My Life

いつからか・・・喜びがなくなった。

JW2世とJW1世を考える

2020年07月26日 | 日記
 幾人かの2世のブログに書かれた経験を拝見して、自分はどうだったのかと考えてみて、1世と2世の経験する主な事を個人的な観点で書いてみました。
まず、2世の場合、気が付いたら集会に行き、奉仕に連れて行かれてゆく事が日常生活の一部になっていて、自分が学んでいる宗教が正しいのか、間違っているのか、判断できる年齢になる前にどっぷりとJWの中に浸かった状況で成長して来た。
この様な前提があると思います。

●2世が経験する主な事
1.鞭の問題
私が研究生からバプテスマ後間もない頃、集会中にある子供がトイレに連れて行かれると中で子供の泣き叫ぶ声が聞こえることがあった。おそらく、鞭を受けていたのだろう。子供を持つ姉妹たちの会話の中で「ホースが一番良い」などと話していたこともあった。しつけと称して鞭で子供をたたくことが常態化していた。他人の家庭の事に干渉はするまいと思っていたのでただ見ているしかなかったが、やり過ぎではないかと思っていた。今なら児童虐待になることは間違いないですね。

2.いじめの問題
親から校歌を歌わない、格闘技をしない、クラスで投票しない、誕生日やクリスマス祝わない、七夕しない、節句しない、年賀状出さない、などなど多くの制約を課されて辛い学校生活を強いられていたため、出来ないことがクラスの中でいじめの要因となっていた。

3.親からの強制
集会は休まず行く、休みの日は必ず奉仕へ行くなど子供の意思は尊重されない。

4.バプテスマへの圧力
神権宣教学校へ入る、伝道者になる、バプテスマを受けると言うレールが敷かれているのでいつまでもバプテスマを先延ばししていると圧力をかけてくる。

5.大学進学
宣教活動が大学教育よりも優先され、高校を卒業したら開拓者になるのが当然と言雰囲気がある。高等教育は有害であると教えている。社会的視野が狭められる。

●1世としての自分は
 そもそも、研究を始めたきっかけは、聖書に何が書かれているのかほとんど知らないため、妻が何を信じようとしているのか知る必要があると思ったからでした。どうせ研究をすれば何かボロが見つかって妻を説得してやめればいいと思っていました。

0.研究生のころ
もともと宗教は金『寄付』を集めて信者を食い物にしているイメージが強く、教祖や幹部がが贅沢な暮らしをしてふんぞり返っている。と思っていたので大嫌いでした。
エホバの証人は寄付集めも、教祖も無いと聞かされ他の宗教組織とはちょっと違うと思い研究を始めました。研究を始めてみると『楽園の本』、『創造の本』は全体的によくまとめられて論理的に書かれていると思いました。ただ、ときどき誘導的な質問があったので違和感を感じることもあり、信仰のない時分には答えにくく思った箇所もありました。また、楽園を想定して書かれた挿絵も素直に想像できないなあーと感じていたのを覚えています。とにかく信仰を感じることが出来ず、ずいぶんと長く研究していました。
 今感じていることとして、JW組織が発行する文書は矛盾を感じさせないように本当に良く構成されていますが、外部の資料を引用す時も、本来絶対にやってはいけない引用先の執筆者の意図を無視して、正しく資料の意味が伝わらず協会の都合のいい意味にすり替えられている事実を知って、まさかこんな卑劣な方法で欺いていたとは酷いものだと思っています。

1.バプテスマの討議
バプテスマの討議は2回に分けて行われましたが、2回目の討議でこう言われました。『質問には自分の言葉で述べてください。』
それで私は、質問の後に、関連する聖句を読んでから自分の言葉で答えようと思いつつ、聖句を読み始めたら、いきなり怒り出して、『自分の言葉で述べてください。といいませんでしたか?』
どうやら、聖句は読まなくてよかったみたいなんですね。まあちょとした勘違いだったんですが、びっくりしましたね。
そんな簡単に切れないでほしいなあと思いましたね。未だにその時のことをよく覚えています。

2.会社
サラリーマンは飲み会はけっこうな頻度で行われていたのですが、どうでもいい飲み会には極力断るようにしていたのですが、立場上どうしても参加しなくてはならない、接待、打ち上げ、歓送迎会などに行く機会が数か月に1~2回ありました。
その時、必ず直面するのが乾杯でした。事前に乾杯はしないと伝えてあるものの乾杯するなとは言えませんから乾杯の行為はしないでその場にいるわけです。なんとも言えない気まずさがありましたね。
あと、年賀状、お歳暮、バレンタイン、クリスマスなど会社で話題に上がると、そっとその場を離れたものでした。それと、労働組合の選挙も白紙投票出したりしましたね。

