神戸学生手話サークル「それいゆ」

関西の大学手話サークル同士の意見・情報交換や、交流の場となることを目的に活動しています。

聴者にとって手話ってなんだろう たね

2023年07月24日 | コラム


みなさん、こんにちは。

2023年3月例会をもって、それいゆを卒業しました「たね」です。



 今までたくさんのコラムを書いてきました。今から見返しても、かなり長ったらしいものばかりですね…。
中途半端に更新していない私の連載もあります。何とか終わらせるべく、頑張ります。

 今回のコラムは、「それいゆスタッフとして最後の仕事」という位置づけで、自分にしか書けない卒業コラムを執筆したいと思います。(本来は3月に書かなければならないところ、遅くなってすみません…)
 今回執筆する内容としては、大学から手話を学び始め、様々な体験をしてきた自分の中でのまとめと言いますか…、総まとめみたいな感じです。

自分が6年間手話をしていて、手話という世界に関わってきて、
「聴者にとって手話って何だろう」ということを、3つの「変わったところ・変わっていないところ」という視点から書きたいと思います。

 ただ、はじめは1つの原稿にしようと思っていましたが、書いてて2万字を超えるものになったので…さすがにこんな駄文はよくないと思い、大きく修正をしたうえで3つに分けて連載をしたいと思います。

なので、2つ目のコラムと、3つ目のコラムについては、おいおい公開していこうと思います。お待ちくださいませ~。

 


さてさて、今回は1回目です。
テーマは、「私からみて、手話の変わったところと、変わっていないところ」です。

…え?
タイトル詐欺だって?すみません。許してください。

ただ、このブログを見て、読み手の方には自分なりに「聴者の世界にとって、手話ってどんな言語なんだろう」って考えてもらいたいです。そして、手話を取り巻く問題に対して、一つでも多く感じていただけるところがあれば、私のこのブログの役割は果たした…

と思えるかなと感じて、この釣りタイトルにしました。

このブログをすべて読み終わったとき、皆さんがどう考えるか。
是非教えてほしいです。よろしくです。

 なお、付言しておかないといけないことがあります。
僕は手話学習歴6年目の聴者です。ろう者に関しても、手話に関しても、知識が深いと口が裂けても言えません。
ですが、同世代の中では、結構いろんな場面で手話という言語に触れてきたと思います。ほとんど毎日ろう者と会って学び、手話に関する文献や本を読んできました。その中で、純粋に感じた疑問を、ここに記録していきます。
 決して批判をしたいわけではなく、手話という言語の問題点を、自分なりに整理したものなので、その点をご了承ください。

 それでもなお、気分を害されることがあるかもしれません。
そんな立ち位置でありますので、このブログは、たね個人の見解であり、団体としての意見ではありませんのでご注意ください。文責は、すべて私にあります。

では、早速自分の記憶の糸を手繰り寄せてみます。

―――

以下の文章では、たね(昔)、たね(今)という表現を用います。


手話の学習を始めたときのたね→たね(昔)
手話学習7年目の私→たね(今)

というイメージで、書いています。よろしくお願いします。

―――
 

 さてさて。

 いきなり「聴者にとっての手話って何だろう」というテーマで書き始めても、冗長な文章がだらだらと続くばかりでは面白くありません。なので、状況ごとにその言葉を区切っていき、見ていきましょう。


私の中で手話のイメージが「変わったところ・変わらなかったところ」

 私が手話を始めたのは、2017年4月です。大学に手話サークルがあると知り、当時教員になる目標を持っていた私は「大学生活にすることもなく暇だし、将来の役に立つのでは…。」と言う理由で手話を始めました。
 サークル内での私は、ただひたすら手話(単語)を学んで、一刻も早く「どれだけ早く手を動かせるか」、ということを同回生と競って頑張っていた…という記憶があります。

 「手話って難しいな」「人に見られるって恥ずかしいな」とか思ってました(笑)これから手話を始める方も、同様の印象を持たれるかもしれませんね(笑)
 ですが、手話という言語は、体を動かすことで相手に意味を伝える言語です。なので、音声言語に比べ、覚えやすかったり、楽しいところが盛りだくさんの言語でとっても楽しいですよ!!!(宣伝!!)



