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かつて吉川ベルクローチェと呼ばれ、その後は田所ダボ太郎とも呼ばれ、一時は吉川と田所が混在したりしなかったりし、そして今、新たに吉川オートクチュール退蔵と呼ばれ始めている彼は正に今、意味の分からないこの男に引かれるままに薄汚れた廃ビルの非常階段13階踊り場にいた。
吉川をここまで連れてきたその例の男、仮にアイスコーヒーズボ山とするが、そしてここで衝撃のお知らせになるのだが「アイスコーヒーズボ山」というのは仮でも何でもなく直撃でこの男の本名なのであるが、というかそもそもそんなふざけた姓氏などあり得るのかという鋭い世論の声に対抗する為に私は次の事実だけを簡略に伝えるが、何故わざわざ簡略になどと偉そうなことを言うかというとつまり、私は今、借金の返済問題などの処置でとにかく忙しいのだけれども、まぁとにかく、アイスコーヒーズボ山は自身の本名をこの様にする為にわざわざ日本国籍を捨て、いったんウルグアイ人になっていた。ウルグアイ人になり、ウルグアイとかはもう全般的にやりたい放題なので、やりたい放題の国なので、国というかもうこれは何だろう、何なんだろう、何と言えばいいのだろう、私はウルグアイをどう言ってやればいいのだろう、っていうかウルグアイって何? 的な風情、といったものの詩的表現というかそれを言う、ってかよく考えるとその点を言うつもりはないし、読者諸氏に対し私はそこまで親切ではないから、お前らそれぐらい自分で考えろと平気で突き放すのだが、突き放したら突き放したでちょっとこれどうにも心配になってくるじゃないですか。嫌われるんじゃないかなとかが。嫌われるんじゃないかなとか、陰で悪口言われるんじゃないかなとか。だから、あの、
とにかく、すいませんでした。
それで、話が戻るがアイスコーヒーズボ山は吉川を廃ビルの側面を蔦の様に這う非常階段13階の踊り場までつれてきたのである。第六話はここから始まる。
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「君」
「はい」
吉川は無言で非常階段を登り続け、踊り場で突然止まっては振り向き、呼びかけるアイスコーヒーズボ山に戸惑いながら応えた。
「あそこに牛乳屋が見えるだろう?」
アイスコーヒーズボ山、いちいちアイスコーヒーズボ山と言うのもなんだか大変だし、読者諸氏もきっと煩雑に思われるだろうから以下、アイスコーヒーズボ山のことをズボり川と呼ぶことにします、それで、そのズボり川はそう言って向こうの方を指すのだが、残念ながら非常階段のある廃ビルの四方八方はこれまた無駄に高い廃ビルたちに囲まれており、周りは裂け目の様なほんの僅かな隙間があるだけで見通しの様なもの、眺望と言ったものは全くなかった。なかったというか、廃ビルと廃ビルの間は裂け目ぐらいしかないから、非常階段の踊り場から手を伸ばすと隣の廃ビルが余裕で触れてしまうので、見える見えないの世界ではなかった。なかったし、ズボり川も「あそこに小汚い牛乳屋の看板が見えるだろ?」とか言いながらすごい勢いで前方を指さしたのだが、隣の廃ビルとの間に指さすほどのスペースが、だからないから、信じられない勢いで指を隣の廃ビルの壁に垂直にぶち当てており、突き指がどうしたとかの次元に時局は留まらず、端的に申し上げて右手人差し指の第二関節が目一杯破砕骨折を為し、指先が90度直角に折れ曲がり、引き裂けた断面の肉からは速やかに血が滲み始め、堰を切った大水の様にその量を増していた。
とても分かり易く言うとやり過ぎて指の第二関節から向こうが本体からファラウェイしかけとった。どうにかこうにか肉だとか皮膚だとかが、その両者の紐帯になっていた。第二関節から向こうがズボり川の本体から宇宙遊泳状態だった。そしてその切断面からは、夥(おびただ)しい鮮血が心筋ポンプ経由で噴き出していた。
