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王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと

2012-06-20 23:39:44 | 地域

王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと(東京都北区王子)

王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【王子神社の歴史はいま想定されているよりもっとずっと古いのではないかな】と思います。

当地は中世という時代に豊嶋氏という武家によって長い間おさめられていました。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅びましたが、さかのぼれば豊嶋武常という武人は前九年の役(1051年→1062)で源頼義に従い、武常の曽孫の清元(光)は源頼朝に従ったのです。

豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え当地の支配を磐石なものにし、400年以上もの長きにわたり当地の支配をつづけたわけです。たとえば、江戸時代の長さはおよそ260年間ですから、豊嶋氏のおさめた時代がいかに長かったかがわかります。

豊嶋氏は頼朝の配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊の地方の「守護人」格に、その後また紀伊三上庄というところの「地頭」に役に任ぜられて、紀州熊野地方と深い関りができました。

王子神社の成立についてみてみますと・・・豊嶋氏の時代からずーっと後の時代の徳川時代になって、三代将軍・徳川家光の指示によってつくられた「若一王子縁起」という王子神社のことを描いた縁起絵巻があります。(王子紙の博物館蔵)
                                                                         この書には王子神社のことについて『 後醍醐の天皇御宇、元亨(げんこう)の年・・・新たに祠宇を建てあがめける 』 と書いてあります。

「 新たに 」 という言い方が二つの解釈を生んでいます。
一つは 『 まったく無いところへ新規に 』 というのと 『 今までも有ったが作りなおして 』 というのとの二つに読み取れるのです。
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【歴史というのは新しいもののほうを人は受け入れる傾向があります。】
たとえば、【 王子の狐民話 】 がその例です。こちらの話は王子神社の隣の王子稲荷神社のほうの話となりますが、すこし触れてみましょう。
いま、王子の狐の民話伝承について、大晦日に関東中から狐が集るもの、とほとんどの人が受け止めている現状があります。
しかし実はこれは幕末の寛政時代から徳川幕府が王子稲荷の民話に介入し、作為的に作り変えて流布された、というのが本当のことなのです。

事実はこうです。
おそらく平安かもっと以前から王子稲荷には東日本(当時のことばで「東国」とよばれました)全域から狐が集合するという伝承がずっと続いていたのでした。
【 →王子の狐の歴史 】 http://ojikitune.web.fc2.com/kitune-no-rekisi.html をご覧ください。

寛政時代になって江戸幕府は王子稲荷の経営に干渉しようと調査に訪れました。
調べた役人が寺社奉行・松平輝和を通じ老中松平定信に 「 (王子稲荷が) 東国惣司ト称シ候 」( 王子稲荷が自分のことを東国総司と自称していますよ) と文書で進達していたのです。
つまり、王子稲荷が自らのことを東国33ケ国の総司 と喧伝していたことの事実報告でした。
幕府は徳川幕府が王子稲荷にそのように任じたことは無いということをもって王子稲荷から東国33ケ国を表記したもろもろを没収し、いろいろ権利を奪う処罰を与えたのです。
変な話です。中世の時代からの王子稲荷の民話を封じようとしたのです。

【もともとは王子稲荷の東国33ケ国狐集合伝承はおそらく平安時代からのものです】

徳川幕府は幕府がそのように認証したものではないからといって民話伝承の否定にかかった、というわけです。「寛政の改革」と言われ、幕府権勢の維持にやっきになって社会基盤を立て直そうとしたのでした。
以来、狐民話は狭く 「 関八州から狐は集る 」 などと、幕府の為政には逆らわない説明で地誌などで解説されるようになったため、以来、人々はこの民話をずっと口にしてきたのです。

以上は、古い歴史より新しい歴史の方を人々が取り入れる例を示しました。そういうこともあって、王子神社の成立の話もなにか手近いことだけでの検討ではいけないのだろうなあと思うわけです。

そういうこともあって、【発見できてある直近の資料にのみこだわって王子権現 ( 王子神社の旧称 ) 成立の解釈を試みるということが真実にせまれるとは思えないわけです。 】
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【 豊嶋有経が紀伊守護人格に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた1184年から、記事としてあらわれた元亨の年(1321)までは137年も経過しています。この間に熊野からお札をいただき、祭祀の中心地としての当地の神域で崇めたであろうことは十分に想像できます】 

大きな問題は今の王子神社の神域と金輪寺の神域とがどのようなお互い関係をたどってきたのか、ということだと思います。神社としてもともとここにあったのか、金輪寺の神域の中のものだったのか、ということです。 

