第1回 王子夕すずみ狐行列 を実行しました。
第7回 王子狐の夕すず美 会場へ向かう行列をしました。
Youtube動画
http://www.youtube.com/watch?v=9HmI9vNmKwg
途中、駅前の三角公園で演技、王子駅を通って親水公園での各団体の演技となり、危うい雨にもならず無事終えることができました。
来年も第2回を9月初旬ころに予定。
やがては 東日本中から狐さんが王子に集ってくる日をみんなで夢みています。
「 王子夕すずみ狐行列 」 実行委員会
代表= 澤田和子、 事務局= 高木、吉福、大門、
[ mail to → kotkot@hotmail.co.jp ]
共演 : 王子狐のパフォーマンス(子狐ばやし) = 代表・高橋
主催 : 親水公園会場 「 王子狐の夕すず美 」 王子狐のにぎわい=代表・大門、事務局 ・ 橋本
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王子の狐の夕すず美2012
―夏の名残は水辺の宴―
今年7回目を数えます。王子の街の風物「王子狐の夕すず美」狐衆が寄り合って
夏の夕べを楽しく過ごしましょう。今年は装束稲荷から狐りで踊って街を練り歩きます。
ご一緒にどうぞ
行列ご参加なさる方は、ゆかた、または衣装姿でどうぞ。
委員選考で 「 夕涼み王子の狐賞 」 にあなたも選ばれるかも !
おみやげ、もらえますよ!!!
とき;2012年9月2日(日)
■ 4;00PM~ 夕涼み狐行列(装束稲荷から)出発
・狐神楽 ・狐おどりおちゃらか ・狐のミュージカルの会、ほか一般参加者のみなさん
■ 舞台 ( 親水公園 ) 5;00pm~
ところ 音無親水公園(王子駅北口 下車左へ1分)
・狐パフォーマンスなど街の狐衆がお目見え
・王子の狐おどりおちゃらか ・みんなで歌おう ・夢の音楽隊 ・狐神楽
・王子狐のミュージカル(北名所夢華)、 歌この街で など。
・「 夕涼み王子の狐賞 」 発表
主催 狐のにぎわい
共催 王子狐のミュージカルの会 装束ゑの木奉賛会
王子の里観光舎(王子白狐衆)
後援 北区教育委員会 ・ 社会福祉法人北区社会福祉協議会
協力 ほっと村 おもひでチューズデー
お申込み お問い合わせ
狐のにぎわい 代表 大門高子 TEL・FAX 03-3910-0955
事務局 橋本 080-4075―2884 FAX 03-3905-2959
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「王子ささらばやし」のこと
8月5(日)朝8:00、東京都北区王子神社に16基の各町会みこしが終結し、宮出しをおこなう。
当日は、設置の舞台に「王子ささらばやし」が上がり、『権現ばやし』の曲で宮出しがすすめられます。
この数年、王子神社隣接の西側地域は学校児童の小子化とか各児童の習いごとの多さとが関係して、お囃子メンバーの確保がむずかしく、「王子ささらばやし」は苦心しています。
でも、大人も応援して、今年も宮出し演奏に頑張ろうと決意を固めているところです。
「王子ささらばやし」はいまからおよそ30年前、昭和58年に誕生し今日に至っています。これまで、「王子神社宮出し」のほか「北区区民祭りみこしパレード」「赤羽馬鹿祭りみこしパレード」「大江戸みこし大会」などに演じてきました。
「王子ささらばやし」誕生の記録を振り返ります。
東京の新しい"みこし囃子”「王子ささらばやし 」の誕生! 昭和58年8月
(児童向け読み聞かせとしてネット発表したものです)
『・・・王子田楽をふっこうしよう、と考えた時、おじさんは、せっかくふえをならうんだから、こどもたちが楽しくやっていけたらいいなあと思って、みんなでそろってふえをふいておみこしについて行く、そういう、おみこしのおはやしの会「王子ささらばやし」というのを作りました。
それまで、ここ王子は東京の中なので、おみこしのおはやしと言えば「江戸(えど)ばやし」というものにきまっていました。でも、おじさんは「江戸(えど)ばやし」をやるやりかたも知らないし、また、そういうりっぱなどうぐを買えません。そういうわけで、おじさんは、おみこしの動きにあう曲をじぶんでさっきょく(作曲)して、[王子ごんげんばやし」と名づけました。ふえ、たいこ、かね、ササラでえんそうするかんたんなおはやしです。