ズボり川は指先を全く意に介さずに説明を続ける。
「あそこに見えるのがそう、今回君に一仕事してもらう、池畑牛乳店と言うわけさ」
前述の通りズボり川が指さす方には隣の廃ビルの鮫肌なコンクリート壁しかなく、視界ゼロなわけだから、視界ゼロ地点なわけだから、そこは視界がゼロ地点なわけだから、池畑牛乳店などというものはこれっぽっちも見えないし、血飛沫とかも凄いし、あと普通、多少なりとも止血するなりなんなりして出血の勢いを弱める努力が為されそうなものだが、まぁ、完全にストレートに人指し指の第二関節が破砕骨折を起こし指が90度曲がり、かつ一切動じない人間というのに吉川はこれまで一度もお目にかかったことがないから、こういう場合、事態がどの様な推移を見せるのが常道なのか分からないんだけれどもとにかく、流血を弱めるなり叫ぶなり何か動きがありそうなものなのだが、ズボり川の場合は流血がどんどんと激しくなり、一体君の体には何リットルの血が流れているのかと思う程になってきていたが、全く動じることなくカリフォルニア州沿岸の眩しい日差しみたいな笑顔を吉川に向け続けていた。
この出血がどれほど凄かったかというと13階の非常階段踊り場から流れ落ちるズボり川の瀧の様な血はたまたま下の廃ビルと廃ビルの間を子連れで歩いていた斑猫の一家3匹が落下する血圧で、大量の丸太が流れ落ちる華厳の滝で無謀にも滝行を試みた人、みたいになって死んでいたそうである。あ、話を戻す。
彼は急に険しい表情になると吉川の耳元に口を近付け、辺りを伺ってから慎重にこう囁いた。
「全て計画通りだ。決まったことを決まった通りに、頼む」
「・・・と、いいますと?」
「殺れ」
「は」
「あの池畑牛乳店の連中を、殺るんだ」
「は」
「いいか、全員だよ。間違いなく全員、確実に、殺るんだ、殺るんじゃ、殺るんじゃぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!」
何で君はそうやかましく叫ぶのか。
というかその前に、まず君は何処の何を指さして喋ってるのか、と、あと、君の血はもうとっくに君の体積以上流れ出てるんだけどその仕組みはどうなっているのか、の都合3点がもの凄く気になるのだが、ズボり川の殺気なのかそういう押しの様なものに押される吉川は何と返答してよいやら分からずとにかくズボり川が指さす、指さすというか、形としては隣の廃ビルの壁に人指し指の第二関節がどん詰まってそっから先が90度折れ曲がっている状態を見詰めた。指先からは引き続き本当に信じられない量の血が流れ落ち続けている。しつこいが下を歩いてた猫の一家が死んだぐらいだからこれはもう本当に凄い。
何と返答していいか分からないし、と言って質問できる雰囲気じゃないしで、前にも後ろにも進めなくなった吉川はそのまま無言で血液噴出ゼロ地点を見詰め続けた。どうしようもないから見詰め続けた。難儀な話だ。
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その状態で二人が静止したまま二度目の太陽が昇っている。
横を見ると二日前と何一つ変わらぬ状態で、西海岸的なお仕着せがましい笑顔を吉川に向け続けながら毎分170リットルの勢いの血液を噴射し続ける、ズボり川がある。庭園の池の真ん中に立つ彫像じみた様で一切変化無く静止する彼。いや、一カ所変わっていて、たった二日だがズボり川の髭は何故か呪術師みたいに延びまくっていた。あと、よく見たら腕毛も凄く伸びており、毛足が10センチ程度だろうか、オランウータンの腕みたいになっていたし、あと、もっとよく見たら複数の耳毛が扇状に直毛で伸び続け2メートルぐらいになっており、耳に孔雀の羽を大量に刺した人みたいになっていた、あ、二日前と変わってるの一カ所じゃなかったですね、ごめんなさい、でもとにかく、それ以外は何一つ変わらず、ズボり川は二日の間静止し続けたのだし、吉川は吉川で返答のしようがなかったからとにかく指先を見詰め続けていた。双方がそうして人倫の極北で静止する中を、地球は回り月も回り、太陽も銀河の中心に対し回転をし、その銀河もまた何かを軸にして回り、その軸は軸で次の軸に対し回りと言う風な回り回った二日間が、実に遠慮がちに横切ったのである。
