神の国

 私
 は
 神
 だ
 が、君は誰だ?

全自動首刈機にまつわる昔話(ゼンマイ式)

2011年03月21日 00時00分15秒 | 全自動随筆

 

 お久し振りですが、早速で悪いけれども気が晴れない。

 何と言うか、世間と言うものが、これが中々に騒がしいわけだが、そういうこともあるのかもしれない。

 例えば原発の件などが、現在進行形であるわけだけれども、そういうこととは別に、現在までに確定している被害状況と言うか、復興とかに関する銭勘定などを極めて素人である私が極めて雑に計算してみても実に絶望的なのであって、チェルノるとかチェルノらないとか、そういう問題抜きにしてこれは…あの、日本……うわぁ。といった思いがある。

 

 原発だとか、略奪だとか。

 そういう話で言えば、シチュエーションというのは、まぁ、私が一時、狂ったように熱中して書き続けておった「Doblogサンポール・シリーズ」などでも「原発割れろ!」とか「原発裂けろ!」とか、「漏れろ!」とか「漏らせ!」とか、「ねじ込め!」とか「漏れたソレを口にねじ込め!」とか、「漏れ出たナニをヤットコでこじ開けたおばあちゃんの口にロートで流し込め!」とか、まぁそういうことをムチャクチャにわめき散らしていたのだが、勿論、実現してよいわけがない。

 私というキチガイの、脳の中を飛び交っておったひどく歪んだ電波達を無理繰りに文字変換して、なーんも考えずに垂れ流した文章の様なことが実際に起っていいわきゃないのだ。そんな風にはできていない、という大前提の上でのサンポール文学なのであって、率直に言って営業妨害なのだよ、世情。世情と言うか、今おきておることたち。つまり、地球。地球と、それに付随する人と人の綾。だから世情か、世情。

 そんな思いがある。

 

 少し飛んでしまうが、そういうこととは別の次元で、私は今、まぁそれなりに塞(ふさ)いでおるのだ。

 別に何があるわけじゃないが、まぁとりあえず金銭的にはこれは辛い。

 辛いけれども、今に始まった話じゃなし、今更どうこうと言うまでもないこと。どうと言うこともないのだが、勿論、何とはなしに仄暗くなって来る展望は精神衛生上決して褒められるものではないし、順当に呻いたり魘(うな)されたりしつつ、少しずつ私の「マトモ」とやらを蝕んでおる。具体的には独り言が増えた。この人は相当アブナいんじゃなかろうか。

 辛いなぁと思う時に「辛いなぁ」と言っておる自分を見つけてはハッとする昨今。ということに書いておるこの瞬間に気が付いて、尚のことハッとなっておる。ハッとすることにハッとなった。のだが特に手があるわけでもなし、まぁ、処置無しでござるよと、ゆるりと構えておると見せかけて日々泣いています。泣いております。その上、手酌酒です。泣きながら手酌酒です。私、泣きながら手酌酒です。

 

 に、加えて。

 直接的に私が何かをどうかされたということではないということはハッキリと断った上で言うのだが、何と言うか、愛想が尽きた。

 こういう言い方はミもフタもない上に情けもないので言いたかないが、まぁ言わせて下さい愛想が尽きた。

 結局、人は自分のことしか考えていないのである。愛だ平和だ、何だ、かんだ、まぁ、色々と御託を並べて。石削ってゾウ食うとった頃よりも、いくらかでもマシというか、秩序というか。秩序という言葉もどうかと思うのだけど、つまりは、「積んで」きたと。いくらかは積み上げてきたとその様に、主に教育などという実に都合のよい鋳型にはめられて作り上げられるわけだけれども、私の如き「教育?そんなん知らんおならプー」とか言ってた人間でも、それでもこれは、何と言うか、祈りというのか願いというのか、あるいはまぁ、あまり好きじゃないんだけれども希望だとかいう、そういう様な次元で、正直に言って多少はあったのだ。

 「あったんかい」と熱心な読者諸氏からはキレられかねないが、正直に言わせて貰えばそりゃ、0じゃないよという、そういう風な所にあったのだけど、そういうことに対してもう、本質的に疑うというか、ある意味では直視しだしたのであって、つまり、この世っていうのがどこまでもどこまでどこまでも、100kmの金太郎飴を108本つないだように紋切り型で効率化と利己主義でできあがっとることを実感した。

 繰り返すけれども、別に身近に何か、具体的にあった訳じゃない。それはそうなのだが、何だろう、まぁ、何故だか急に、身につまされたのだ。というか、自分自身の中にそういうのがあるということを思い出したというか何と言うか。

 自分は利己的ではないと思っていたわけじゃなく、当然にそういうのは分っていたのだけれども、その分っていたの質が一つ上がった。分るというよりも、その感覚に同化してしまったような、そういうのを感じる。空間中が効率化と利己主義で飽和しているのが見えてしまうわけだ。見えてしまうものはどうしようもないじゃない。

 

 ああ。あ、そんなにアレなわけ、そんなに、あの、利己的なわけ?え、ホンマに?ホンマにそんなに、アレなわけ?

 

という実感を、文字通り「リアル」に感じてしまうのだ。

 

 分りにくかったら謝るけれども、別に利己的なことをどうこう言うつもりはない。利己的だろうが何だろうが、別にこちらは構わない。それの何がイヤといって、人間とやらが作ってしまった世界を作る「利己主義」というのは、あまりにも「利己主義」的なものだから、自分が利己的であることも利己的に忘れられるように作ってある。これが、もう何というか、うわぁわわわー。といった、アレなのだ。

 うんこの最後のプライドは、自分がうんこだと知っていることだと思う。うんこであることを忘れたうんこは、既にうんこですらなくそれはもううんこのうんこだ。うんこうんこだ。何の話だ。分らなくなった。分らなくなったぜおっほほーいおっほほほほほほほほほほほほほほほ

 

 というわけで、狂った。 前にもまして狂ってきているのを感じている。そりゃ読んでいるあなた方にしてみれば見ず知らずの狂人がよりいっそう狂おうが何しようが、別にかまわんだろうがこっちとしてはもう、アレなわけよ、我事なわけだから、まぁ、危機感も通り越して、順当に哀しくなる。いい歳をしてうんことか平気で書いてしまう自分が哀しくなる。書かなきゃいいのにと思う向きもあろうが、自分だったそんなこと、とうの昔に知ってるんだよでも書くんだようんこという、そういう風情なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うんこ。

 

 

 

 

 ね、愛想が尽きるでしょう。そういうこと。

 

 

 

(了)