皆さん、こんにちは
スタッフのたねです(/・ω・)/
先日、久しぶりに書きたいテーマについて、ピーンと来ました。
それは、「【何となく】手話を分かってしまうこと」についてです。
誰しも、何かをしているとき「何となくできる/できてしまう」という感覚を持ったことがあると思います。
このブログでは、手話をするときに感じる「何となく」ということを深めて考えたいと思います。
そして、このブログを見返せば見返すほど、自分の中で違和感があるというか…。
おそらく、今まで「手話を学習しようとしてきた聴者」である自分の経験の中で、「手話の知らない人が手話を学習していくときに感じる『なんとなく』という感覚」を言語化しようとしたブログになっており、見る方によっては、とても違和感を感じるところもあるかと思います。
それは、その「何となく」という感覚は人によって異なるという点であったり、こんなことを書こうとする「たね」の立場性をどう思われるかによって変わると思うのです。
初めに私から言いたいのは、ただ、私は、純粋に「何となく手話が分かるということ」というのは、どういう意味なのかを考えようとこのコラムを書き進めようとしています。
その立場からコラムを書いていることを踏まえ、「このコラムのどこが違和感なのか」、様々なご意見をいただけると、私にとって勉強になる点があると思うので、教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
それでは、始まり始まり~。
※このブログは、個人の見解であり、団体の総意ではありませんのでご注意ください。
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それいゆでの活動は、基本的に「声なし」で活動しています。
これは、「声なし」が「手話」という言語を楽しむための方法であり、「手話」という言語を表すベースになると考えているからです。
一般的に、「手話」という言語で誤解されていることの一つとして、「声を出しながらでも、手を使って表せてしまう」ということが挙げられると(個人的に)思います。
ですが、「言語としての手話」は、そんな簡単に声出しながら表せるようなものではないような気がしています。
なぜなら、手話という言語は、手の動きだけではなく、眉毛の動きや、口形、目線など…様々な要素が絡む、複雑な言語であり、日本語と同時に、ちゃんと手話を表そうとすると(どう表現したらいいのか分からないけど…(笑))頭がこんがらがると思うんです。
音声言語で例えようとすると、「英語を話しながら日本語が話せるのか」ということでしょうか。
ではなぜ、「声を出しながらでも、手を使って表せてしまう」コミュニケーション方法になるのか。
それは、「手話」という言葉にも強調されるように、「手」を使って話すことが手話のコミュニケーションにとってポイントが置かれており、手の動き以外の要素が省かれてしまった結果と言えると思います。
となると、発声と手の動きが同時に行われる(?)と、どうしても(聴者にとっては)普段使っている日本語に手話を当てはめる、日本語対応手話(通称、シムコム)を表しやすくなってしまうような気もします。
そのような中で「声なし」という手段は、(頭の中に日本語の意識が残っているとはいえ)日本語の意識を強制的に絶つ方法の一つとして機能します。
ただ一方、とあるスタッフと話しているとき「声なしは、手話を始めたばかりの初心者さんや学習者さんと、手話の距離を遠くする方法だ」と言っていた人もいました。
そのスタッフが言っていることは、ある意味では正解だと思います。
いきなり自分の言語が通じない世界の中で、「手話でコミュニケーションを取れ」と言われれば、そりゃ暴力的に感じるし、気が遠くなりそうになり、敬遠したくなるのも理解できます。(自分が言語としての手話を知ろうとしたとき、そう感じたからこう書いているのかも?)
そのことを意識してか、手話を身近に感じてもらうために、「あえて」音声を出しながら手話を表現するという団体もいらっしゃります。
また、いろんな団体で、読み取りに不安のある手話学習者のために「読み取りのサポートがある」旨を記載しているのを目にします。
言語としての手話を知ってもらうために、色んな方法を使っているようですね。
まあそんなこんな、いろんなサポートを受けたり、声あり、声なしなど、色んなプロセスを経て、手話初心者や学習者は「手話」をできるようになる。
否、「何となく」、そして「読み取りサポートが何となく不要でも」手話ができてしまうのです。
言語としての手話を「何となく」読み取れてしまう。
言語としての手話を「何となく」理解できてしまう。
なんとなく「読み取りサポート不要」になる。
この「何となく」とは?
その「読み取りサポート不要」とは?
このような、手話学習者/初心者が手話を「何となく」読み取れる、「読み取りサポート不要」というのは、どういうことなのか。
もちろん、その手話の使用者のコミュニケーションレべルや求めていることによって、どこまでその「なんとなく」がどこまで許容されていくのか変わりますが、ポジティブな面として「何となく」読み取れ、「読み取りサポート不要」になるというのは、個人の中で「十分読み取る自信が付いてきた」という意味する側面があると思います。
それと同時に、その「読み取りサポートの必要/不要」というボーダーラインを行き来するときには
・その人が何となく読み取れる「手話」とは、どんな手話なんだろう。
・その人が手話を使っている環境はどんな場所なんだろう。
・その人は普段どんなサポートを受けていたのだろう。
どんな人でも、たまたま読み取れなくて「もう一回いいですか?」って聞き直すことだってある中で、はっきりとは分からないまま「何となく」読み取る。
もしかしたら、この「何となく」が、後々大きいズレに繋がる可能性もあるはずなのに。
手話を「何となく表せ」て、「何となく意味が通じてしまう」ことは、手話を表せることを意味するのか。
そもそも、その「何となく読み取れている」ということ自体、「意味が通じているのか」を疑わなければいけないかもしれません。
以上いろいろ考えてきましたが、「手話を読み取れる」という言葉の裏にある「何となく」という感覚について、本当はもっといろいろ考えなければならないと、たねは思うのです。
そもそも、この「何となく」という感覚を感じるのは手話をある程度できるよう(そもそもできるようになるとは?)になった聴者のたねの感覚の話であり、他の方にとってはよく分からないものかもしれません。
とにかく、たねが言いたいことは、
この「何となく」という感覚は、非常に社会要因によって左右される感覚であるということ。
そして「何となくできてしまう」と感じることは、「言語としての手話の煩雑さ」を知る出発点として必要なことで、大切な感覚だということ(もちろん、「何となく」を感じないということは、それ自体として悪いことではない)。
そして、「何となく」というものの解像度を上げ、きちんと表現できなければ、見えるはずのものが見えなくなってしまうということです。
「何となく」を違和感のまま留まるのではなく、
「何となく」から見えるものを整理して、「手話という言語」を取り巻く問題について自覚的であり続けたい。
「見えないものを見ようとする」ために、「何となく」をきちんと表現できる場所を作るということ。
そういうことができる場所ってどんなんだろう。
そんなことについて考えてみる、最近のたねでした。
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2022.02.08 たね
~今までのコラム~
1回目コラム→(【聴者が手話を続けて思ったこと】)
2回目コラム→(【手話という名前のパスポート】)
3回目コラム→(【学生の時の思い出~その①~】)
4回目コラム→(【学生の時の思い出~その②~】)
5回目コラム→(【学生の時の思い出~その③~】)
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