この原稿は 日本ポーテージ協会の機関誌(年4回)「ポーテージ通信」の随筆欄「四季」に掲載されたものです。
沖縄紀行 日本ポーテージ協会会長 山口 薫
私が学長をしている星槎大学は、北海道芦別市に本校がある通信制の大学であるが、現在、市のほかには北は札幌市から南は沖縄市まで 全国に14箇所の学習センターを置いており、私も、担当している科目のスクーリングでこれらの学習センターを巡回して講義をしている。
最近では、沖縄市に学習センターができた3年前に一度行ったきりで、その後 なかなか機会がなかったのが、昨年12月に那覇、今年になってから名護市、沖縄市と立て続けに尋ねる機会ができた。
12月の那覇での講演会は、沖縄学習センターが準備してくれたのであるが、戦争末期、海軍特攻隊の一員であった私の、太平洋戦争最後の激戦地であった沖縄に対する個人的な思いもあり、講演謝礼なし、往復の飛行機代も溜まったマイレージを使ってということで実現したものである。
沖縄学習センターでは、星槎国際高校や大学の学生が「めんそーれ」の大きな看板を掲げて熱烈歓迎をしてくれ、夕方から行われた「上手なほめ方、叱り方ー特別支援教育推進のためにー」という講演には250席の会場に350人が参加して10時ころまで熱気あふれる会が続けられた。
2月上旬の名護市の講演会は、その、那覇の講演会に参加した名護市の教育委員会の島袋先生が、この話を名護市でもぜひということで行われることになり、また、学習センター長の上江田先生のお骨折りで、名護市の後、沖縄市の軽度発達障害親の会からも要望があって翌日の夜 親の方たちにもお話をすることになったものである。
親の会の話がきっかけで、10人くらいの方が星槎大学の学生になり、6月にはまた、「応用行動分析学」の講義に出かけることになりそうで、このように沖縄に、特別支援教育、応用行動分析学の学習会を通して輪が次々に広がっていくのはすばらしいことで、今後この輪の中にポーテージプログラムも含めていきたいと願っている。
戦後初めて、NHK厚生文化事業団の障害児童相談で沖縄を音連れた時は、まだアメリカの占領下にあり、パスポートが必要で、ドルを使い、車も右側通行だったが、その後日本に返還されてからは訪れるたびに占領当時の面影が薄れていき、今回は特に一層その感を強くした。
年寄りは今も「アイスワラ」(氷水)「ワシミシン」(洗濯機)といった英語崩れの言葉を使っており、金網に囲まれた広大な敷地に並んだ洒落たた米軍住宅や専用ゴルフ場のある風景は今も変わらないが、嘉手名基地の金網の塀に沿って名護市へ通じる立派な国道が 特別予算で作られており、サミットの会場なったホテルなど、本土にもないような豪華なホテルが建てられていた。
12月の時は、南の、町村合併で大きくなったうるま市の周辺の島々を案内してもらったが、島の人口過疎化を防ぐため、島からこちらに通いやすいように橋を架けたら、島から逃げ出してこちらに移住する人が増え、かえって過疎化が進み、その中のひとつ、伊計島ではそのため、せっかく新築した小、中学校が廃校になってしまっていた。
星槎大学では この4月から、芦別市内の、やはり廃校になった道立高校をもらって「星槎総合教育研究所」を設立、夏には宿泊研修を始める計画が進んでいるが、できれば伊計島の廃校をもらって、冬の宿泊研修センターにできたらといささか夢のようなことを考えている。
沖縄市にある学習センターは、通信制の星槎国際高校と共有であるが、そこの生徒たちはLDであったり、不登校であったり、ユニークな生徒がたくさんいて、2月のときは、沖縄のプロのミュージシャンたちが、ボランティアでやってくれている楽しい音楽の授業を見せてもらった。この高校で実施しているいろいろなゼミの中の一つ、「釣りゼミ」では、おおば島という人口3世帯6人、しかも平均年齢83歳という島で、海岸で寝袋にくるまって寝ながら、夜釣りをするというゼミが行われており、住民は一日一回通ってくる船が運んでくる物資と、釣った魚を物々交換して暮らしており、生徒たちが浜辺で夕飯の支度をしていると、島の人たちが魚を持ってきてくれて交歓するという。こんな楽しい、すばらしいゼミは日本中どこを探してもないのではないだろうか。
名護市の講演の翌日、さらに北に進んだ本部(もとぶ)町の海洋博公園で「沖縄国際洋蘭博覧会」を案内してもらった。「宮里藍」の名前の新種の蘭も展示されていたが、実家が近くの村にあり、村税の8割か9割は宮里家が納めているという話も聞いた。
「美ら海水族館」も壮大ですばらしかったが、途中、入り江の向こうに浮かぶ伊江島のとんがり山の見える場所で小憩をした。真っ青な海の向こうの、南仏、あるいは地中海のギリシャの海岸にも似た白壁の家の点在する風景にしばし見とれていると、案内をしてくれた学習センターの渡慶次(とけし)さんの「あそこは沖縄戦の最後の激戦地だったところです」という声が後ろから聞こえ、はっと我に返った。
往復の飛行機は修学旅行の高校生で満席であった。その沖縄修学旅行の見学先リストから、今は「ひめゆりの塔」が外されるようになってきたという。 沖縄の戦争の傷跡もだんだん風化しつつあるのだろうか。