昭和58年8月7日の王子田楽ふっこうのおどりをおえたそのあと、おどったこどもたちや、笛をふいたものたち、それにあれこれおせわ(世話)をしたなかまのおとなたちは町へ出て、おみこしが来るのをまちながら、みんなで[王子ごんげんばやし」をえんそうしていました。
おじさんは、しんぞうがドキドキしていました。なぜって、きいたことがない音楽なんかやって、おみこしの人たちがおこりだすかもしれないのです。
やがておみこしがつぎつぎやってきました。そして、その中の一つのおみこしがおじさんたちのほうめがけて、じわじわ、じわじわ、よってくるのです!... おこってる、おこってる。こまった... と、ひやあせがながれました。ほどなく、目のまえまで来たそのおみこしは、かついでいるみんなの手で高く高くもちあげられました。
「サーセ!!!、サーセ!!!」 とみんな大声をそろえています。...そのときです。いっしょうけんめいふえをふくおじさんの耳もとでそのおみこしのせきにんしゃの人が大声で言いました。「けいい(敬意⇒そんけいするきもち)をひょうし(表し⇒あらわし)てんだよ!!!」。おじさんは、うれしくて、うれしくてたまらなくなりました。目の前でゆれるおみこしが、きゅうに、日の光の中にまぶしくみえました。
(ごんげんばやし、は東京の「ソイヤ、ソイヤ」のかけ声みこしに良くあいます。)
この年からあと、どうぐ(楽器のこと)にくふうをくわえて、あまりお金をつかわないでもできる楽器づくりをはじめました。
うちわのようなひらべったいうちわだいこというものを買ってきてそれにひもをつけて、かたからつりさげてたたく「ひらだいこ」というのをいくつも作りました。
また、まわりでお父さんやお母さんたちだれでもが楽しめるように、ちいさい板をかさねて、それにすずをつけ、チョンチョンとうちならすカッチャラという楽器をはつめいしました。もちろんササラもつかいます。
どりょくさえすれば、たくさんお金をつかわなくても、どこの町にもたのしいおはやしが作れるのです。こういうことをあちこちの町でやって、いろいろなおはやしがいっぱい生まれたらいいのになあ、と思っています。・・・』
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伝統芸能の存続は北区のも他所のもむずかしい
ここで話題にさせていただくのは、民間の芸能でありまして、職業芸能ではございませんので、よろしくおねがいいたします。
北区のも他所のも伝統芸能の存続はむずかしい。でも行政も民間もあまりそのことに踏み込んで取り組もうとしていないのがどこを見ても大方の現実のように思われます。
社会全般の経済状況が不調になったから衣食住にさしあたって関係の無い伝統芸能には目が向かなくなる、という面があることは否定できないことですが、でもそれは芸能を継承しようとする課題にとっては一つの側面に過ぎないにちがいない、と考えます。
むしろ、経済成長の中で人々が、他を思いやる、という心を捨てる道を選びながら日常を営んできた文化が今の文化であり、じつはここが問題なのだと思うのです。その中には昔の人々が大切にしていたものを忘れただけ、というよりも、馬鹿げた行為と否定してかかる向きが見られるのです。
昔の人が行なっていた中に、配達人にねぎらいにタバコや飲料、菓子やパンを「ご苦労様」と渡す日常がありました。しかし、この行為は医者への寸志とか、はては他のことではワイロということもあって、社会不公正の面からの否定がなされました。
だが、これが身の回りへの思いやりややさしさというものを放棄することの好都合な理由付けをも伴っていったわけでしょう。自分の利得の優先の前に人へのやさしさを捨ててきたということでしょう。
論理の増長
一旦こっちだ、と方向性が決まってしまうと、みんなが片方を放棄して良しとされたそちらへ大きく偏って押し寄せる、というのは世のなかの傾向です。
生活保護の場合も同じで、家族に病人とかがいらして本当に働きたくても働けないとかいうような困っている方ではない働ける人まで職を得ないで儲かる方に居座ろうとする人が続出した結果が沢山出たという面が問題なのでしょう。
先記の、周囲へのやさしさ、もこういう我勝ちの流れの中に置いてけぼりとなり、あたかも周囲へのやさしさまで時には後ろめたさを感じることもあるような世の中になってしまった、と言えましょう。
