クロロホルムの祈り

創作活動をとおして春秋を綴ります。

ようこそ、「クロロホルムの祈り」へ

その香りが甘く感じるのは錯覚でしょう、きみの笑顔がとろけそうなくらい優しく見える。             綺麗な瓶に入れて可愛らしいリボンで結わえても、毒は所詮、毒のまま。                                     もし愛されたいと願うのならば、 わたしと一緒にすべて知らないふりをしませんか。                                                             いつかあなたが甘い夢から醒めても、ずっとずっと。                                                             たとえ、あなたがそれを望んでいなくても。                                                                                                                                     ――クロロホルムの祈り               (紅瀬奏子)                                                                                     

孤独のおとなり

2012年01月01日 02時42分30秒 | ショート・ログ
 電車の窓に切り取られたいつもの街は赤を介せずして青から黒へと変化しつつあった。煌々と光る車内の照明がやけに寒々しい。それとは相反する、座席の下の方から足元に吹き寄せる熱風がやつれ顔の乗客の眠気を誘っている。
 青と黒の境を彷徨い続ける空のところどころを灰色の雲がどんよりとした重量感をかもしだしながら、ちっとも流れず居座っている。
 ローカル線とはいえ比較的利用者の多い、住宅街の中にある駅をいくつか過ぎると、それなりに混んでいた車内も広くなり、人が去ったあとの特有の侘しさが漂いはじめる。
 もし今、車内に閉じ込められたら、とふと考えた。誰もが心のどこかで自分はきっと有用な人間だと信じているはずだ。だから自分だけは助かる、一番に助けてもらえる、と勘違いしているに違いない。かくいうわたしも含め。
 もしくは、と違う可能性を打ち出してみる。この車内に高貴な存在の人がお忍びで来ていたとしたら。例えば、斜め右前で携帯電話を触っている女性がどこかの中小企業の社長令嬢だったり。ドアの横に立つ青年が天皇家の血をひいていたり。
 しかしそんなことはなかなかない。そういう人はまずこんな時間にこんなローカル線なんかに乗らないものだ。もしあったとしてもその可能性は限りなく低い。でも万が一いるのだとしたら、その人から助け出されるのだろうな、と先ほどの問いに答えを書き加えた。
 もう少し有り得そうなこと、と別の切り口を探す。もしも……。
 もしも、ここに恐ろしく成績のいい人がいたら。例えば、目の前で数学の教科書を見ながらときどき手にしているシャープペンシルで何やら答えらしきものを書き付けている女子高生。たしかあれはこのあたりでは有数の進学校の制服だったはずだ。靴や鞄が指定のものでないあたり、間違いなさそうだ。けれど、と教科書を開いたまま携帯電話を触り出した女子高生を視界の端で捕らえながら思う。確かにあの学校はかなりのハイレベルなことをやっていると聞くが、果たして彼女はそれについていけているのだろうか。
 というのは、もはやお節介の域に入ってしまっている。その考えもさっさと打ち消して、わたしの意識はまた窓外へ向かった。
 青みが薄れ、モノクロウムのコントラストですべてのものの輪郭だけが浮かび上がる。それを眺めるのは何だか心地よく、案外落ち着くものだった。
 いつもの降車駅の名を車掌が告げ、わたしは立ち上がる。重たそうな外界に一歩踏み出すと、意外に軽やかな冷気がわたしをさっと取り巻いた。もう二、三歩進むと電車のドアがぴしゃりと閉められた。乗車客はいなかった。勝手にすべてをリセットしたがるひとりぼっちのわたしには、このいつまでも裏切らぬ黒がいちばん優しいらしい、と改札へ向かいながら考えた。

