そこは神様が降りてくるための空間だった。
小高い丘のてっぺんは夜風が素直に吹き渡る居心地のいい開けたところだった。ごろり、草原に寝転べば、群生する木々が譲ってくれたスペースに気持ち良さそうに身体を拡げた空、個を主張するべく一斉にまたたく星々。吸い込まれそうな目の前の景色にわたしは思わず目を閉じた。
「もったいないよ」
斜め上から降ってくる声に首を傾げてみせると、彼は困ったようにちょっと笑ったようだった。薄暗がりでもわかるくらいにその表情は既にわたしに焼き付けられていて、なおかつ胸を焦がされる。容赦なく、何度でも。
足を前に投げ出して座る彼の両手は大地にしっかりとついていた。その姿は地球の底から湧き上がるエネルギーを全身で感じているようにも見えた。彼は地球にまで愛されているのか、と思うと、何故か少しだけ泣けそうだった。
「ちゃんと観て」
焼き付けて、と自分の目を指しながら柔らかく諭す。
もう焼き付いてるよ。
そんなこと言えるはずもなく、黙って空を見やる。押し寄せる光。圧し掛かる夜。しかしそのすべてはわたしなんかに向かってきてはいない。彼を目掛けて、降ってくる。
いくつもの偶然の重なりを人は運命と呼んだ。必然として崇めた。ちっぽけな地球の、これまたちっぽけな島国、ちっぽけな野原に寝転ぶちっぽけないのち。限りなくゼロに近い確率を自分のものにしているのは他の誰でもなく隣に息づくいのちだった。
ああ、彼は宇宙にすら愛されている。
「星、どれがどれだかわかる?」
こくりと頷くが、指であれこれ示して名前を言い合う気分ではなかった。今は、そういう部分的な空を考えたいのではなかった。
「この大きな風景を、ちゃんと感じたい」
写真には残らない流動性を、空気を、音を、僅かな陰影を、デジタルで処理されない自然のままの繊細な光を。
彼は少し驚いたように息を飲んだ。しかしその後の吐息は安堵を表しているようにも感じられた。
「そうだね」
彼も横になり、地球の自転にその身を委ねる。
「こんなに綺麗だもんね」
その口調は幼児をあやす保育士のようだった。彼はわたしの先生で、彼は夜空という絵本を開き、わたしに語りかける。これが惑星、銀河、天の川。そのすべてが新鮮で、希望に満ち溢れた響きをしていた。
わたしと彼の年齢差は九つ。彼が大学に入った時、わたしはまだランドセルを背負っていた。けれど宇宙の歴史を思えば、それはあまりにも短い時間、とるにたらない一瞬のできごと。
勿論そこに意味がない訳じゃない。その九年間の重み、隔たりは何度もわたしの足を止まらせ、声を出すのを邪魔してきた。それでも、九年なんて長くないと思えたことが重要なのだ。彼もまたそう思ってくれたなら、わたしたちはもっともっと親密になれるはずだから。
早く追い付きたいけれど、頭も身体もまだまだ未熟過ぎて、彼の本気とぶつかることはできなかった。ばかなわたしは、いつだって余裕を見せる彼に全力で相対することをできずにいた。どうせ敵わないのだから、とこちらも気のない振りをして、飄々として、かわしてかわして接してきた。けれどそうこうしているうちに心の奥を焼かれてしまった。彼は基本的にわたしに無関心だったけれど、ときどき気まぐれに焦げ跡を優しく撫でるものだから、勘違いしてその手を掴もうとしたことは何度もあった。でも、そうしてばかを見るのは自分だから、わたしは結局撫でられながら曖昧に微笑むしかできなかった。
「またいつか観られるといいね」
ぽつり、零した言葉さえ甘い。とろけそうな心を抱いて、わたしはまた目を閉じた。
まだこの幸福は終わっていない。星は変わらず輝きを運んできて、風は遠くの木々を揺らしているのに。この時間が終わらないうちから次を意識させる彼はほんとうにずるいひとだ。
「吾妻さん」
わたしは初めて固有名詞の彼を呼んだ。下の名前はまだ知らない。
何、と限りなく優しい灯りをともした瞳がこちらを向く。
「また逢いたいです」
「うん」
存在するかもわからない透明の想い出に、切望する未来の色の約束を塗る。これ以上曖昧なものがこの世にあるだろうか。そしてこんなものをわたしは後生大事にしてしまうのか。慈しんでしまうのか。こんな、こんな不確かなものを。
それができたのは今が夜で、何を見てもシルエットでしか捉えられない世界の中で、彼の声だけがくっきりと存在感を放っていたからだ。
「いつかまた、ね」
ほら、またそうやって、わたしに魔法を掛けてしまうんだから。