いま、社会不公正の否定という良い秩序を維持しながらも、かつて日本人のなかにあった「思いやり」の良い秩序を掘り起こしてみることは荒れた社会の救いとなるにちがいない、と思います。
伝統芸能に思いやりの支援行動を
伝統芸能の伝承が危うくなると、行政からの補助を求めるのは当然必要となるし、そうした要望は自然の流れではあります。
しかし、ここで考えてみたいものです。
民俗芸能の地べた芸をただ(無料)で見られるという常識はいま一般化しています。
技術技能はカネになる、というあたりまえの社会にあって、なぜ民間民俗芸能者だけがカネに出来ない状況に置かれたままの現状を差別と感じないのかも議論されていいのではないでしょうか。
かつては「おひねり」とか「かどづけ(門付け)」とかは地周り芸能者に対して全国あたりまえの習慣としてありました。
今はそれはほぼ失われと言えましょう。観光目的で高い旅費を使って見に出かけることはしても、現地の芸能者におカネを落とすことはきわめて稀だと思います。
民俗芸能の地べた芸をただ(無料)で見られるという常識をはもうこのへんで終わりにして、見料を払って見るもの、ということがあたりまえになることは、芸能者に大いな助けになるからです。
行政が指定しない民俗芸能にも地べた見料が得られれば自助努力の元気が生まれます。行政は補助しないから困るという議論の前に、地べた芸から写真や記事ネタを得る人々が地べた芸にカネを落とさないという薄情な社会の方を問題にすべきだと思います。行政のせいばかりの議論はもう越えようではありませんか。
自分は民俗芸能を復興するにあたり民俗芸能研究者の過去のご研究からどれだけ多くのものを手にできたか計りしれません。今は芸を立派にお見せできることで恩返しをしているつもりですが、演じる側としましては演じる側の苦悩の現実に「直接」届くご支援のあり方を世論化して戴くことがあったらと、厚かましく思うのです。
たとえば、芸能を行う神社のばあい、芸能者支援箱、のようなものを置いていただき見物者から芸能者への寸志を頂戴する、といったことが全国で行われたら良いのでは、などと思います。
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(東京都北区王子)
ふるさと王子の伝承についてだけのことですが幾つも納得できないことを見つけました。
それだけから見ても正していきたい歴史がどれだけ一体周りにあるんだろう、って思ってしまいます。
気にしなければそれでよいと言えば良いのでしょうが、知らないではずいぶんもったいない話だと思うんです。
王子には自分の把握している誤まった王子の歴史伝承話が四つあります。
1. 王子田楽は熊野から伝わった、としてきた古学者方の論。
2. 王子の田楽は農作物の豊穣を祈るおどりだ。
3. 王子の狐火は関東中から集ってくるという民話伝承だ。
4. 安藤広重の最高傑作浮世版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」は榎木に集った狐が装束を着替えて
向こうの森の王子稲荷へ向かう絵である。
これだけでも歴史って結構、誤まったり変更されたりしてきているものだなあと思うのです。
1. 王子田楽は熊野から伝わった、としてきた古学者方の論。について
田楽の研究は明治、大正、昭和初期、にかけて盛んにおこなわれました。
そこでは「熊野から伝わった王子田楽は・・」と学者方が一様に論をすすめていました。
この論の源は江戸時代の中ごろに「江戸砂子」という江戸の名所地誌が、王子神社の縁起絵巻の中の王子神社境内で舞う熊野から伝わったという記載のある「花しずめ」の説明を王子田楽の解説と読み違えて紹介したのが始まりです。以降、他の書がそれを引用し、年代を踏んでも訂正されず、ついに昭和にまで引用されつづいてきたものでした。
国の文化財審議委員をつとめられ、早稲田大名誉教授であられた故本田安次先生が、戦前、那智大社の神主さんがぜひ那智から伝わったとされる王子田楽を見てみたい、とおっしゃっていたのでご案内して王子田楽を共に見たときに言われたのは「那智とは全然ちがいますね」とのことだったと本田先生は拙宅にて話されました。