レインコートはもういらない

2010年08月17日 15時00分06秒 | ショート・ログ
教室を出るのが遅かった。図形が足を引っ張るので、ある志望校は難しいといわれた。
 とりあえず、進路については他に推薦をもらっているからいい。
 今、他の何よりも優先すべきことは、南門で待たせているレナのこと。
 有也は階段を駆け降り、けらけらとどうでもいいことで笑い合える幸せな連中をかき分けて南門へと急いだ。
「待たせてごめん」
 肩で息をする有也を、レナは屈託のない笑顔で迎えた。
「いいよ。だって、今日も部活あるんでしょ。あたし一人で帰れるから大丈夫」
 先を見通して物をいうレナに有也は頭が上がらない。確かに帰宅部のレナとは違い、運動部レギュラーの有也の放課後はなかなか忙しいのだ。あと余談だがレナは有也の知る限りでは一番女の子らしい。有也が、ありがとう、という間もなくレナは、
「それじゃあ、ね。また明日」
といって足早に去ってしまった。有也は好奇の視線が刺さるのなんて気にせず、小さくなる背中に頭を下げた。

 戻ってきた教室は無人で閑散としていた。この静けさに慣れている有也はすたすたと個人ロッカーに歩み寄り、中からジョウロを取り出した。ジョウロを近くの机に置くと、カランと冷たい金属音がした。
 そして水場へ向かうと腕まくりをし、思い切り蛇口をひねった。勢いよく水が飛び出し、そう大きくはないジョウロは二十秒もしないうちに水があふれてしまった。
 もう一度蛇口をひねって水を止めると、有也は中庭へと続く廊下を、水をこぼさないよう細心の注意を払って歩き出した。
 中庭の花壇では、季節の花々がぐったりしているようにみえた。ここのところ雨は降らないし、担当者が長く休んでいるので、水に飢えているのだ。
 有也は、花や茎をへしおらないよう根元にたっぷりと水をやった。昨日、図書室で調べたとおり、植物によって水の量や水やりのしかたを変えながら、水が無くなっては水場と中庭はいったりきたりした。
 五回も往復しただろうか。花だけでなく、近辺に植わっている樹木にも水をやった。
 有也は大きな満足感に包まれて、もと来た道を行った。有也の歩く姿が心なしか弾んで見えた。

 あくる日、レナは教師に頼まれて資料を教室まで運んでいた。その華奢な腕のどこに力が入るのか、分厚くてみるからに重そうな事典全集を四冊も抱え、おまけに教師のファイルまで乗せていた。
 ここ数日、有也が一緒に帰ってくれない。
 帰ってくれないのではなく、帰れない、ことはよくわかっているのだ。自分も部活にはいってしまえばよかったと、今さらながらに後悔した。
 ふと廊下から窓の外を見ると、ぽつりぽつりと雫が落ちていくのが見えた。
 それが雨だと認識してからレナは事典を下に置くと、窓を閉めようと手をかけて、ふと外を見ると、レナの視界に色とりどりの花々が雨の中、立派に咲き誇っていた。
「恵みの雨ね」
 その花の色はパレットにもペンケースにもなかった。ここまで花のかぐわしさが伝わってきた。また、雨に押しつぶされないよう周りの樹木が花をおおっているかのようにも見えた。
 少しの間ある余韻に浸っていたレナは辞典を拾おうと振りかえると、辞典をまとめて持ってくれている人の姿があった。
「有也っ」
 レナが言葉を続けるより早く、有也が口を開いた。
「今日は、一緒に帰ろうか」
 雨でに冷やされてひんやりとした廊下に、二人の温かい笑い声が響いた。

