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物書きひとすじ!時には寄り道、迷ったり、直進したりして、人生は面倒で悲しく楽しくて。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ海を眺めて哲学者にはなれないのですが、いつも物を考えていますよ。

リンゴの歌

2019-07-31 14:38:24 | 自伝風小説
夜になると勤労女学生の姉が、白い大きな絹の布を土産にもらったと言って帰宅して来た。落下傘に使う布らしい。やはり敗戦は本当だったのだ。もう灯火管制の敵機襲来の警報の度に裸電球に黒い布をかぶせたりランプのほや磨きをすることもないのである。 
 女学校から帰宅した姉が、「担任の先生から宿題が出された。それは、なぜ日本は戦争に負けたのか?」と言う作文だった。
 母は、「それは、広島と長崎に大きな爆弾が落とされて、多くの人が死んだからだよ。それに日本は神の国だから必ず神風が吹いて敵をやっつけてくれるはずだったが、そういうこともなかったからね。また田舎でも食べ物がなくなったからもう戦争する元気もないのだ。」と話した。
 わたしは、「成程なぁ」と思っただけだった。

小さな山合いの村の またまた小さな集落に育った太郎が、小学校5年生の時の夏に日本は戦争に負けた。
あ~かいリンゴにくちびるよ~せて~ 
だま~て見ている あ~おい空
リンゴは なんにも言わないけれど 
リンゴの心は よくわかる
リンゴかわいや かわいやリンゴ~
 ラジオから「りんごの歌」が聞こえて来たのは、戦争が終わって間もないころのことでした。
 まだ、学校では授業も始まっていませんでした。教科書もなく先生もたりなかったからです。男の先生は、兵隊に行ってしまい、校長先生以外は、女学校を出たばかりの十代の娘先生が数人いるだけでした。
 山村の子どもたちは、戦時中は、朝学校に行くと、出席を取り、すぐに家に帰って、田畑の仕事の手伝ったり。松の樹脂採りや野草のカラムシ(ちょま)の皮はぎ、ドングリ拾い、ススキの穂摘みなどをしていました。日本には石油もなく、着る物もなく、食べる物もなく、老人と女性たちと子どもたちがいるだけでした。こどももお国のためになることをしなければならなかった時代です。「欲しがりません勝つまでは」がみんなの合言葉でしたが、誰も戦争に勝つとは思っていなかったのです。
 太郎のおとうさんは、習志野にある日立精機の兵器工場に働きに行っていましたから家族は、母と姉と妹の四人に別棟の隠居所の祖父母の二人でした。
 餓鬼大将の勇太朗には、忘れられないリンゴの思い出があります。
 それは、北海道の旭川から送られて来たのです。とても香りのよい甘酸っぱい味でした。まだリンゴなどと言うおいしい果物を見たことも食べたこともない時代です。
 どうしてこのリンゴが送られて来たのかをお話ししましょう。
姉の見合い
戦争に負けて校舎にいた兵隊さんは、みんないなくなってしまいました。
 しばらくすると、北海道の旭川と言う所から塩鮭が送られて来ました。
 それはスマートな学徒動員の兵隊さんからでした。北海道大学生から徴兵されたと聞きました。 
 添えられていた手紙には、太郎のおねぇさんとの結婚の申し出が書かれていましたからおかぁさんと、おねぇさんは、びっくりしてしまいました。
「十六,七歳の娘では早すぎる」という返事を母と姉は相談して出したのですが、会ってほしいというので、上総牛久の町の旅館大津屋で会い、お断りしたのです。遠い旭川からは、付き添いの立派な方(村長?)も一緒だったと言うことでした。
 そうして、山村では見たことも食べたこともないリンゴが、ひと箱送られて来ました。その青年の家は、大きなリンゴ園をやっていると言うことでした。
 並木路子という歌手の「リンゴの歌」が流行するのは、その後でした。
 一昨年末に勇太朗のおねぇさんは、87歳で急死しましたが、歌手の並木路子もその後を追いかけるように昨年の春に亡くなられました。
リンゴは何にも知らないけれど リンゴかわいや かわいやリンゴ~
 歌の苦手な勇太朗は、どうしてか、この歌の歌詞の一部だけは今でも覚えています。亡くなった姉と、歌のリンゴのイメージが重なっているのでしょう。