 さて、その中で、私の中で手話のイメージが変わったところは、大きく2つあります。


変わったところ①
手話という言語は、音声を使わない


 手話の学習を始めた当時の私は、「手話と音声は併用できるものである」と勘違いしてました。なぜなら、自分が所属していたサークルで、音声と手話を併用する環境を見たので、声を出さない手話は「こそこそ話だ…怖い世界だ…」と思っていたのです。

 しかし、単語レベルならともかく、手話という言語をきちんと表そうと思えば、口の動きも文法に入ってくるので、音声言語の併用は難しいです。



「視覚だけでコミュニケーションが成り立っている」

 音声言語の世界に住んでいる私にとって、本当に衝撃的でした。今思えば当たり前の話で、こそこそ話をしたいから声なしになっているのではなく、普通に話そうと思ったら自然と声なしになるものです。それに戸惑ったこともありましたが、今はその状況でとっても楽しんで手話をしています。

 これから手話を学ぶ人たちも、同じようなことで戸惑ったり、怖いと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、それを乗り越えれる環境に身を置けば、きっと楽しい世界が広まると思います。

ぜひ、手話の世界に一歩足を踏み込んで、手話の世界を楽しんでほしいな、と思うばかりです。



変わったところ②
自分の話し方がストレートになった

 自分の中で、一番の衝撃はこれかもしれません…。
手話という言語の文化として、回りくどく言わず、英語のように直接的な表現が多いです。

 たね(昔)は、どちらかと言うと、回りくどく、何言ってるかよくわからない人だったと記憶しています。ですが、手話を始め6年が過ぎるたね(今)は、知人から「お前、もう少しオブラートに包んで話せよ!」「失礼だ!」と言われることが増えました。



 あと、たね(今)は、周りから「なんでなんで男」と呼ばれています。
ろう者の世界では「理由は?」「なんで?」とか、よく聞かれるんです。彼らは純粋に、理由を知りたいからってだけで、他意はありません。
その環境に慣れているせいか、私はよく話し合いの中で「なぜ?」という言葉をよく使います。それに対して周りは「え、怒ってるん…?」と捉え、めんどくさい男認定をします。私としては、純粋に理由を知りたいだけなんですが…(笑)

 この様なことが、手話に影響を受け、自分の思考や発言が変わったのかな、と感じる1番の瞬間です。

皆さん!!気を付けましょう!!(笑)(戒め)

そして、次に変わっていないところ、です。

変わっていないところ①
結局手話を学ぶには、対面が一番!!

 最近のオンラインの技術の発達で、いろんな人の手話を手軽に見えるようになってきました。でも、私の中で個人的にお勧めしたいのは、実際会って話してみることです。対面で手話を読み取ることが、一番の上達の近道になると思っています。これは今も昔も変わらず、そう思っています。

 音声言語話者でも、いきなりカメラの前に立つと、汚い言い方ではなく、整えられた言葉を使って話し始める(あるいは声色を調整していい感じの声を出そうとする)ということがあるように、良くも悪くも、動画に出てくるような方の手話は、きれいに整えられた手話になっています。

 ただ実際、そのように「整えられた手話」だけ見ていると、実際に目の前の人の「コミュニケーションの手話」を読み取ることが難しくなり、くじけそうになります。なので、いろんな人の手話を見て、人の癖に慣れていくことで、読み取れる手話の幅が広くなるようになっていくと思います。

…え?身近で手話を使う環境がないって?
では、ぜひそれいゆへお越しください(´・ω・`)
お待ちしております(笑)