沖縄紀行 日本ポーテージ協会会長 山口 薫
私が学長をしている星槎大学は、北海道芦別市に本校がある通信制の大学であるが、現在、市のほかには北は札幌市から南は沖縄市まで 全国に14箇所の学習センターを置いており、私も、担当している科目のスクーリングでこれらの学習センターを巡回して講義をしている。
最近では、沖縄市に学習センターができた3年前に一度行ったきりで、その後 なかなか機会がなかったのが、昨年12月に那覇、今年になってから名護市、沖縄市と立て続けに尋ねる機会ができた。
12月の那覇での講演会は、沖縄学習センターが準備してくれたのであるが、戦争末期、海軍特攻隊の一員であった私の、太平洋戦争最後の激戦地であった沖縄に対する個人的な思いもあり、講演謝礼なし、往復の飛行機代も溜まったマイレージを使ってということで実現したものである。
沖縄学習センターでは、星槎国際高校や大学の学生が「めんそーれ」の大きな看板を掲げて熱烈歓迎をしてくれ、夕方から行われた「上手なほめ方、叱り方ー特別支援教育推進のためにー」という講演には250席の会場に350人が参加して10時ころまで熱気あふれる会が続けられた。
2月上旬の名護市の講演会は、その、那覇の講演会に参加した名護市の教育委員会の島袋先生が、この話を名護市でもぜひということで行われることになり、また、学習センター長の上江田先生のお骨折りで、名護市の後、沖縄市の軽度発達障害親の会からも要望があって翌日の夜 親の方たちにもお話をすることになったものである。
親の会の話がきっかけで、10人くらいの方が星槎大学の学生になり、6月にはまた、「応用行動分析学」の講義に出かけることになりそうで、このように沖縄に、特別支援教育、応用行動分析学の学習会を通して輪が次々に広がっていくのはすばらしいことで、今後この輪の中にポーテージプログラムも含めていきたいと願っている。
戦後初めて、NHK厚生文化事業団の障害児童相談で沖縄を音連れた時は、まだアメリカの占領下にあり、パスポートが必要で、ドルを使い、車も右側通行だったが、その後日本に返還されてからは訪れるたびに占領当時の面影が薄れていき、今回は特に一層その感を強くした。
年寄りは今も「アイスワラ」(氷水)「ワシミシン」(洗濯機)といった英語崩れの言葉を使っており、金網に囲まれた広大な敷地に並んだ洒落たた米軍住宅や専用ゴルフ場のある風景は今も変わらないが、嘉手名基地の金網の塀に沿って名護市へ通じる立派な国道が 特別予算で作られており、サミットの会場なったホテルなど、本土にもないような豪華なホテルが建てられていた。
12月の時は、南の、町村合併で大きくなったうるま市の周辺の島々を案内してもらったが、島の人口過疎化を防ぐため、島からこちらに通いやすいように橋を架けたら、島から逃げ出してこちらに移住する人が増え、かえって過疎化が進み、その中のひとつ、伊計島ではそのため、せっかく新築した小、中学校が廃校になってしまっていた。
星槎大学では この4月から、芦別市内の、やはり廃校になった道立高校をもらって「星槎総合教育研究所」を設立、夏には宿泊研修を始める計画が進んでいるが、できれば伊計島の廃校をもらって、冬の宿泊研修センターにできたらといささか夢のようなことを考えている。
沖縄市にある学習センターは、通信制の星槎国際高校と共有であるが、そこの生徒たちはLDであったり、不登校であったり、ユニークな生徒がたくさんいて、2月のときは、沖縄のプロのミュージシャンたちが、ボランティアでやってくれている楽しい音楽の授業を見せてもらった。この高校で実施しているいろいろなゼミの中の一つ、「釣りゼミ」では、おおば島という人口3世帯6人、しかも平均年齢83歳という島で、海岸で寝袋にくるまって寝ながら、夜釣りをするというゼミが行われており、住民は一日一回通ってくる船が運んでくる物資と、釣った魚を物々交換して暮らしており、生徒たちが浜辺で夕飯の支度をしていると、島の人たちが魚を持ってきてくれて交歓するという。こんな楽しい、すばらしいゼミは日本中どこを探してもないのではないだろうか。
名護市の講演の翌日、さらに北に進んだ本部(もとぶ)町の海洋博公園で「沖縄国際洋蘭博覧会」を案内してもらった。「宮里藍」の名前の新種の蘭も展示されていたが、実家が近くの村にあり、村税の8割か9割は宮里家が納めているという話も聞いた。
「美ら海水族館」も壮大ですばらしかったが、途中、入り江の向こうに浮かぶ伊江島のとんがり山の見える場所で小憩をした。真っ青な海の向こうの、南仏、あるいは地中海のギリシャの海岸にも似た白壁の家の点在する風景にしばし見とれていると、案内をしてくれた学習センターの渡慶次(とけし)さんの「あそこは沖縄戦の最後の激戦地だったところです」という声が後ろから聞こえ、はっと我に返った。
往復の飛行機は修学旅行の高校生で満席であった。その沖縄修学旅行の見学先リストから、今は「ひめゆりの塔」が外されるようになってきたという。 沖縄の戦争の傷跡もだんだん風化しつつあるのだろうか。