シベリア帰り

2019-07-30 11:01:56 | 自伝風小説
としちゃんのおとっつぁん
 まだ、とし君のお父さんは、どこにいるのか、生きているのか、死んでしまったのかも分からなかったのだが、おばぁさんは、3人の子どもたちは皆亡くなってしまったと思いこんでいるのだろう。
 坊さんを先頭にした葬列が遺体を戸板のような物に乗せて、曲がりくねった急な山坂をゆっくりと登って行くのを太郎は今でもありありと思い出す。それは、子ども心にもじつに悲しく寂しいい情景であった。
 葬儀が終わって一年ぐらいがたったある日、ニイヤのとしちゃんのおとうさんが帰って来ると言う知らせが届いた。狭い集落だからその日のうちにその朗報は全戸に伝わった。何でも遠いソヴィエトのシベリアに抑留されていたと言う。これは、働き手の男たちが欠けてしまい疲弊している集落にとって、大きな喜びであった。集落の唯一のリーダーが帰還するのである。
 復員して来て数ケ月がたった。
 出羽三山信仰の行屋(集会所)に集まった男たちにシベリア帰りのニイヤのおとっつぁんから作業の提案が出された。
「若い衆もいねぇこの集落が農業で生きて行くには、今まで以上にみんなが助け合うことが必要だ。先ずその取り掛かりは向こんでぇに行く急な狭い山道を共同作業で広く緩やかにすることだ。そうすればみんなも苦労しないで畑に行けるし、作物の運搬も楽に出来る。」
 集落の者たちは、因習と長いものには巻かれる習性を持つ小作人たちだから渋々と同意したが、今までそんな大工事をしたことがないのだから本心では困っていた。
「シベリア帰りは、アカ(共産主義者)だから共同作業を言うのだっぺ。だけども自分のうちの畑はほとんど削らねぇで、おれたちの土地はだいぶ削られる。」などと、図面を広げてぶつぶつと文句を言い合っていた。
 それでも秋のおわりの農閑期になると、共同作業は始められた。急峻な坂道を避けて、迂回する道路を造成するので難工事だったが、田植えの農繁期には、何とか出来上がった。働き手のいない家は、いくばくかの費用を負担した。
 確かにこの山坂には、集落の者たちはとても苦労していた。農家は、便所の下肥(しもごえ)を田畑の肥料として撒布していた。集落で最も広い畑地は、向こんでぇにあるから下肥を桶に汲んで担ぎ上げる。「たんご」と言う天秤棒の前と後ろに下げた木の桶が液体の運搬には使われていて、バランスをとって担ぐので、かなりの力がいる。あまりもの急な坂でうっかり足をすべらすと転倒して、まともに下肥を頭から浴びてしまう。毎年のようにそう言う失敗が繰り返されていた。
 この坂が広くて緩やかな勾配になったので集落の者たちは結果的には助かったのである。シベリア帰りのおとっつぁんは、共産主義者でもなく、ただ農地の改良に目覚めて帰国して来た人物であった。おそらく厳しいシベリアの未開の地を捕虜として頑張った良心的な日本兵であったのであろう。
 ニイヤのお婆さんも、諦めていた長男が帰国したので、だいぶ明るさを取り戻したようだった。としちゃん母子も元気になった。
 後に義兄となる久男兄もシベリア抑留から帰国して来て村役場に勤めた。ただ駐在所の警官はシベリア帰りの人たちの身辺を探っていたが、それは戦時中の習性か、中央の反共的な指令かは子どもには分からなかった。
 その頃、国民の多くが欠かさずに聞いたラジオ放送は、日曜日午後の「のど自慢」であった。太郎がそれを寝転がって放送を聞いていると、知らない歌が歌われて、合格の鐘が三つ鳴った。その合格者の話では、何とシベリアの抑留者は帰国を願って、厳しい労働の合間にはよく歌っていたと言う。その望郷の思いに太郎も感動したのであった。この歌は、瞬く間に日本全国で歌われるようになり、その歌詞は誰もが覚えたのである。 
☆「異国の丘」(NHKのど自慢で)
増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。唄:竹山逸郎/中村耕造
1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る
2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る
3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで
※1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。原題は『昨日も今日も』である。シベリアから帰還した兵士の一人中村耕造が『NHKのど自慢』に出て歌ったことから有名となった。 -->

教室が使えないー校舎は兵舎になってしまった!

