神の国

 私
 は
 神
 だ
 が、君は誰だ?

え?お宅の幼稚園、警視庁から広域指定暴力団に認定されてますよ。

2010年07月24日 20時08分38秒 | 全自動随筆
 シリーズ・世界一納得のいかない社会的地位の失い方。
この人痴漢です。
え、違う?あ、この人両手で鞄持ってるのを見てた?
じゃぁこっち。こっちの人が痴漢です。こっちの人が痴漢ということでいいです。そうです。もうこっちの人が痴漢ということでいいですから警察呼んで下さい。








 自分がブログやっとるの忘れとった。
 そういうわけでごめんなさい、お久し振りです。猛暑。
 そこかしこで高齢者・障害者などが熱波で溶けたり蒸発したりしている昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。
 僕はあまりに熱いので、ズボンのチャックを開けたり戻したり戻したと思ってたのに全開だったりしております。主に全開であることが多いです。
 でも、隣の家のジジィとかはもう、逆に「たまには閉まってることもある」的な状況になっておるので、僕などはまだまだ甘いな、と自らの甘さを痛感しております。そういうことで斜向いの家のババァは一昨日、姦通罪で特高警察に連行され、ボロクソにされてました。

 何か市民運動みたいなのが盛り上がり、「高岡さんの家のおばあさんを帰せ!市民ネット」とかがどうこう騒いでましたが、こちらの知ったことではありません。左翼の家だけ全部地盤沈下で地下500メートルの所まで陥没し、全員地底人みたいになればいいのに。



 それで。
 まぁ昨今はこちらも熱中症になりながら金持ちの家の換気扇やエアコンを洗浄したり、あとどうしようもない工務店の下請として、どうしようもない仕上がり(玄関開けたら先ず便器があり、その便器のふたを開けると中にリビングがある、的な)の家の洗いをしたりしております。もうこの家とかのレベルになってくると、いったん全部焼き払ってから、掘っ立て小屋を自分で作った方が、施主さん的にも社会的にも、良いんじゃなかろうか?といった初歩的な疑義がムクムクと真夏の入道雲の如く僕の心の中で大きくなりながら、必死にあらっております。一生懸命がんばっております。お金を下さい。

 こないだなんか街を歩いていたら、誰某ちゃんを助けよう募金!といった趣旨で通行人から5円や10円をむしりとる、あまり上品とはいえない連中が京都駅の前で右往左往しておったので少しその人たちのお考えなどを伺っておりました。
 その人たちによると、誰某ちゃんという赤子が生まれたはいいが先天的に心臓だか腎臓だかがアレなので、アメリカに行って手術をしたい。つきましては9000万円が必要なので、この通り往来の皆様から金銭を徴収して誰某ちゃんの命を救いたいという、 申し訳ないが「知ったこっちゃない」レベル99突破な話をされておりました。

 率直に申し上げて、私は今やこの炎天下の作業においてあなたがたの常軌を完全に逸するほど汗をかきまくり、辛うじて命を繋ぐ源となっておる「ポカリスエット」などの購入にも事欠く折、他の人のことまでは手が回らないので、「どうもすいません」とだけ申し上げてその場を辞退いたしましたけれども、まぁ、何と言うか。

 これは私の個人的な考え方ですけれども、我が子と言うものはやはり可愛いものです。それはそれはもう可愛いものではありますが、だからといってわが子の為に赤の他人から金を徴収してまで延命を図ろうというのは、ちょっとアレだと、思ってしまうのです。
 例えばその誰某ちゃんは9000万円で助かるのかもしれませんが、では一方9000万円あればアフリカの「誰某ちゃん」は何人助かるのか。あるいは野にダンボールを編んで暮らしておられる粋な方々は何人助かるのか。そういった基本的な相対化の論理を抜きにしても、管だらけになりながら本来であれば静止するはずの脈動を科学力と言う人為的な技術でもって強制的に循環せしめておるその写真を見せられる時、或は、その写真を大きく引き伸ばしたものをプラカード代わりに振り回し、募金活動運営者が、いわば「可哀相感」の呼び水として利用しているのだということがほんのりと感じられる時、私は、恐縮ではありながらも純朴な感情以上の何か、ある種グロテスクですらある人為の綾の澱のようなものを本能的に感じ取ってしまい、嫌悪感すら覚えるのですけれども、まぁ、まぁ。

 その「誰某ちゃん」の親や親類が、純粋にその様な活動をするということに対しては、これは素朴に応援したい。私が金持ちならば、勿論支援することもやぶさかではない、けれども、その様な活動をしておる連中と言うのを見ておると、あまり「純粋」とも思えないような感じが、まぁ特に根拠もなくこういうことを言ってしまい恐縮なんだけれども、ある。
 それは必ずしも「利権ビジネス」的輩のみならず、何かと何かを勘違いしてしまった似非ヒューマニズム的白人根性が垣間見られる、まかり間違えば統一教会入って布教してそうな輩をも含めて、あまり「真っ当な」やり方ではないな、と、斯様に私は思います。

 「死」という現実を受け入れるというのは大変に厳しいことではあります。
 特に、「自らの」ではなく、「我が子の」ということになれば、尚更にそうでしょう。
 しかし、その現実というもの、万人万物に等しく宿命付けられた「死」というものをなりふり構わず忌避するのではなく、死を生の一部、否、生を死の一課程と捉え達観せよというのは己にも出来ぬ無茶なことでしょうけれども、もしも私が死に行く我が子の親ならば、遮二無二生かす方法を考えるのではなく、小さな命と共に、死と言うものと寄り添った生き方を模索するであろうなと思うわけですが何か偉そうなことを言い過ぎた、うんこ。








業務連絡・業務連絡
ケアマネージャーさん、僕のうんこが漏れました。トレーニングパンツを替えて下さい!!!






(終演)