの病気」ぐらいのことで、
許せるとか思えるようなことだったということなのです。

ヨハネによる福音書 / 14章 15節
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

 イエス・キリストを愛する愛を増し加えて下さいと祈りましょう。
愛なる神の聖霊を与えてくださいと神様に祈りましょう。




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