もっと教師をサポートし、表彰し、若者のロールモデルになってもらおう!
星槎大学 共生科学部 助教授 野口桂子
日本の教育現場が、教師たちにとってますます苦しい場所になってきているように思う。 学校選択制により、公立の学校同士の競争が生まれつつある。義務教育の場はとくに、地道な学習や生活の習慣を身につけるところなのに、教師たちは、「親たちから選ばれる、特別な何かをもった学校」を創ることが求められていくのだろうか。現在、世界一の教育をしていると言われるフィンランドの教員たちは、「私たちは特別なことは何もしていません」と口々に言う。 ただ、習ったことが確実に子どもの身についているかどうかを確かめながら徹底して基礎学力を築いているのだ。学校は、「他の学校より高く評価される学校にしよう」とするのではなく、子どもたちが自然に成長できる場にしようと努力すべきではないか。 日本ではまた、能力が十分でない教師を学校から見つけ出し、排除しようとする動きも活発だ。 教員に対する評価を、父母たちも加わって行っていく動きがある。 教師たちの悲鳴が聞こえてきそうだ。実際、まじめで一生懸命な教師ほど、親たちからの締め付けや、子どもとの人間関係で苦しみ、心を病んでいる。
未熟な教師を何とか探し出し、無能だと決めつけて排除するより先に、もっと基本的で大切なことをしなくてはならない。それは、困っている教師をサポートすることだ。最初から完璧な親がいないのと同じで、教師も最初から熟練教師ではない。
教師は就任1日目から「先生」と呼ばれ、子どもからも親からもほぼ完璧を求められるのだが、実のところは暗中模索で、熟練教師に聞きたいことがいっぱいあるのだ。22歳で小学校教員になった筆者の記憶は実に生々しい。 どうしていいか分からないことを安心して質問でき、問題解決をサポートしてもらえるシステムを教師たちは切望しているのだ。 それがないと、教師は心身ともに疲弊してしまう。公立学校では、平成の幕開けとともに新任教員研修が文部科学省の指導のもとに始められたが、どれだけ機能しているだろうか。2006年全米最優秀教員が勤めるメリーランド州モンゴメリー学校区の教員サポートシステムを見てみよう。
まず、新任教員は、同じ学校のメンター・ティーチャート呼ばれる熟練の指導教員と1年間ペアを組む。学級経営や、授業計画、子どもの扱いなど、何でも気軽に聞くことができる。このペアリングは、校長がそれとなく新任教員の意見をくみながら決める。その他に、マスター・ティーチャーという教科ごとの熟練教師がいる。国語の教師であれば、自分では授業を持たずに2-3校の国語教師数名の指導教員として、毎週、あるいは隔週に会合をもち、どの単元を、何を用いて、どんな手法で教えるか、実践的なアドバイスをする。マスター・ティーチャーは、担当する新米教師たちの成長に責任をもち、一般の教師以上の給料を得ながら、担当教員の授業に訪れたり、時には教員同士がお互いの授業を見学したりして授業の腕を上げていく。
アメリカの教育を見てみると、優れた教師を積極的にプラス評価し、ティーチャー・オフ・ザ・イャーと表彰したり、昇給させることが多いことに気づく。National Standard for Profession というランクに位置する教師は全米の教師の5%にあたり、特別な地位、名誉、そして特権を有する。それに比べ、日本では、学歴や資格によって教師の待遇に差をつけることも非常に少なく、教員の持ち味を活かした素晴らしいパフォーマンスを、国民の注目を浴びる形で表彰する機会も少ない。 どんな教師も待遇は同じで「悪平等が平等なのだ」という、暗黙の価値観が根強いようなのだが、筆者には、それが教師の成長を妨げているように思われる。子どもたちや若者が、「あんな素晴らしい教師になりたい」と思えるようなロール・モデルとなる教師を積極的にプラス評価し、マスコミも協力して教師のイメージを上げていくことがこの国には求められている。
