夜になると勤労女学生の姉が、白い大きな絹の布を土産にもらったと言って帰宅して来た。落下傘に使う布らしい。やはり敗戦は本当だったのだ。もう灯火管制の敵機襲来の警報の度に裸電球に黒い布をかぶせたりランプのほや磨きをすることもないのである。
女学校から帰宅した姉が、「担任の先生から宿題が出された。それは、なぜ日本は戦争に負けたのか?」と言う作文だった。
母は、「それは、広島と長崎に大きな爆弾が落とされて、多くの人が死んだからだよ。それに日本は神の国だから必ず神風が吹いて敵をやっつけてくれるはずだったが、そういうこともなかったからね。また田舎でも食べ物がなくなったからもう戦争する元気もないのだ。」と話した。
わたしは、「成程なぁ」と思っただけだった。
小さな山合いの村の またまた小さな集落に育った太郎が、小学校5年生の時の夏に日本は戦争に負けた。
あ~かいリンゴにくちびるよ~せて~
だま~て見ている あ~おい空
リンゴは なんにも言わないけれど
リンゴの心は よくわかる
リンゴかわいや かわいやリンゴ~
ラジオから「りんごの歌」が聞こえて来たのは、戦争が終わって間もないころのことでした。
まだ、学校では授業も始まっていませんでした。教科書もなく先生もたりなかったからです。男の先生は、兵隊に行ってしまい、校長先生以外は、女学校を出たばかりの十代の娘先生が数人いるだけでした。
山村の子どもたちは、戦時中は、朝学校に行くと、出席を取り、すぐに家に帰って、田畑の仕事の手伝ったり。松の樹脂採りや野草のカラムシ(ちょま)の皮はぎ、ドングリ拾い、ススキの穂摘みなどをしていました。日本には石油もなく、着る物もなく、食べる物もなく、老人と女性たちと子どもたちがいるだけでした。こどももお国のためになることをしなければならなかった時代です。「欲しがりません勝つまでは」がみんなの合言葉でしたが、誰も戦争に勝つとは思っていなかったのです。
太郎のおとうさんは、習志野にある日立精機の兵器工場に働きに行っていましたから家族は、母と姉と妹の四人に別棟の隠居所の祖父母の二人でした。
餓鬼大将の勇太朗には、忘れられないリンゴの思い出があります。
それは、北海道の旭川から送られて来たのです。とても香りのよい甘酸っぱい味でした。まだリンゴなどと言うおいしい果物を見たことも食べたこともない時代です。
どうしてこのリンゴが送られて来たのかをお話ししましょう。
姉の見合い
戦争に負けて校舎にいた兵隊さんは、みんないなくなってしまいました。
しばらくすると、北海道の旭川と言う所から塩鮭が送られて来ました。
それはスマートな学徒動員の兵隊さんからでした。北海道大学生から徴兵されたと聞きました。
添えられていた手紙には、太郎のおねぇさんとの結婚の申し出が書かれていましたからおかぁさんと、おねぇさんは、びっくりしてしまいました。
「十六,七歳の娘では早すぎる」という返事を母と姉は相談して出したのですが、会ってほしいというので、上総牛久の町の旅館大津屋で会い、お断りしたのです。遠い旭川からは、付き添いの立派な方(村長?)も一緒だったと言うことでした。
そうして、山村では見たことも食べたこともないリンゴが、ひと箱送られて来ました。その青年の家は、大きなリンゴ園をやっていると言うことでした。
並木路子という歌手の「リンゴの歌」が流行するのは、その後でした。
一昨年末に勇太朗のおねぇさんは、87歳で急死しましたが、歌手の並木路子もその後を追いかけるように昨年の春に亡くなられました。
リンゴは何にも知らないけれど リンゴかわいや かわいやリンゴ~
歌の苦手な勇太朗は、どうしてか、この歌の歌詞の一部だけは今でも覚えています。亡くなった姉と、歌のリンゴのイメージが重なっているのでしょう。
女学校から帰宅した姉が、「担任の先生から宿題が出された。それは、なぜ日本は戦争に負けたのか?」と言う作文だった。
母は、「それは、広島と長崎に大きな爆弾が落とされて、多くの人が死んだからだよ。それに日本は神の国だから必ず神風が吹いて敵をやっつけてくれるはずだったが、そういうこともなかったからね。また田舎でも食べ物がなくなったからもう戦争する元気もないのだ。」と話した。
わたしは、「成程なぁ」と思っただけだった。
小さな山合いの村の またまた小さな集落に育った太郎が、小学校5年生の時の夏に日本は戦争に負けた。
あ~かいリンゴにくちびるよ~せて~
だま~て見ている あ~おい空
リンゴは なんにも言わないけれど
リンゴの心は よくわかる
リンゴかわいや かわいやリンゴ~
ラジオから「りんごの歌」が聞こえて来たのは、戦争が終わって間もないころのことでした。
まだ、学校では授業も始まっていませんでした。教科書もなく先生もたりなかったからです。男の先生は、兵隊に行ってしまい、校長先生以外は、女学校を出たばかりの十代の娘先生が数人いるだけでした。
山村の子どもたちは、戦時中は、朝学校に行くと、出席を取り、すぐに家に帰って、田畑の仕事の手伝ったり。松の樹脂採りや野草のカラムシ(ちょま)の皮はぎ、ドングリ拾い、ススキの穂摘みなどをしていました。日本には石油もなく、着る物もなく、食べる物もなく、老人と女性たちと子どもたちがいるだけでした。こどももお国のためになることをしなければならなかった時代です。「欲しがりません勝つまでは」がみんなの合言葉でしたが、誰も戦争に勝つとは思っていなかったのです。
太郎のおとうさんは、習志野にある日立精機の兵器工場に働きに行っていましたから家族は、母と姉と妹の四人に別棟の隠居所の祖父母の二人でした。
餓鬼大将の勇太朗には、忘れられないリンゴの思い出があります。
それは、北海道の旭川から送られて来たのです。とても香りのよい甘酸っぱい味でした。まだリンゴなどと言うおいしい果物を見たことも食べたこともない時代です。
どうしてこのリンゴが送られて来たのかをお話ししましょう。
姉の見合い
戦争に負けて校舎にいた兵隊さんは、みんないなくなってしまいました。
しばらくすると、北海道の旭川と言う所から塩鮭が送られて来ました。
それはスマートな学徒動員の兵隊さんからでした。北海道大学生から徴兵されたと聞きました。
添えられていた手紙には、太郎のおねぇさんとの結婚の申し出が書かれていましたからおかぁさんと、おねぇさんは、びっくりしてしまいました。
「十六,七歳の娘では早すぎる」という返事を母と姉は相談して出したのですが、会ってほしいというので、上総牛久の町の旅館大津屋で会い、お断りしたのです。遠い旭川からは、付き添いの立派な方(村長?)も一緒だったと言うことでした。
そうして、山村では見たことも食べたこともないリンゴが、ひと箱送られて来ました。その青年の家は、大きなリンゴ園をやっていると言うことでした。
並木路子という歌手の「リンゴの歌」が流行するのは、その後でした。
一昨年末に勇太朗のおねぇさんは、87歳で急死しましたが、歌手の並木路子もその後を追いかけるように昨年の春に亡くなられました。
リンゴは何にも知らないけれど リンゴかわいや かわいやリンゴ~
歌の苦手な勇太朗は、どうしてか、この歌の歌詞の一部だけは今でも覚えています。亡くなった姉と、歌のリンゴのイメージが重なっているのでしょう。