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10分後の自分

中日ドラゴンズ、SKE48、鉄道等が好きな高専生がどうでもいいようなことを書いているブログです(^_^;)

日本史のすゝめ

2011-09-03 13:55:58 | 日本史
ども、パソコンをしている時間がテレビを見ている時間より圧倒的に長い平成デモクラシーです。

今も僕の住んでいるところは風が強いです・・・

さっき、自転車が倒れましたし・・・・(笑)

また、倒れるのも嫌なので倒れたままにしていますが・・・(笑)


今日はYou Tubeでこの前見つけた歴史(日本史)に関する動画を幾つか紹介したいと思います。

まずは運動会シーズンということでこれを・・・↓


僕の友達に時代区分が分からないという人がいますがこれなら縄文時代から平成時代までちゃんとした順番で覚えることができますね!!

あと、語呂合わせも覚えることができて歴史の出来事を並べる問題もばっちり(?)ですね!!

ちなみに、僕はこれを聞きすぎて昨日のテストの時に頭の中でずっと流れていました(笑)

これが運動会で流れたらいいなあ~と思ってもいます(笑)

あと、縄文時代の女性が一番可愛いく見えるのは僕だけ!?

次はあの有名な「創聖のアクエリオン」の替え歌で「日本史もアクエリオン」を・・・↓



上のは女性が歌っていますが男性が歌っているのもあります。(男性ver.はこちら

これは歴史の流れが分かって非常にいいと思います。

何度も聞いたら歴史のテストの点数10点UPも夢じゃない!!!

これもテスト中に頭の中で流れていました(笑)

改めて日本にはいろいろな歴史があったんだな~~って思いました!

聖徳太子がギャグ漫画日和のだったのは秘密・・・・(笑)



ラストは「15秒で覚える徳川将軍 」です↓


江戸幕府の将軍は15人しかいないのに(天皇なんか125人もいるんだぞーー!!)僕はなかなか覚えることができません・・・(家康、秀忠、家光、家綱、綱吉?????←これ以上分からない・・・)

でも、これなら歌を歌って覚えることができるので心強いです!!

今、必死に(?)覚えております!!


どの動画(歌)も歴史の勉強にぴったりだと思うのでみなさん是非、たくさん聞いて歴史のテストでいい点を取りましょう!!!

もっと紹介したいのですが今日はこの辺で!!

では、また次回・・・

本能寺の変

2011-03-24 19:24:55 | 日本史
おととい、本能寺の変について話が出たので、今日は本能寺の変について書きます。
本能寺の変とは皆さん知っていると思いますが、天正10年6月2日に起こった明智光秀が謀反(簡単にいうと反乱)を起こし織田信長が宿泊していた本能寺を襲い、信長を自害(自殺)に追い込んだクーデター事件です。