小高い丘のてっぺんは夜風が素直に吹き渡る居心地のいい開けたところだった。ごろり、草原に寝転べば、群生する木々が譲ってくれたスペースに気持ち良さそうに身体を拡げた空、個を主張するべく一斉にまたたく星々。吸い込まれそうな目の前の景色にわたしは思わず目を閉じた。
「もったいないよ」
斜め上から降ってくる声に首を傾げてみせると、彼は困ったようにちょっと笑ったようだった。薄暗がりでもわかるくらいにその表情は既にわたしに焼き付けられていて、なおかつ胸を焦がされる。容赦なく、何度でも。
足を前に投げ出して座る彼の両手は大地にしっかりとついていた。その姿は地球の底から湧き上がるエネルギーを全身で感じているようにも見えた。彼は地球にまで愛されているのか、と思うと、何故か少しだけ泣けそうだった。
「ちゃんと観て」
焼き付けて、と自分の目を指しながら柔らかく諭す。
もう焼き付いてるよ。
そんなこと言えるはずもなく、黙って空を見やる。押し寄せる光。圧し掛かる夜。しかしそのすべてはわたしなんかに向かってきてはいない。彼を目掛けて、降ってくる。
いくつもの偶然の重なりを人は運命と呼んだ。必然として崇めた。ちっぽけな地球の、これまたちっぽけな島国、ちっぽけな野原に寝転ぶちっぽけないのち。限りなくゼロに近い確率を自分のものにしているのは他の誰でもなく隣に息づくいのちだった。
ああ、彼は宇宙にすら愛されている。
「星、どれがどれだかわかる?」
こくりと頷くが、指であれこれ示して名前を言い合う気分ではなかった。今は、そういう部分的な空を考えたいのではなかった。
「この大きな風景を、ちゃんと感じたい」
写真には残らない流動性を、空気を、音を、僅かな陰影を、デジタルで処理されない自然のままの繊細な光を。
彼は少し驚いたように息を飲んだ。しかしその後の吐息は安堵を表しているようにも感じられた。
「そうだね」
彼も横になり、地球の自転にその身を委ねる。
「こんなに綺麗だもんね」
その口調は幼児をあやす保育士のようだった。彼はわたしの先生で、彼は夜空という絵本を開き、わたしに語りかける。これが惑星、銀河、天の川。そのすべてが新鮮で、希望に満ち溢れた響きをしていた。
わたしと彼の年齢差は九つ。彼が大学に入った時、わたしはまだランドセルを背負っていた。けれど宇宙の歴史を思えば、それはあまりにも短い時間、とるにたらない一瞬のできごと。
勿論そこに意味がない訳じゃない。その九年間の重み、隔たりは何度もわたしの足を止まらせ、声を出すのを邪魔してきた。それでも、九年なんて長くないと思えたことが重要なのだ。彼もまたそう思ってくれたなら、わたしたちはもっともっと親密になれるはずだから。
早く追い付きたいけれど、頭も身体もまだまだ未熟過ぎて、彼の本気とぶつかることはできなかった。ばかなわたしは、いつだって余裕を見せる彼に全力で相対することをできずにいた。どうせ敵わないのだから、とこちらも気のない振りをして、飄々として、かわしてかわして接してきた。けれどそうこうしているうちに心の奥を焼かれてしまった。彼は基本的にわたしに無関心だったけれど、ときどき気まぐれに焦げ跡を優しく撫でるものだから、勘違いしてその手を掴もうとしたことは何度もあった。でも、そうしてばかを見るのは自分だから、わたしは結局撫でられながら曖昧に微笑むしかできなかった。
「またいつか観られるといいね」
ぽつり、零した言葉さえ甘い。とろけそうな心を抱いて、わたしはまた目を閉じた。
まだこの幸福は終わっていない。星は変わらず輝きを運んできて、風は遠くの木々を揺らしているのに。この時間が終わらないうちから次を意識させる彼はほんとうにずるいひとだ。
「吾妻さん」
わたしは初めて固有名詞の彼を呼んだ。下の名前はまだ知らない。
何、と限りなく優しい灯りをともした瞳がこちらを向く。
「また逢いたいです」
「うん」
存在するかもわからない透明の想い出に、切望する未来の色の約束を塗る。これ以上曖昧なものがこの世にあるだろうか。そしてこんなものをわたしは後生大事にしてしまうのか。慈しんでしまうのか。こんな、こんな不確かなものを。
それができたのは今が夜で、何を見てもシルエットでしか捉えられない世界の中で、彼の声だけがくっきりと存在感を放っていたからだ。
「いつかまた、ね」
ほら、またそうやって、わたしに魔法を掛けてしまうんだから。
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