変わっていないところ②
手話を学ぶ環境としては、良い環境が十分整えられていない 

 たね(昔)が手話の勉強をしようと思ったとき、
・近くの手話サークルの情報を調べ、行こうと思ってもなかなか情報が見つからない
・今(2023年3月現在)と比べて、YouTubeに手話関係の動画が少なかった
・手話を体系的に学習する本が見つからない
など…、手話を学ぶための選択肢が限られていました。

(追記)
このブログを読んだ方より「手話奉仕員養成講座や手話通訳者養成講座は体系的に学ぶ手段ではないのか?」というご意見をいただきました。

当時の私を思い出すと、「別に通訳者になりたいわけではないし…」とか、「高校まで英語を学習しているみたいに本とかで学習できればいいな」という気持ちを持っていたため、その選択肢は初めからなかったように思います。

今思えば、確かにその選択肢もないわけではない&現実的な手段ですが、私的には、「若い学習者が学ぶ手段としてはなし」だと考えています。詳しくは、第2回目のコラムでそれらの講座について踏み込んで考えていく予定なので、詳しくはそちらを見てください。
(追記終)

「手話って何て学びにくい言語なんだ…」と感じ、手話をやめたくなったことをよく覚えています。


(スタッフを始めた当初の私は、ずっとそのことで悩んでいました)


 ですが、今はどうでしょうか。
・YouTubeやInstagramでろう当事者(特にネイティブサイナー)たちが自分のことや手話の存在をアピールするようになる
・オンライン技術の発達で、遠隔でろう者が手話教室を開催するようになった

・手話に関する研究が進み、体系的なテキストを見ることが増えた(とはいえ、まだまだ少なすぎる)
など、「手話は言語である」ことを主張する人々や、研究成果が大量に見れるようになりました。これは、手話、及びろう者という言語的マイノリティの分野において、画期的な進歩であります。学ぶ手段は、格段に増えたと思います。

 しかし、学習者にとって学ぶために良い環境が整えられているのか、と聞かれれば、根本的な問題はそんなに変わっていないように感じます。


なぜなら
「手話を教えるろう者によって、その指導内容がばらばらであることは変わらないから」です。

私も、その中で当惑してきました。

その例を少し出してみます。
なお、《》は手話単語を表します。

・指導に慣れているろう者と、指導に慣れていないろう者がいる 
 何か特定の言語を教えるとき、その特定の言語のネイティブから教わるのがいいという考えがあります。しかし、言語を教えることって難しいですよね。
 例えば、いきなり「アメリカ人に、格助詞の説明をしてください」と、私が言われたとします。
僕はすぐにはできません。普段格助詞を意識して表現していないので、格助詞を教えるためには、母語である日本語を学び直し「何が格助詞なのか」「どんな時に格助詞を使うのか」を知らないと、相手に間違った情報を与えることになってしまうからです。

「何となく」で指導することは難しいですよね。

 自然と何となく手話を使ってきたろう者にとっても、これと同じようなことが起きると思います。
普段自分が話している言語を相手に説明するためには、きちんと知識がないとできないことだと思います。
何となくろう者に「こうだ!」と説明されても、「実際本当にそうなの…?」と勘ぐってしまう人がいてもおかしくありません。
 手話を知らない学習者にとっては、「何となくで指導するろう者」「きちんと指導するろう者」を判別することが困難です。なので、出会う人、環境によっては、「何となくで指導するろう者」から手話を誤って教わることになるかもしれません。

 となると、一つの疑問が浮かびます。
今、手話を聴者が指導するということはタブーとされています。だとすると、なぜ「何となく指導するろう者」が手話を教えることは許容され、「手話の知識を持っている聴者」が手話を指導することがダメなのか。「何となく」の人たちの中では、誤ったことを教えてしまう場合もあるのに、それが許容されていいのか…。(もちろん知識がゼロの聴者が手話を語るのは微妙ですが)
他の言語を見ると、日本の英語教育では、日本人の英語講師を多くみます。これらとの違いはなんなんでしょうか?