その異常なスナップ写真的静寂を先に破ったのは吉川で、極めて簡潔に一瞬だけ、ズボり川の方をチラと横目にした。彼は、当たり前だがズボり川の耳毛が伸びすぎて孔雀の羽みたいになっているのを目撃し、当惑して視線を血流ゼロ地点に戻した。念の為に言うがこの二日間、ズボり川の流血量に一切変化は見られず、毎分170リットルを守り続けている。
「知らん間にこの人、耳から孔雀の羽みたいなのが大量に出とる」
吉川の頬を汗が伝った。
森閑として在るズボり川。
内心を乱す吉川。
勝負はあったようなものだ。
無力感に駆られる吉川は、ズボり川の折れ曲がった方の指先、壁に精神病の勢いで打ち付けられ、骨は完全に砕け、指の腹側の肉と皮膚だけで辛うじて繋がり無惨にもダラリと垂れ下がるその指の先、指の、駄目になった方の指す先、つまりは真の意味での指先の示す方、爪の果て、地の終わり、地の終わりは関係ない、爪の果て、に、ほとんど無意識に視線を走らせていた。その時。その、爪の果てが指す場所、そこにそれは、橙色に染まる朝焼けの世界で、鈍く火照っていた。吉川は目を細め、そして、見開いた。
「・・・あった」
吉川がこの根比べの様な48時間強で始めて上げた声がこれである。
あった。ズボり川の折れ曲がった指の指す先。廃ビルと廃ビルの隙間が表の道路と交わるその先。薄暗い非常階段の踊り場から光を求めるように伸びたズボり川の爪の延長線上。道路をバスが横切るのが見える。そのバスが過ぎる。やはり現れる、煤だらけの看板。
「あった」
幾分語気を強めて、吉川は言った。
あったのだ、確かに。その先に。「池畑牛乳店」と書かれた薄汚い看板が、爪の果て視線の先に、確かにあった。
「ありましたよ! 池畑牛乳店の看板、ありましたよ!!」
吉川はズボり川を見て何が嬉しいんだか破顔して言った。
その瞬間、ズボり川はまるでネジを巻かれた時計の様に突然動き出したのだが、その第一声はまことに不合理としか言いようがない。
「見えた? って、っった、痛っった痛っったえ、何これえ、え、あ、これ、え、あ、指これ、何、何で何が、え、これあの、血、え」
48時間ぶりに動き出したズボり川は何がどうなるのかと思いきや突然パニックに陥った様に叫んだ。
そして、折れてない方の手で何か違和感を感じる自分の側頭部の辺りを手探りにすると、孔雀の羽の様に伸び果てる己が耳毛を掴み、しならせ、視界に入れた。それを見止めた彼は顔は恐怖に歪めて再び叫んだ。
「ほんでこれ何よ、え、あ、え、え、え、え、これあ、え、羽? 孔雀? な、孔雀の羽? ほんで何ででで、あの、これあの、え、生えてる? 耳から? え、羽生えてる? それはそうとぎゃああああああああああああああああああ血があああああああ血が血が血がとにかくすげぇというかあのこれ、あのおおおおおおお夥し過ぎるやろおおおおおお出血の量がおびただあああああゆっつううううううびいいいいいいいいいがああああああああああ!!!」
錯乱状態で頭を激しく手すりに打ちつけ、放水銃の様に血を噴出する指を腕ごとぐるぐる振り回したズボり川は、そのまま「いやじゃああああああ」と叫びながら非常階段を掛け上がろうとし、二段ぐらい上がったところで耳毛が廃ビルと廃ビルの間に挟まりバランスがおかしくなったのか、急にきりもみ状に横っ飛びをしてそのまま非常階段から転落した。
上から見下ろした吉川には、13階から転落し、弾けた血で大きなヒトデの様な形を描き出している今さっきまで「ズボり川」であったらしき物体が目に入った。
吉川を静寂が包んだ。
しばらく静観した吉川は、やがて独り言ちた。
「男が一人命を懸けたんだ。彼の意志を継ぐのは、自分だ」
(つづく)