↑本能寺の変の様子を描いた絵

↑明智光秀の肖像

↑教科書等でよく見かける織田信長の肖像
また、本能寺の変により、信長の小姓(今でいうと秘書かな?)として仕えた森蘭丸らも亡くなっています。
~なぜ信長は光秀に敗れたのか~
信長率いる織田家は当時かなり大きな勢力だった。なのになぜ家臣の謀反が信長は亡くなったのか?
それは、本能寺の変が起きたとき毛利攻めなどで織田軍は多くの兵を派遣していて信長周辺の兵はとても少なかったから。(兵の数は明智軍が13000だったのに対し織田軍は100だったとされている)
~なぜ光秀は謀反を起こしたのか~
信長の家臣だった光秀がなぜ謀反を起こしたのか?
その理由はいくつかの説がある。
その1・・・怨念説
信長が光秀に対し幾度も理不尽な行為をしたことによる怨念から謀反をした説。
これは映画やドラマで多く使われたことから一般に通説とされていた。
よく知られる怨念の原因とされる信長の行為は次の通り
・悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。
・まだ敵の領地だった出雲国伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた。
・八上城戦で母を信長のために死なせてしまった。
・武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされた。
など
また、光秀が小早川隆景に宛てた書状に「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ため謀反を起こしたとの記述がある。
しかし、本能寺の変の前年に光秀が記した「明智家法」によれば、「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という趣旨の文を記しており、これによれば、信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変の3ヶ月前の茶会において宝器をおく床の間に信長の筆による書を掛けるなど、信長に心服している様子がある。このため、怨恨により謀反を起こしたという説以外の説を支持されているのでこの説が通説とは言い切れない。
その2・・・野望説
単に光秀が天下が欲しかったから謀反を起こしたという説。
しかし、これは後年作られた創作とされている。
また、フロイス「日本史」などの記述によれば、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだとあり、光秀が天下が欲しかったからと考えるのは難しい。
その3・・・四国征伐回避説
土佐国長宗我部元親が明智家臣の斎藤利三と姻戚関係を結んでおり、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。しかし、長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐国・阿波国2郡のみの領有と上洛(京都に行くこと)を命じた。これを、元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国征伐を開始した。
それにより、友好関係のあった元親のため、信長の四国征伐を回避するために謀反を起こしたとされる説。
その4・・・焦慮
光秀は織田氏代々の家臣ではなく、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、家臣団の中で有数の重臣となった。これは光秀が有能であったこともあるが、信長個人の信任があっかとこも言える。また、本能寺の変が起こる2年前の天正8年(1580年)には佐久間信盛林秀貞安藤守就丹羽氏勝といった重臣が大量追放されていることから、信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し謀反を起こしたという説。
また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられる。
信任が揺らいだと考えたとされる理由は次の3つが挙げられる。
①対四国政策の失敗。
②光秀がかつて足利義昭の家臣であったため、義昭追放後には光秀に対する信長の心証が悪化した。
羽柴秀吉による中国攻めの援軍として光秀の名があがったことは、光秀が秀吉の格下になることであり、光秀がそれを潔しとしないと考えたという説。
ただし、③については以前何度か光秀が秀吉の援軍となっている。
また、光秀が信長に仕えるようになった頃から秀吉は既に光秀の先輩格であり、光秀が秀吉に対する面子にこだわる理由もなく不自然である。
その5・・・発作説
合理的な理由などなく、発作性の強い行動の末、謀反を起こしたという説。
この説は歴史学者よりも歴史作家に多い説である。
その6・・・黒幕説
光秀でなく何らかの人物(黒幕)の意向を背景に光秀が謀反を起こしたとされる説。
この説には次のようなものがある。
足利義昭説
自分をに追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。
本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに景勝より身分の高い人物(足利義昭?)への協力を促している。
また、本能寺の変の直後、光秀が紀州の雑賀衆・土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者(足利義昭?)からの命令を指す「上意」という言葉を使っている。
織田家の跡取りの織田信忠を実際に討ったのも義昭の重臣である伊勢貞興であった。
しかし、光秀が義昭の家臣であったかどうかについて、確かな資料は存在しない。
また、細川藤孝筒井順慶へ協力を求めた際には、義昭(を臭わせる人物)の存在を知らせていない。
朝廷(正親町天皇誠仁親王近衛前久等の公家衆)説
三職推任問題での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説。
光秀は、信長・信忠を討った後、朝廷に参内し、金品を下賜されていることや、三職推任問題は本能寺の変の直前の出来事であり、信長の京への立ち寄りはこの返答のためと仮定すると、返答を阻止するのにちょうど良いタイミングであるなどのことから、朝廷が黒幕である可能性が示唆されている。
しかし、本能寺の変の当日、誠仁親王が二条御所にいたこと。二条御所での信忠たちの対応次第では、親王が戦いに巻き込まれて死亡した可能性もあることや近衛前久は本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川藤孝の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。
イエズス会説
イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。
ここでは「信長政権が南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。
しかし、
反論として、「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」「当時のイエズス会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金され、会を維持運営するのにも事欠く有様であった」などが挙げられている。この他、信用に欠ける「明智軍記」などを検証無く多数引用するなどの問題点があるため、イエズス会が黒幕という可能性は低い。
羽柴秀吉説
羽柴秀吉が自らの天下取りのため、光秀を唆し謀反を起こさせた説。
信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。
また、秀吉は信長の死の報を受けるとこの情報を疑いもせずに光秀を討ちに行ったことは当時、偽の情報が飛び交っていたことから不自然であることから秀吉を黒幕と考えられる。
しかし、物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたい。
もともとは「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより考えられた説なので、秀吉が黒幕とは考えにくく、フィクション等でよく使われる。
徳川家康
秀吉説と同様に自らの天下取りのため、光秀を唆し謀反を起こさせた(もしくは家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺した)説。
この説は、状況証拠が多いという程度に留まるが、、天海僧正(南光坊)=光秀説から可能性が秀吉説よりはある。
本能寺の変が起きたとき、家康は堺にいたが、伊賀忍者により岡崎に帰還したのは本来、もし信長が光秀を倒し、とちらに攻めて来ることを恐れ、帰還したのでは?とも考えられる。
この説も秀吉と同様にフィクション等でよく使われる。
以上のようなのがよく挙げられる説で他にもたくさんの説がありどれが本当かはわからない。
~本能寺の変の後~

本能寺の変の後はどうなったのか?
まず信長の死を知り、仇である光秀を討とうと急いで戻り10日程で戻った(中国大返し)そして、山崎の戦いで光秀を破り、光秀は逃げる途中で死亡。
家康は伊賀忍者により岡崎に帰還。
以上が本能寺の変についてです。(長文疲れた~)
なぜ、光秀が信長を倒そうとしたのかは今の時点ではわかりませんが僕はどの説も十分にありえると思います。
長文に付き合って下さってありがとうございます。
では、また次回・・・
※文章の一部をWikipediaから引用



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