聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

イスラム教はコーランでのアラビア語の強制によって統一性を保っている

2017-06-19 16:54:13 | 公開書簡
 そのような共同体は何らかの利益を得るでしょうか。特定の典礼言語が、普遍言語であるラテン語を使っている人々(もしかしたら、多くの人々はその意味が理解できないかもしれませんが、翻訳物を見ることができます)よりも、熱心にしたし、より宗教を実践するようになったと言うことは、明白であるとは誰にも言うことができません。

 もし、カトリック教会外を見てみるとすると、イスラム教は、トルコ、北アフリカ、インドネシア、あるいは、ブラック・アフリカなど、様々な地域、様々の民族に広がっていますが、どうやって統一性を保っているのでしょうか。それは、彼らに、コーランが書かれている唯一の言語としてのアラビア語をどこにでも押しつけることによってです。私は、アフリカにいるとき、マラブー族の人たちが、その一言も訳の分からない子供たちに、コーランの節を暗記させようと教えているのを見ました。さらには、イスラム教は、自分たちの教典を翻訳するのを禁止さえしているのです。今では、多くのフランス人の改宗者を出すマホメットの宗教を感嘆し、フランス国内にそのモスクを建設するために、教会内で献金さえもしているのはよく見かけることになっています。しかし、イスラム教のうちから参考にすることのできる唯一の例、つまり、祈りと礼拝とのためについいつの言語をあえて保持すること、という例から、息吹を受けようとすることは決してしようとしません。

 ラテン語が死語であるからといって、ラテン語を使うことに何ら妨げになりません。かえって死語であるということは、時代の流れに従って自然に起こる言語学上の変容に対して、信仰の表現を保護する最高の手段となるのです。ここ数十年の間に、意味論の研究が非常に盛んになり、中学校ではフランス語の科目の中にも取り入れられたほどです。ところで、意味論の対象の一つに、言葉の意味の変化、つまり、時の流れに従った、そしてしばしばそれは大変短い間における時代の、意味の微妙な変質があるではないでしょうか。信仰の遺産を、グラグラと安定していない言い方で言わなければならなくなるという危険を理解するために、この学問を利用することにしましょう。

 人が手を加えて変えることもできない永遠の真理を表現しようとするとき、絶え間なく移り変わる言語で、しかも国によってさらには地域によって別々の様々な言葉で、いかなる変質も欠けたところもなく、そのまま2000年間も保存することができたとでも信じているのでしょうか。今使われている「生きている言葉」は移ろいゆく変化するものです。もし典礼を今の言葉に託したとしたら、意味論に従って絶え間なく変えていかなければならなくなるでしょう。ですからそのために新しい委員会を絶え間なく作らなければならなくなり、司祭がそのためにミサを捧げる時間さえもないのだとしてもそれは驚くに値しません。

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