色彩に殺されて

2010年08月17日 14時49分52秒 | ショート・ログ
 数日前にこのアトリエに訪れたときは真っ白だったカンバスはバレエの衣装を身にまとった少女の立ち姿が描かれている。どこか遠くを見つめる意志の強そうな瞳、一文字に結ばれた唇、上がりきらない頬など、美しく、それでいてどこか切ない表情は鮮明に描いてあり、衣装はバレリーナにしては質素なもので、少女の膝下あたりからつまさきにかけては背景と調和するようにぼかす技法が用いられている。暖色を基調とするそれは描く人の性格とはまるっきり逆の路線を行っているように見えた。
「この子、生きてるの」
 何の気なしに尋ねた。筆を動かす手が一瞬止まったように見えたが、わたしに向けられたままの背中は微動だにしない。
「ああ」
 イエスともノーともつかない、ただ返事をするのが面倒だというような答えは浅丘の口癖であった。上唇とした唇の間に空気の通り道をつくり、軽く喉を鳴らす程度に息を吐けば、その音は出た。
「足元がぼんやりしてるから幽霊みたいに見えた」
 思ったままの感想を述べると、浅丘はパレットと筆をサイドテーブルへ静かに置いた。
「あんたにそう見えるなら、それでいいよ」
 浅丘は首にかけたタオルで額の汗をぬぐった。
 
 荒れた指に選定された絵の具のチューブからでてきたのは黒。浅丘は筆の穂先を丁寧に扱って黒く染めた。そしてそれでカンバスに大きく二本の線を入れた。右上から左下へ、それと交わるように左上から右下へ。
「失敗作」
 浅丘は筆をパレットに置いてアトリエを出て行った。開けっぱなしの扉がか細い音をたてて揺れている。
 大きなバツをつけられたその少女の瞳が光って見えたのは、差し込む西日に照らされていることだけが原因でないと思う。
 わたしは黒い線を指でなぞり、それを拭いとるためのものを探した。



(title by 楽田様)