「知識を持つ」という言葉のあいまいさや、「手話」という言語ならではの問題の煩雑さを、皆さんはどう考えますか?是非調べて、自分なりに意見を持ってほしいと思います。私も、これからも勉強し続けます。


・《だから》という手話単語は、日本手話に存在しない。《だから》を使うな!

 よく使う手話表現《だから》。
たね(昔)は、初めて教わった手話単語のうちの一つだと思います。
ただ、《だから》という手話単語はないと言われます。

 しかし、「日本手話のネイティブサイナー」と自称するろう者であっても、《だから》を使う人を多く見たことがあります。手話の単語辞典にも、その手話単語が載っています。
 その「手話単語を認める/認めない」と言うのは、何が、誰が決め手なんでしょうか?

僕は今もよく分かっていないです。


・《しょうもない》の手話には「少し」みたいな意味がある。

 とあるネイティブの方が開催している手話教室で、「《しょうもない》の手話には「少し」みたいな意味があるから、場面に合わせて使ってね。」と言われたことがありました。
ですが、それを周りのろう者に表現しても、「しょうもない?失礼じゃないか!」と言われ、うまくコミュニケーションが取れなかったことがあります。

 この教わった手話は、どんな場面で、どんな人の間で使われるのだろうか?その表現で伝わるろう者に、私が出会っていないだけなのかもしれません。これからもいろいろな経験していきたいと思います。

・「地域の表現だね」と許容される表現と、「その手話は、誤りである/手話ではない」と言われる表現の境界線が分からない。 
 まず前提として、手話という言語は地方や、年齢差によって表現の差が非常に大きい言語です。地方の方言で代表的なものに、《名前》という表現があります(詳しくは検索してくださいね)。
年齢差のある表現としては、バスという表現があります。その時々の物の形に合わせて表現が変わっていくのは、非常に手話らしいなと思います。その一方で、この様なことが起こりました。

 私がある表現を表したとき、あるろう者からは「その表現は間違っている!」と言われたことがあります。
昔地域の聾者から教わったのに、たまたま間違って覚えたんかなーと思いながら、そのろう者から新しく教わった表現を覚えました。

 そして、別のろう者に表したら、「そんな表現知らない!私は、この表現(修正を促された手話表現)を使う!君のって地域の手話?」と言われたことがあります。

 一方からは認められ、一方からは違うと言われる。正直戸惑いました。
 この様な経験をさせないようにするためか、ろう者の中では手話の標準語なるものを決めようとする動きもあり、辞書の作成に力を入れるところも多くあります。ですが、辞書に載っているような表現であっても、一般的に知られていない表現は多くあります。その状態を見て、快く思っていない人も一定いるのが実情です。
 
間違っていると言われた手話を、ある人は認め、ある人は否定する。そして手話の単語一つ見ても、ろう者の中でのパワーバランスを感じる。このあたりに手話の難しさを感じます。



そのほかにも、こんな例があります。
・日本語の影響を受けていない純粋な手話表現・ろう者というのは存在するのか?
 2つの言語を使って過ごしているろう者は、「日本語」と「手話」の間で、言語衝突(いわゆる、「ピジン」)が生まれます。つまり、どちらかの言語が、どちらかの言語に影響を与え、本来の言語体系が崩れてしまう、ということです。厳密にいうと違うかもしれませんが、和製英語が広まったせいで、本来の英語の表現が使われなくなってくる…というイメージです。

 日本語の影響を受けた手話の例を出したいと思います。
本来、手話の表現の《名前》は、指文字の「め」を作り、非利き手側の胸に1回当てることで、《名前》を表します。(関西の表現です)
しかし、日本語のリズムに影響されて、無意識的にリズムをとってしまい、2回トントンしてしまう(この文章で伝わります?(笑))