源義家が奥州追討のときにこの地で金輪仏頂の儀をおこなった、ということからすると、金輪寺の存在がクローズアップされ、その点では義家の父が「関東稲荷の総司」(当時の関東は東国三十三ケ国のこと)と王子稲荷に言ったという明瞭な古様のようには(王子)神社の様子はいまここで描けませんので安易な話は避けようと思います。 

王子神社の別当・金輪寺には、「熊野権現御宝前 」 との奥書きのある文保2年(1318)の経巻奉納の文書がありました。このものがもともと金輪寺のために奉納されたのか、どこか他所の熊野権現に一旦奉納されたものが古物として金輪寺に蒐集されたのかは議論の対象ともなってはいます。でも「熊野権現御宝前 」 が他所のものであるか無いかはここではさして問題ではありません。要は金輪寺が熊野権現という記載のものを持っていたということが熊野権現を必要とした寺であったことの証拠ともなるわけです。

豊嶋景村が元亨2年(1322)に改めて熊野神の若一王子神を勧請したというのは、その3年後にあたり、ほぼ同時期です。同時期の記録が二つ重なっていることからして、元亨2年の時期までに金輪寺が仏閣の中にか神域にか熊野権現をすでに勧請していたと素直に見てよいでしょう。 

豊嶋有経が紀伊守護人格に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた1184年から、記事としてあらわれた元亨の年(1321)までは137年も経過しているのです。その間、豊嶋氏は熊野地方との深い関係をもっていたのですから熊野信仰とまったく関わりをもたなかったと解釈する方に無理があるわけです。137年もしてやっといきなり豊嶋景村が新たに祠宇(しう)[祭祀物] を作った、とはとても考えにくいわけです。

つまり、金輪寺には早くから「 熊野権現 」 を招致したということです。そして祭祀がおこなわれていて、文保の年に奉納をした記録が、「 熊野権現御宝前 」 との奥書きのある文書だったと考えてもよいし、そうでなくとも、金輪寺に熊野権現は必要であったし祭祀として行事化されてあったはずです。ですから、発見されてある文書だけで王子神社の歴史を規定するのは危険です。若一王子神勧請以前に当地の神域に熊野権現の祭祀物が設けられてあったとしても不思議は無いのですし、そういう王子神社としての歴史も考えられるわけです。 

豊嶋景村が若一王子神を新たに招致して祠宇を設けた以降、当神社は「 王子宮 」と呼ばれることになり、当地を王子と呼ぶようになりました。また、熊野の「音無し川 」 も此処の川名につけられました。 

そんなこんなで、つぎのように想像します。
豊嶋有経が紀州熊野地方と関りができて間も無くの頃に熊野神が当地(王子)に招致され、その信仰のもとに幾星霜か金輪寺で思想醸成ができて、豊嶋氏が最大統治領域を獲得できたころの勢力絶大なころ、豊嶋景村が改めて熊野神の若一王子神を勧請しなおして神域に王子宮をこさえ、儀礼芸能として王子田楽を作り催した。 

北区指定無形民俗文化財王子田楽をあれこれ検討して思うのですが伝承芸というのはその芸の形態には歴史性があらわれています。
失われてしまっている平安時代のパレード田楽と、現在皆様が目にされている鎌倉期以降の陰陽二列田楽とは、形態が違っています。こういうことなどいろいろから推定して、王子田楽の成立を考えてみると、「とにかく古いよな~」、というのが感想です。 

それと同時に、「修験の思想背景をもって良く構成されてるな~」、とも感じます。陰陽五行思想とか五色思想とか魔除けとか反閇(へんばい)とか。王子田楽は中世の人々の物の考えの思想背景を目に見える形で人々に伝えてくれる、全国にも稀なきわめて視覚的なすばらしい芸能で田楽躍りとしては日本一のものです。国のレベルで国宝級であり、ユネスコ文化遺産に相当する遺産として伝承されるべきものであります。 

こういうすごいものが醸成されて成立するには中世という時代背景のなかで年数かけてタップリ力量を得てしか生まれないだろうという大きな必然性があったにちがいない、と思うのです。  

豊嶋景村が勧請した「若一王子」つまり若い王としての若宮信仰について、勧請よりさかのぼる貞応2年(1223)成立の山王神道の古典「耀天記(ようてんき)」には『八人の王子が八つの峰より降りてきて田楽をした(要約)』と記述されてあります。こんなところが時代背景になっていて若一王子が勧請されて王子田楽が作られ、八人構成となっている理由かと思われます。

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