幼馴染の市原市鶴舞在住の「みの」が故人になられていた。私より2歳年下だが、4年前にお会いしたのが最後だ。彼の作った釣り竿と用心棒の竹竿は、大切にしている。千葉県の紹介文では次のように書かれている。
佐藤稔
佐藤さんは、平成三年度に県の伝統的工芸品に指定された「上総和竿」の製作者で義父である忠章氏とともに和竿の製作にあたられ二代目「竿つる」の商号を引き継がれています。原材料である竹の採取から製作までを一貫して行い、釣り竿としての実用性のみならず丹念な仕上げによる美しさを兼ね備えた竿に仕上がっています。製作する竿の種類は、幅広く、しゃくり竿、磯竿、へら鮒竿、渓流竿にまでおよびます。
彼は、東京大空襲で命からがら一家で市原市島田の母の実家に移って来たが、生活は悲惨であった。見かねた母が裏の竹山を切り開いて住まわせた。上に3人の男子、下に二人の妹がいた。隣組である。彼の兄弟は、学校にも行けない貧しさであったから私は戦争の悲惨さを今でも辛く感じている。このことは、執筆意欲がもどってきたら 自伝風に書こうと考えている。今、彼の死亡を県のインターネットで知ったばかりで思い出すと悲しみが募るばかりだ。ご冥福を祈ります。
佐藤稔
佐藤さんは、平成三年度に県の伝統的工芸品に指定された「上総和竿」の製作者で義父である忠章氏とともに和竿の製作にあたられ二代目「竿つる」の商号を引き継がれています。原材料である竹の採取から製作までを一貫して行い、釣り竿としての実用性のみならず丹念な仕上げによる美しさを兼ね備えた竿に仕上がっています。製作する竿の種類は、幅広く、しゃくり竿、磯竿、へら鮒竿、渓流竿にまでおよびます。
彼は、東京大空襲で命からがら一家で市原市島田の母の実家に移って来たが、生活は悲惨であった。見かねた母が裏の竹山を切り開いて住まわせた。上に3人の男子、下に二人の妹がいた。隣組である。彼の兄弟は、学校にも行けない貧しさであったから私は戦争の悲惨さを今でも辛く感じている。このことは、執筆意欲がもどってきたら 自伝風に書こうと考えている。今、彼の死亡を県のインターネットで知ったばかりで思い出すと悲しみが募るばかりだ。ご冥福を祈ります。