2019-07-29 10:28:00 | 自伝風小説
校舎に兵隊さん
 村の内田小学校は、木造平屋建てでした。二十人ぐらいが入れる小さな教室が八部屋ぐらいに先生方の職員室があるだけです。校庭は一周50~60メートルぐらいしかありませんでした。
 ある朝、勇太朗が学校に行くと、大勢の兵隊さんで教室はふさがっていました。
 何でも満州(中国東北部の日本人開拓地)から南方に行っていた兵隊さんたちだという話でした。よれよれの軍服を来た中年の兵隊さんたちでした。どうしても戦えそうもない兵士たちでした。
 アメリカ軍が房総半島に上陸したら戦うのだということで、山に穴をほったり、竹をとがらして槍のような物を作ったりしていました。
 ひと月ぐらいたったでしょうか。そこへまた兵隊さんたちが大勢やって来たのです。今度は、元気な二十代の人たちで、きれいな新品の軍服を着ていました。
 満州から来た兵隊さんたちは、校舎のすみに押し込まれてしまったので夜になると争いが絶えなかったようです。
 兵隊さんたちは、土曜日になると数人のグループで、村の家々にやって来ます。お茶を飲んだり、田舎の手料理の御馳走になったりします。
 勇太朗の家にも後から北海道の兵隊さんたちもやって来るようになりました。その中に大学を出たばかりのスマートな青年もいました。若いのに上級の兵隊さんのようでした。
 勇太朗のおねぇさんは、女学校の四年生で、いつもは牛久の町に下宿して五井の風船爆弾のノリつけ工場へ通っていましたが、土曜日には家に帰って来るのでした。
 辛い戦争が終わると、校舎にいた兵隊さんたちは、お世話になった家に挨拶をして引き揚げて行きました。かわいそうなのは、満州から来た兵隊さんたちで、帰るところがないのでした。おかぁさんは、とても同情していたのを勇太朗は覚えています。
 戦争が終わると、北海道の兵隊さんが手紙が来たのです。それは、(続く)


出征兵士を送る

2019-07-27 18:00:45 | 自伝風小説
隣家の庄作さんの出征
 勇太朗が生まれて初めて歌ったのは、「勝って来るぞと勇ましく、ちかって国を出たからは~」でした。それも途中からは「れろれろれろ~」という意味不明瞭な幼児語でした。
 母は、その歌を2~3歳の太郎にうたわせては、お客を喜ばすのです。きっと長男の成長が得意で歌わせたのでしょう。それにしても幼い子が覚えてしまうほどにこの歌は周りで歌われていたのでしょう。もしかすると、ラジオで一日中放送されていたのかもしれません。この歌は国民のマインドコントロールにとても向いていますから。
 隣家の庄作さんが、二十歳を過ぎたので出征することになりました。
 手作りの日の丸の小旗を手に持って、集落の人たちは、駅まで見送りに行きました。2~3本ののぼり旗には「祝 関氏庄作君」と書かれています。小さな集落の十数人のさびしい行列でした。
 先頭には、軍服に身を固めた庄作さんが、「武運長久」と筆で大きく書かれたタスキを肩からかけていました。野良道を4キロほど歩いて行きましたが、道々では「勝って来るぞと勇ましく~」と声を合わせて歌います。13戸の小さな集落ですからあまり気勢は上がりません。ほかの集落の行列は大勢で見送りに来ていますから気勢があがりましたから太郎は悲しくなりました。
 小湊鉄道の上総牛久の駅に着くと、庄作さんは
「本日は、送って下さりありがとうございました。必ずやお国のために頑張ってまいります」
と堂々と挨拶されたので、勇太朗はびっくりしました。それは、いつもの田畑を耕す温厚な隣の家の青年とは思えない堂々としたものだったからです。
「庄作君の武運長久を祈り、万歳三唱をいたします。」
 集落のリーダーの音頭で両手を高く上げてほかのグループに負けない大声で、万歳を三唱しました。太郎もちょっと恥ずかしかったのですが、大きな声で「ばんざい!」と叫びました。
 その後、庄作さんがどこに配属されたかは家族にも教えられないないままに戦争は終わりました。出征した人たちの生死は、分からないままでした。
 敗戦から数日がたつと、庄作さんが帰って来るしらせが届きましたから近所の人たちもみんな喜びました。
「九十九里海岸で敵の上陸を防ぐために毎日防空壕を掘っていたよ。勝ち目のない戦争だったね。」
 庄作さんは、集落のみなさんにこう話して、目をしょぼしょぼさせていました。勇太朗が小学五年生の時のことでした。
露営の歌 作詞:藪内喜一郎 作曲:古関裕而
1  勝って来るぞと 勇ましく誓って 国を 出たからにゃ 
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ聞く度に まぶたに浮かぶ 旗の波
2 土も草木も火と燃える 果てなき曠野 踏み分けて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら 明日の命を 誰か知る
3 弾丸(たま)も タンクも 銃剣も しばし 露営の 草枕
夢に出てきた 父上に 死んで 還れと 励まされ 覚めて睨むは 敵の空
4 思えば 今日の 戦いに 朱(あけ)に 染まって
にっこりと 笑って死んだ 戦友が
天皇陛下万歳と 残した 声が 忘らりょうか
5 戦争(いくさ)する身は かねてから 
捨てる 覚悟で いるものを 鳴いてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば なんの命が 惜しかろう