昨今は私が幅広くこのことをネットで広めているせいかはわかりませんが、「王子田楽は那智の写し」などという説明はようやく少なくなりましたが、あい変わらず古い学者の説明を引用しているものがみられます。
2.王子の田楽は農作物の豊穣を祈るおどりだ。について
どこででも王子田楽という言葉を出すと農業の芸能との言葉が帰ってきます。王子田楽は明瞭に魔よけを行う修験思想を背景とする躍りであって、農耕儀礼のものではありません。
当ブログ「王子神社の田楽」項をご覧ください。
3.王子の狐火は関東中から集ってくるという民話伝承だ。について
王子の狐火伝承はおそらく平安時代ころからのもので、徳川幕府が政治干渉にはいるまでのたいへん長い歴史にわたり東国三十三ケ国からの狐火伝承であったものを、寛政の改革時にその伝承を不許可にした、その後に今のような「関八州から集合」と作り変えられたのです。
こちらのことは当ブログの「王子神社(旧称・王子権現)の歴史のこと」項の中の王子稲荷神社の話のところと
リンク→「王子狐の歴史・東国三十三ケ国の狐が王子に集合」をご覧ください。
4.安藤広重の浮世版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」は榎木に集った狐が装束を着替えて向こうの森の王子稲荷へ向かう絵である。について
狐は向こうへ向かうのは無く、全部の狐が民家の間をすりぬけてこちらの榎木の大木めがけてやってくるのです。狐が出てくる向こうの民家と森は、ほかの浮世絵を見ればわかるのですが正に王子稲荷神社の鎮座するたたずまいなのです。これがどうして”王子稲荷へ向かう絵”なのでしょうか?世の中の人がこれに気づかれなかったのが不思議です。ネットで調べて見てください。狐が向こうの稲荷の森へ向かうと説明しているのがごちゃごちゃ出てきますよ。
絵を描いた広重とそれを解説して売り出した版画商人との全く違った思惑があると見ました。この謎を解くことは歴史の大きな発見にたどり着くでしょう。
この絵は広重最晩年のものという話題のほか、広重生涯の最高傑作とも評されるものなのですよ。
お若いみなさん、ぜひこのナゾに挑戦してください。
真実を見ようとしない方には興味ないことでしょうけど。
このことは項をあらためて書かせていただきます。
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中世修験道の思想が見える王子田楽(東京都北区王子)
中世に生まれた芸能は修験思想を背景に持っているのがほとんどではないでしょうか。
中世に暮らした人々は身を護るためにとても陰陽とか魔とかいうことを気にかけて生活していたようです。
それだけ日常の生活が戦とか争いとか抑圧とか貧困とか病とか人さらいや行方不明とかに恐れおののいていたものだったのでしょう。
その時代に生まれた芸能は願いをもち願いは祈りとして信仰と一体になっていて、祈りを持たない芸能のほうは稀だったように思われます。
信仰は不安脱出の方法を説くものでもあって、多くの形態が生まれました。
修験はそのひとつでした。修験というのはもともとは山岳信仰であり自然の摩訶不思議に万物の力学や精神の源があると考えるもので、仏教思想の影響とあいまってひとつの信仰分野となったもの、ということだと思います。
宇宙は、木火土金水の五要素から成り立ち、陰陽が相互に作用しあって移ろうというものでした。
五要素は、青(みどり)赤黄白黒に対応して表され生物が生まれる地上であり地をきわめて大切に認識すべきものという観点に立つものでした。
修験の作法に反閇(へんばい)という特殊な歩行方法があります。神事で「場を清める」意味で使われるものです。
反閇はもともとは、道教に源があるといわれ大地の霊に表敬するのが第一義であり、「場を清める」や「魔よけ」などは副次的に発生したものだそうですが、日本の修験ではきわめて重んじられ、一歩一歩丁寧に足を運び悪魔を踏み鎮め邪気を祓うという所作として多用されました。
現代ではこの反閇そのものを目にすることはほとんどできませんが、意義的に近いものは神社でみることがで
きます。拝殿内奥の神前の階段を昇降する神主さんの足元にご注意ください。一歩一歩丁寧に足を運びます。
王子の田楽も修験の思想が織り込まれていることがわかるのです。
王子田楽の躍り手は、背にススキを差し、また二本の刀も差します。
