聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

今やごくわずかの信者だけが跪いたりするだけ

2017-06-12 06:22:55 | 公開書簡
 天主とは何かを知り、天主への畏敬があるキリスト者は、今日祈らせられるそのやり方には抵抗を感じます。暗記で覚えて文句は「同じことを何回もくどくどしい」と形容され、子どもたちにはそれをもはや教えなくなってしまったのです。その様なものは、主祷文(「天にまします」の祈り)を例外として公教要理の本にも載っていないのです。しかもその「天にまします」の祈りはプロテスタントに影響された新しい祈祷文で、天主に対して「おまえ」(tu)と呼ばせるのです。天主を何でもかんでも「おまえ」と呼ばせるのは大きな崇敬の印ではありません。このことは私たちの言語の特性にはあっていません。私たちの言語は、私たちが目上、親、友達、など誰に向かって話しているかに従って、別の呼び方をするのです。公会議後の「天にまします」において、天主に向かって私たちを「誘惑に陥れ(soumettre a la tentation)」ないようにと祈るのです。これは少なくとも曖昧な表現です。それにひきかえ、伝統的なフランス語訳は、ヘブライ語から不手際にそのまま字句通りに出来たラテン語を改良したものだったのです。[Et ne nous laissez pas succomber a la tentation.]その新しいフランス語の訳に何らかの進歩があったというのでしょうか。天主様の「おまえ呼び」は、俗語の典礼の全てを侵略しました。「主日の新しいミサ典書」は天主様を「おまえ」でだけ呼ばせ、これを義務づけています。フランスの習慣と文化とにかくも反するその様な変化を導入する理由も見あたらないままです。

 カトリック・スクールで十二歳から十三歳の生徒たちに試験をしてみました。天にましますを、(勿論フランス語で)知っていたのはほんの数人しかいませんでした。また「めでたし」に祈りを知っていたのも数人でした。一人か二人の例外を除くと、使徒信経、告白の祈り、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、痛悔の祈り、お告げの祈り、聖母のご保護を求むる祈り、など誰も知りませんでした。この子のほとんどがその様な祈りのことを一度も聞いたことがなかったのですから、どうしてそれを知ることが出来るでしょうか?「祈りとは『自発的』でなければならない」とか「天主様には心から溢れるもので話さなければならない」とか今日よく言われます。そして教会の素晴らしい教育法などは問題外なのです。教会はこの様な全ての祈りを巧みに作り、大聖人でさえもその祈りを拠り所としたのです。

 今日誰がキリスト信者に朝夕の祈りを家族そろって唱えるように、食前食後の祈りを唱えるようにと励ましているでしょうか。多くのカトリック・スクールでは授業の初めに祈りをしないと聞きました。それは不信仰の生徒とか別の宗教を信じている生徒がいて、彼らの良心を刺激してはならず、また、凱旋主義的な感情を見せてはならないからだそうです。これらのカトリック・スクールに非カトリックの生徒やキリスト教を信じない生徒たちを過半数以上多く入学させ、しかも彼らを天主へと改心させるには何もしないで良しとしているのです。少数派のカトリックは、自分の同級生の意見を尊重するという名目で、自分の信仰を隠さねばなりません。

 今やごくわずかの信者だけが跪いたりするだけです。跪く変わりに御辞儀をしたり、あるいはさらによくある場合なのですが何もしなくなってしまいました。ですから教会にはいると跪きもせずにすぐに席につくのです。教会の備品は取り替えられました。例えば跪き台は壊され火にくべられました。多くの教会では映画館にある椅子と同じものを導入しました。こうして教会はコンサートに使われ、聴衆はそこに気楽に腰掛けています。私はパリの大きな教区の教会の中にある「聖体礼拝堂」の報告を受けたことがあります。この聖体礼拝堂では近くで働いている多くの人たちが昼休みに御聖体訪問をしていました。ある日、その聖堂は改修のためにしばらく閉鎖になりました。改修工事が終わってまた門が開かれるようになると今度は跪き台がなくなっていました。快適な綿毛の絨毯が敷かれ、その上には間違いなく高価な、ふかふかとした深い腰掛けがあったそうです。その腰掛けは大きな会社や航空会社のロビーにあるのとよく似ていたそうです。信者たちの立ち振る舞いもすぐに変わってしまいました。絨毯の上に跪く者もいましたが、大多数は気楽に腰掛け、御聖櫃の前で足を組んで黙想しました。この教区の聖職者たちには、明らかに全く特別な意図があったはずです。なぜなら、こんなに高価なものを導入することを決定するにはそれなりの考えがあったに違いないからです。ここに、天主と人との関係を天主と同等の立場で接するように、もっと馴れ馴れしくし、ぞんざい、無遠慮にさせようという意図があるのに気付きます。「宗教の徳」と呼ばれるものを具体的に表す全てのしぐさを廃止してしまって、一体どうやって万物の創り主にして最高の支配者である方の御前にいることを確信できるでしょうか。御聖櫃の中にまします、主の現存の感覚をも減少させてしまう危険がないのでしょうか。


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