3.音楽への見方
JWになって音楽の交わりを企画した時の事です、賛美の歌をキーボードとギターとボーカルで演奏するために少し編曲してポップス調にしたのですが、ベテルの兄弟から『協会の曲を変えてはならない』と、注意されました、理由は誰かをつまずかせるかもしれない事と協会が提供している楽曲に手を加えてはいけない。と言う理由でした。一つ目の理由は、まあ何となく理解できるのですが、二番目の理由はどうなのかなあーと思いました。音楽は色んなバリエーションがあっていいと思うのですが、どうも頭が堅い人たちだなあーと感じました。

4.服装
1990年代はまだ、白いシャツが主流でカラーシャツは、くだけ過ぎなので着ないという雰囲気が強かったです。カラーシャツやボタンダウンを着ていると注意されました。当時、協会からその様な指示があったのかどうかはわかりません。会衆によってかなり見解が違っていたようです。
姉妹たちの服装も暗い色の地味な服が多かった印象がりあす。

5.巡回監督と奉仕
ある巡回監督と共に奉仕をした時のことです、一緒に奉仕を始めてから終わるまで一言も話さないで終わった事がありました。そのとき思ったのはこの巡回監督は何のために私と奉仕をしたのだろう、これほど話しかけるのが難しいと感じたことはありませんでした。ずーっと不機嫌そうな顔をしていたのがとても印象的でした。
また、ある巡回監督は奉仕の前の集まりをある家の居間で行ったとき参加者は全員床にじかに座って、監督だけが椅子に座り足を組んで、サングラスをかけ上から目線で話を始めた時の顔が何とも偉そうな権威を振りかざしている印象を感じたこともありました。(なんだこの人はと思い、話している内容が全く耳に入ってきませんでしたね。)

6.学校の行事
子供の運動会はたいてい日曜日に行われることが多かったのですが、日曜日は必ず集会のある日なので、集会を休む必要がありました。ある長老は夫婦のどちらか片方が運動会に行けば十分です。と言う事を進められたのですが私たち夫婦は、子供が寂しい思いをしない様にと考え二人で運動会へ行きました。何がなんでも集会を優先する考え方になじめませんでした。

8.その他
親戚の法事、冠婚葬祭、町内会などの宗教的な行事の対応は理解してもらえないケースもあり疲れます。特に近所の葬式や会社の上司や部下の結婚式や葬式はかなり気を使って対応しましたね。
結局、こんな対応を続けていれば世間との人間関係は希薄になり、JWだけの人間関係に強い結びつきが生じて行ったのは当然の事と言えるでしょう。

🔵まとめ
こうして、考えてみると1世は、JW組織と他人を通してある程度、理解力や判断力が成熟している年齢から関わり、2世は親を通して理解力や判断力が未熟な幼少期から関わると言った大きな違いがあると思います。(必ずしも全てがこの二通りに当てはまるわけではなく当然ながら他のケースも色々あることは承知しています。)

 2世がJW組織から離れて行く時期は高校生くらいから20代前半くらいが多いかと思います。この時期に自分の将来を考え始めるだろうし、大学進学、パート、アルバイトや正社員や派遣などで社会へ進出するとJW以外の接触も増えてその影響も受けていくことになる。もちろん、社会的責任も増していく。このような経験を重ねてもJWに留まる2世は自己のアイデンティティをJW組織の中に見いだせていたからだと思う。つまりJW組織の居心地が良いと感じているし、教理に対して絶対的な信頼感を抱いているからだと思います。とはいっても、JW組織の教育によって離れることで生じる忌避や失うかもしれない楽園や永遠の命を失うことの恐怖が抑止力となって組織から離れられない2世もいることでしょう。一方離れて行く2世は組織に対して何か違和感をかんじたり、疑問を感じていた人が、ある事がきっかけで、JW以外からの情報を知り、その情報の信ぴょう性を調べ確信してJWを離れる事を決意する人、またJW組織になじめず自分の居場所を見いだせないと感じて離れて行く人もいたことでしょう。
 また、離れた2世の中にはJWとして生きて来た貴重な時間を無駄にしてしまったと感じる人も多いようです。そしてその中の少数の方たちが自分の経験を手記やブログ、書籍にして残しています。それは本当に貴重な勇気ある行動だと思います。
これからも是非、情報発信を続けて頂きたいと思います。

 私自身のJW1世として経験した様々な出来事は今回取り上げた以上にまだまだあります。ただ、あまり詳細に記載すると私を特定されてしまう可能性があるので、さしさわりのない範囲で記載しています。。
 今まで感じていた違和感や疑問を持ちながらJW組織に留まれたのは開拓者であった亡くなった妻の存在が大きかったと思ってます。彼女は心から宣教を楽しんでいたと思います。そんな明るくて幸せそうな妻を見てるのが好きでした。様々な出来事も二人だからこそ乗り越えることが出来ました。ですからJWとして生きて来た月日は私の良い思い出となっています。
 そのように幸福な生活を過ごしてきたわけですから、度々感じていた違和感や疑問を深く突き止めようとは思わずそれらを封印して来ましたが、組織に対する疑念がある人との会話がきっかけとなり、1914年の年代計算についての根拠をちゃんと調べる必要があると思ったのです。