Seriously?

ひとりごとです

映画 ■■ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー■■

2019年01月28日 | 映画
まだ1月だけど
私の2019年の映画ナンバー1ではないだろうか



映画 ■■ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー■■





大学では英米文学を専攻していて
サリンジャーの
「ライ麦畑でつかまえて」は
当時のつたない英語力で
辞書を引き引き
解説を読みながら
なんとかなんとか一冊読んだ
初めての小説ではないだろうか

そして号泣した
主人公のホールデン・コールフィールドは
私だと思った

ピーターパンシンドロームの
モラトリアム人間
大人になりたくない
大人は汚い
大人は狡い
こんなに大人に嫌悪感を持っていて
ちゃんと大人になれるのか
とても不安で
まともな社会人になれる自信が全くなかった

そして
「ライ麦畑でつかまえて」が
アメリカでベストセラーになった時
「ホールデン・コールフィールドは私だ」
と感じたアメリカ人の若者は多かったようで
その中の何人かは
ホールデンのように赤いハンチング帽を
前後逆に被って
サリンジャーを訪れたらしい

すごくわかる
「私の話をサリンジャーに聞いてほしい
サリンジャーなら
私のこの得体の知れない不安感を
大人に対する嫌悪感を
理解してくれるはず
暖かく迎えてくれるはず
自分を孤独から救ってくれるはず」
と、思ったのだろう



私ももし初版の時代に生きていて
会いに行ける距離に住んでたら
赤いハンチング帽を被って
本を抱えて訪ねて行ったかも知れない

ストーカーだね!

それが作家にとって
どれだけ恐怖を与える行動なのか
想像することができなかっただろう

ファン(信者)にとっては
純粋なサリンジャーへの
尊敬ゆえなのだが



この映画は
サリンジャーの
秘密に包まれた人生を描いた映画だが
サリンジャー本人は
騒がれること
マスメディアに取り上げられることを
毛嫌いしていたから
死後、こんな映画が出来てしまったこと
何て思っているんだろう?

なんて気になりつつも
観に行っちゃいましたけど



小説の中に出てきたのと
同じようなエピソードや
同じセリフが何度も出てきた

この時の体験が
「ライ麦畑でつかまえて」に
活かされているのかな?
と思った

「活かされているのだ」というのは
映画を作った人の推測だろうけど

ちゃんと
英語版を読み直してから観ればよかった



サリンジャー役を演じた役者さんは
ヒュー・グラントの
「アバウト・ア・ボーイ」に出た
子役ちゃんだったのか
(実は見たことないけど)
やっぱりイギリス人俳優は
上手い人が多い気がする

ブリティッシュ・アクセントは
綺麗に無くしてたから
イギリス人だとは分からなかった



それから旧友の出版者役で
ケビン・スペイシーが出てた
#MeToo 運動が盛り上がる前に作られたんだな
上映が中止にならなくてよかった…



サリンジャーは
個性的な、ちょっと真っ直ぐじゃない
頑固で、社交的じゃない人として
有名だったけど

もともとそういう傾向もあったのだけど
第二次世界大戦中
ノルマンディー作戦に参加して
地獄絵図の中に身をおいて
死に対する恐怖
仲間を失う喪失感
憎しみなど
正気を失うような経験をしてきたことも
大きな要因だと思った

そして
今でこそPTSD は周知されてるけど
当時は理解が得られず
自分のトラウマを
分かってもらえない孤独や絶望感も
作品に現れているのだと思った



「ライ麦でつかまえて」で
ホールデンが繰り返し
大人に対してphony (インチキだ)と
非難するんだけど

人と人とが殺しあう
戦争の醜い実情を自分で経験して
社会の残酷な矛盾に辟易として
どうしようもない怒りを
抱えていたからかも知れない

それはこの映画を観て
初めて知ったことだった

単に生意気な若造が
「大人は汚い
大人になりたくない」と
現実逃避発言をしているのとは
訳が違ったんだな

私は本当にそんな
生死を彷徨うような状況に
置かれていたわけでもなく
安全な住む場所を与えられて
親の働いたお金で
食べさせてもらっていて
「大人は汚い」だのと軽蔑していたのだ

今となっては恥ずかしい



そんな私の青年期
通りのあちら側に無事渡れるのか
渡りきる前に
身体が沈んで消えてしまうのではないか
そんな不安を抱えていた時期を
恥じ入りながら思い出していた



チャップリンの妻のウーナが
チャップリンと結婚する前に
サリンジャーと交際していたとは
知らなかった!



晩年は
東洋思考に惹かれ
瞑想や禅を実践していたと
聞いていたが
同じ東洋人として嬉しかった

都会を離れた場所に
高い塀を巡らせて
世間との交流を断っていたというのは
有名な話だが



アーチストというものは
心の中にある狂気やトラウマを
作品を創造する過程で癒やし
昇華し

作品を見ている人に
感銘を与えてくれるのだな
と、思った

でも、その自分の内面と向き合う中で
自分の身を削るようにして創造した作品を
世に出すことによって
「社会的に名声を得る」という副産物を得る
それはまた
アーチストの精神状態に
時にネガティブな陰を落とすのだな

私たちが一つの作品から得る「感動」は
アーチストの精神的犠牲というか
痛みの先にあるのだと
改めて気付きました
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