本来は
(トン)なまえ
という感じなのに、


な(トン)ま(トン)え
みたいなことです…。

伝わるかな…。伝われ…。テレビに出演してるろう者の方であっても、このように「名前」を2回表したりしているのを見たことがあります。

 他にも「この表現って日本語対応的だけど、日本手話としてOKなの?」みたいな表現も多くあり、それも私を悩ませました。例えば、「何か思いつきますか?」という日本語を

《何》《思いつく》《ある》(yes/no疑問のNM表現)
もしくは
《思いつく》《何》《ある》(yes/no疑問のNM表現)
という風に表現する人を多くみます。

たね(昔)は、「前者は、《何》の位置が日本語に対応的な気もする…」みたいな違和感があったことを覚えています。ですが実際のコミュニケーションでは、上記のような2つの表現を目にすることがあります。

今でも、語順によってどうニュアンスが変わるのか分かっていません。なので、どっちが違和感ない表現なのか私には分かりません。
ですが、「日本語に影響を受けていない手話」というものを意識するあまり、ネイティブサイナーが主催する「日本手話を使う」講座の中でも「これは、日本語に影響されている?されていない?」ということを常に考えながら受講していた、ということはよく覚えています。

今の潮流として、日本語の延長線上である「日本語対応手話」ではなく、きちんとした文法規則を持つ「日本手話」の習得が求められています。その中で
 きちんとした手話を覚えることをろう者は求めるけど、なにが日本語の影響を受けていない手話で、なにが日本語に影響を受けている手話なのか?
 そして、日本語に影響をあまり受けておらず、純粋な手話の指導をできるろう者を見極め、私たち学習者は簡単にアクセスできるのでしょうか?

 手話を知らない学習者にとっては、外見上日本手話も、日本語対応手話もほとんど同じに見えると思うので、簡単にできないと思います。

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ひとまず、色々私が困ったことを列挙してきました。この様に、
ろう者の中で手話の指導や持つ知識が統一的ではない。
そんな状況で手話を身に着けようと思ったとき、学習者は様々な環境でサバイブせざるを得ない。
学習者は、そのサバイブに困惑し、手話をネガティブにとらえ、迷う事がある。
とよく感じます。

 地域の聾者から習った表現であっても、ある人からは手話を受け止められたり、否定されながら、私は今後も手話を学んでいくでしょう。そして、間違った手話表現を習得したとしても、手話に関する知識の少ない私は気づかずに、またどこかで否定されるかもしれない。そのジレンマを抱えながら、私(もしくは多くの聴者も同じ?)は手話をしてきました。

 そんなジレンマを抱えるプロセスを嫌い、私は実際にろう者に会うことを避け、手話の文法書を読み込んだり、オンライン上でろう者が講演する機会を狙ってろう者、あるいは手話通訳者が表す手話ばかり見ていました。そうして、手話を覚え、対面の活動を避けて続けてきました。

 私的に、こうなった原因の一つに、手話が視覚言語であるがゆえに、文字に十分書き起こせず、口述で伝承され、どんどん手話が変わっていった…という、手話ならではの問題であると思っています。
 言語は、他の言語からの影響を受けながら変化していくものだと思います。その中で、手話という言語の言語体系(しかもとても細かいところほど)は、特に変化が激しいと感じるので、この様なことを私は悩んでいるのだと思います。文字で手話を完全に表せ、アーカイブされる日が来ると、言語の変化は少なくなると思うので、私の当惑、そして同じような悩みを抱える学習者の当惑は少なくなるのかなと思います。

 
 重ねて言いますが、今回はあくまで批判をしたいわけではなく、これから手話が発達し、学習者にとって手話を学びやすくなる環境になることを期待し、自分なりに感じた悩みを、自分の経験をもとに挙げていった、ということです。

「手話は多様である」という言葉に留まるのではなく、その問題の解像度を上げていくということ。
そうすることで、学習者にとって学びやすい環境に繋がっていくといいなと思います。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
僕の無知もあると思うので、なにかコメントがあればぜひ教えていただきたいと思っています。

2回目のテーマは「学生手話コミュニティの間で「変わったところ・変わらなかったところ」です。

近日中に公開しますよ~


2023.7.24  たね(種村光太郎)


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