 勇太朗は、時々隣の庄作さんを思い出します。

映画会ー予科練

2019-07-27 12:29:20 | 自伝風小説
星空の下の映画会の記憶 普段の夜は、囲炉裏端で家族や、遊びに来る近所の人たちの会話に耳を傾けるか早寝するかのどちらかであった。大人たちの世間話の内容は他人の冗談・悪口・農作業や卑猥な話であったから耳学問でかなり早熟な知識を持ったのだった。
校庭で開かれる満天の星空の下の年数回の戦意高揚の映画会にも何度か行った。
先ず村長の話があって上映されるが、スクリーンにちらちらと雨が降ったような線が出るし、途中でよく中断もした。それはフィルムが古いのでよく切れてしまうからだが、数分後にはまた再開されるのが常だった。他に楽しみは全くない時代なので、あくびをこらえて我慢強く再開を待つのである。
ある時は、予科練兵の訓練の様子が映し出されて、気の弱い勇太朗を驚かせたのだった。それは、20歳ぐらいになれば男子は必ず兵隊に行くものと思わされていたからだし、事実そうであった。

  若鷲の歌 1943年(昭和18年)  作詞:西條八十  作曲:古関裕而
若い血潮の予科練の七つ釦(ぼたん)は桜に錨(いかり)
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にや でかい希望の雲が湧く

燃える元氣な予科練の 腕は鐵 心は火玉
さつと巣立てば 荒海越えて 行くぞ敵陣 殴り込み

仰ぐ先輩 予科練の 手柄聞く度(たび) 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神 大和魂にや 敵は無い

生命(いのち)惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼
見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい
「若鷲の歌」は、戦意高揚の映画『決戦の大空へ』の主題歌、西条八十と古関裕而は土浦海軍航空隊に一日入隊し、この時の体験を生かして作られた。勇太朗は、この映画の訓練がとても恐ろしかったが、男の子は大きくなれば兵隊になるものと決まっていた。
 幼いころ、物置小屋で脚絆(ゲートル)を見つけたので母に見せたら「それは勇太朗が中学校に進学したら使うので大事にしまってある」という。
 私は、牛久にある旧制市原中学校へ進学するのかと初めて知ったが、その学校がどういうものかは知らなかったし、その校舎も見たことがなかった。後でわかったのだが、その学校は市原郡に唯一の男子の進学校で、村の資産家の子弟の行くところで成績が良くないと行けないのだった。女性は、鶴舞高等女学校へ行くのだが、女性は4年間で、男子は5年間である。わが家は、自作農だから成績がだいぶ上でないと、旧制中学や女学校には行けないので、母が考えているようには進学できないはずだが、姉も進学したのはきっと村の小学校ではトップに近かったのであろう。そう言えば、母の兄と弟も木更津中学校を出ていたし、特に兄の方はトップの成績で県知事から表彰されて蒔絵の硯箱をもらったという。