星槎大学 共生科学部 助教授 野口桂子
日本の教育現場が、教師たちにとってますます苦しい場所になってきているように思う。 学校選択制により、公立の学校同士の競争が生まれつつある。義務教育の場はとくに、地道な学習や生活の習慣を身につけるところなのに、教師たちは、「親たちから選ばれる、特別な何かをもった学校」を創ることが求められていくのだろうか。現在、世界一の教育をしていると言われるフィンランドの教員たちは、「私たちは特別なことは何もしていません」と口々に言う。 ただ、習ったことが確実に子どもの身についているかどうかを確かめながら徹底して基礎学力を築いているのだ。学校は、「他の学校より高く評価される学校にしよう」とするのではなく、子どもたちが自然に成長できる場にしようと努力すべきではないか。 日本ではまた、能力が十分でない教師を学校から見つけ出し、排除しようとする動きも活発だ。 教員に対する評価を、父母たちも加わって行っていく動きがある。 教師たちの悲鳴が聞こえてきそうだ。実際、まじめで一生懸命な教師ほど、親たちからの締め付けや、子どもとの人間関係で苦しみ、心を病んでいる。
未熟な教師を何とか探し出し、無能だと決めつけて排除するより先に、もっと基本的で大切なことをしなくてはならない。それは、困っている教師をサポートすることだ。最初から完璧な親がいないのと同じで、教師も最初から熟練教師ではない。
教師は就任1日目から「先生」と呼ばれ、子どもからも親からもほぼ完璧を求められるのだが、実のところは暗中模索で、熟練教師に聞きたいことがいっぱいあるのだ。22歳で小学校教員になった筆者の記憶は実に生々しい。 どうしていいか分からないことを安心して質問でき、問題解決をサポートしてもらえるシステムを教師たちは切望しているのだ。 それがないと、教師は心身ともに疲弊してしまう。公立学校では、平成の幕開けとともに新任教員研修が文部科学省の指導のもとに始められたが、どれだけ機能しているだろうか。2006年全米最優秀教員が勤めるメリーランド州モンゴメリー学校区の教員サポートシステムを見てみよう。
まず、新任教員は、同じ学校のメンター・ティーチャート呼ばれる熟練の指導教員と1年間ペアを組む。学級経営や、授業計画、子どもの扱いなど、何でも気軽に聞くことができる。このペアリングは、校長がそれとなく新任教員の意見をくみながら決める。その他に、マスター・ティーチャーという教科ごとの熟練教師がいる。国語の教師であれば、自分では授業を持たずに2-3校の国語教師数名の指導教員として、毎週、あるいは隔週に会合をもち、どの単元を、何を用いて、どんな手法で教えるか、実践的なアドバイスをする。マスター・ティーチャーは、担当する新米教師たちの成長に責任をもち、一般の教師以上の給料を得ながら、担当教員の授業に訪れたり、時には教員同士がお互いの授業を見学したりして授業の腕を上げていく。
アメリカの教育を見てみると、優れた教師を積極的にプラス評価し、ティーチャー・オフ・ザ・イャーと表彰したり、昇給させることが多いことに気づく。National Standard for Profession というランクに位置する教師は全米の教師の5%にあたり、特別な地位、名誉、そして特権を有する。それに比べ、日本では、学歴や資格によって教師の待遇に差をつけることも非常に少なく、教員の持ち味を活かした素晴らしいパフォーマンスを、国民の注目を浴びる形で表彰する機会も少ない。 どんな教師も待遇は同じで「悪平等が平等なのだ」という、暗黙の価値観が根強いようなのだが、筆者には、それが教師の成長を妨げているように思われる。子どもたちや若者が、「あんな素晴らしい教師になりたい」と思えるようなロール・モデルとなる教師を積極的にプラス評価し、マスコミも協力して教師のイメージを上げていくことがこの国には求められている。