躍り手は、外から登場する魔除けの神様方との想定で、魔除けの色としての赤い紙垂れを花笠に付け顔を隠しています。
躍り手は、腰に各々が七本の大太刀をつけた二人の鎧武者に護られて登場します。
躍りに入る舞台の下に一同はしずしず進みます。このとき地を踏みしめるには修験の作法である反閇で一同が進みます。
躍りのはじめは舞台下で「中門口」を演じます。youtube[中門口]
躍り手の花笠は五色に彩られ、躍りは陰陽に分かれた衣装で二列になって行いますし、躍りでは神様役の主役は修験の「九字」の構成をなぞるようにして進む動きになっています。
そして、舞台上で魔除けの神様としてふるまい躍るのです。
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初出演のきつね踊り。去る4月29日、東京都北区、2012赤羽馬鹿祭り・躍り部門に狐に変して初出場しました。小学低学年と父母とが楽しく演じられるものをと創作したきつね踊り「おちゃらか」と名付けた初演でした。「かわいい!」「かわいーい!」と沿道からは声援しきりで、審査があって嬉しいことに銅賞をいただいちゃいました。来年には2倍くらいの人数で挑戦したいと思っています。赤羽のためにも「がんばるぞー!」
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gdNaOTmmCnU
http://www.youtube.com/watch?v=x7HtoAMzSzc&feature=player_embedded
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SnFC1VInaCw
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王子神社の田楽(東京都北区王子)
を農耕儀礼つまり五穀豊穣を祈るものと思い違いされる方が多いですが、写真をご覧の上でなおそう思う方は少ないでしょう。躍り手は魔事退散を祈って赤い魔除けの紙垂れをつけています。豊作を祈る躍りであれば普通雨乞いという意味でも白い紙垂れを付けるでしょう。
王子の田楽(←クリックでリンク先へ)は田事系の囃子田と違って躍り系の田楽といいます。
囃子田ではスリささらを使うのに対し、木や竹を編みつらねたビンザサラというのを持って躍りあるいは所作します。躍り系の田楽は陰陽二列で躍るという特徴があります。
王子の田楽は現代に残る諸国の田楽躍りの中にあって、農耕儀礼ではないという点で特に異質です。
でも、現存の田楽のなかでは異質でも、もともと平安時代、鎌倉時代、という中世の田楽躍り全盛のなかでは、修験信仰を背景にした魔除けという催しにむしろごく普通であったのです。
そういうことを知らないでは東京都北区王子という、いわば江戸市中からははずれた土地に伝わったということで人々が”田事”の芸と見誤っててしまうのも仕方ないことでしょう。
王子の田楽を正しく見るには、王子という地域の古い歴史から見ると合点がいきます。
鎌倉時代以降の300年間という長きにわたって豊嶋氏という治世者が、いまで言う東京地域のほとんどから南埼玉に至る広大な領域を治め、その中心地が王子であった、ということを見てはじめて王子の田楽の本質が納得されてくるのです。
豊嶋氏は頼朝の旗揚げに寄り添った頼朝の重臣で一族は紀州熊野地方の守護と地頭とをつとめたほどの実力者だったのです。王子はそのいみでも地方の中心地であったわけで、もちろんその頃に江戸幕府なんてありませんから”江戸から遠い王子”なんて認識など人々にあろうわけがありません。
そうした豊嶋氏の最大権勢の時期に王子田楽が儀礼として作られたように思われます。時代としては後醍醐天皇の時期だったように推定されます。
現在の東京にこのような、みやびで、はなやかで、古典の形式を伝えた中世の御霊合(ごりょうえ)の系譜の田楽躍りが伝わること自体とても貴重です。
戦災で絶えていましたが昭和58年に40年ぶりの復興がなりました。躍るのは地元の小学生たちです。
王子田楽 http://2machi.yokochou.com/prince-dengaku.html
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