静かにはじまる月曜日

2010年08月17日 14時46分39秒 | ショート・ログ



 それに深い意味なんかあるはずもなく、ぼくは眠れない夜の退屈しのぎに外へ出たまでだった。
 家の中でのんびりとなんてしていたくなかった。宿題は終わっているし明日の支度もできているのだから、風呂に入り布団をかぶって寝てしまうことだってできたのに、そうしようとは思えなかった。否、そうしたくない、という衝動がぼくの心の奥底から沸々と湧き上がってきたのである。
 ウインドブレーカーを着たのは寒さを懸念したわけじゃなく、ただなんとなく。部活動でそろえた濃紺のそれならば、闇夜にまぎれてしまうこともできよう。
 昼間の喧騒からは考えられないほどに静まり返った道に、深夜ラジオの放送時刻を告げるアラームが空しい響きを聴かせた。ぶるぶると小刻みに震える携帯電話でさえ、ぼくを弱虫だと云って笑っている。
 電灯は青白く、人工的で冷たい光を放つ。
「別に」
 いいよ――聴かなくても。
 口に出すと余計に寂しくなる。周りに同調するわけでもなく、親や先生に勧められたわけでもなく、自ら好んでいたラジオ番組を結果的に聴き損ねることになったが、アラームに気付かず寝過してしまった夜に比べて落胆は極めて小さいものであった。もはや無いに等しい。どうでもいい。
 あてもなくさまよううちに少し大きな通りに出た。
 曲がり角を利用して建つ二十四時間開店休業状態の店、過疎地のコンビニエンスストアには数台のトラックと自家用車にまぎれて、申し訳程度に自転車が止まっている。店内は煌煌と照明が点いており、そのお零れが自転車に降り注いでいた。
 自転車はよく見るとボディが黒く、どちらかというとクールな少年が颯爽と乗っていそうなものだった。大人用とは言い切れないデザインとサイズが妙に印象的で、思わず足を止め、それを見つめた。目下、ノー・パーパスの外出中であるぼくを縛るものは何もない。
「おい、そこ!」
 ――はずだった。野太い声に振り向けば立っていたのは一番会いたくない人物のうちの一人、生徒指導主事の松井であった。下手すると親よりもまずいことになりそうだ。
「ぼくですか」
 とぼけるな、と云われるとまたやっかいなので、申し訳なさそうに云っておく。コンビニの壁面に掲げられた時計をちらりと盗み見ると二十三時半過ぎ。
 深夜徘徊か。自然と視線が地に落ちる。
「岸本か、こんな時間に何やってんだ」
 松井はいつものにやにや笑いさえなくし、ぼくの目の前で仁王立ちになった。
 ぼく自身も先ほどまでの気だるさが引きずって、松井に捕まったら最後だなんていつも騒いでいた割に焦りは生まれなかった。だから言い訳なんて考える気にもならない。
 ぼくは落ちぶれるところまで落ちたのだ。
「どうした、岸本。何かあったのか」
「いや、あの……」
 言葉が続かない。何を言っても結果は変わらないに決まっているとわかったから口をつぐんだ。
 とりあえず事の善し悪しよりも松井に見つかったことが最悪に思ったから、ランニングついでに来ました、という顔をしてやりすごすことにした。どうせ見つかるなら松井じゃないのが理想的だ。何から何までついてない。
 松井の手にはコンビニのロゴが入ったレジ袋が握られている。その重量感からして弁当かパック入りの惣菜がいくつかとペットボトル一本、さしずめ夜食と云うところか。
 だから太るんだよ、まったく。
「お前も馬鹿じゃない。やっていることがどんなことかわかるだろう」
 わからない。深夜徘徊だって云いたいんだろう。それはよくよく承知した上での外出だ。小さな旅だ。というか、ぼくが教えてほしいくらいだ。どうして夜はこんなに寂しいのですか、侘しいのですか、人恋しくなるのですか、と。
 あれ、でもぼくは夜が嫌になったから外に出たのか?
「おい岸本。何か云ったらどうなんだ」
「先生、ぼく――」
「何も話す気がないのなら場所を変えよう。お前、眠る気ないだろう。夜明けまで話すことがたっぷりありそうだ。楽しみだなあ。学校でも自宅でもいいぞ。なんなら警察署でもいいんだがなあ」
 松井イズムが戻ってきた。必殺、思わせぶりな瞳、だなんて勘違いしているのか、頻繁に瞬きをする。
「よし、行くぞ。幸いその身なりなら学校にも入れるしな」
 そう云って松井はぼくの腕をがしりと掴んだ。無論、レジ袋を持つのとは反対の手で。
 その衝撃がぼくを正気に返らせた。
 まずい。深夜徘徊、イコール非行、イコール進路に支障が出る、イコールぼくに未来はない。
 完全に真面目くんではなくとも、学校の中で多少は素直な自分を無理しつつも演出しているわけで、勉強もそこそこにやって小学校からの積み重ねで上の下くらいで保っていて、部活だけは熱心に取り組んでいるつもりだ。前期の通知表には投球練習に余念がない、と書いてもらえた。生徒会活動は毎回欠かさず参加しているし、宿題も毎日きちんとやって提出している。今日だってちゃんとやってあるのだ。あのまま寝て、走りこみの朝練習に備えればよかった。
 気づくのが遅すぎた。
 ぼくを引っ立てていこうとする松井はあまり力を込めていない。掴んだ時こそ効果音が聞こえてくるほど痛かったのに、身柄さえ拘束すれば思い通りになるとでも考えているに違いない。
 ――否、違う。ぼくが動くのを待っているのか。
「任意同行かよ」
「なんだとっ!」
 肘が悲鳴を上げた。松井が再び力んだようだ。暴力じゃないのか、これは。
 痛い。古傷がうずいて思わず目を閉じた。
「岸本くんっ?」
 ありえないはずの少女の声さえ聞こえる。肘が限界だ。ぼくは完全におかしくなったのだ。気が狂った。目を開けるのが怖い。天使や悪魔が飛んでいるかもしれない。猫が話すかもしれない。月が笑っているかもしれない。完璧な現実逃避だ。しかし、そうあってほしいと願う自分がいる。
「先生、離してください。松井先生っ」
 松井――夢の世界に松井がいるのか? なんて嫌なやつ。しつこいにも程がある。
「ほら、岸本くんも!」
 脇腹をドンと突かれて目が覚めた。一体、ぼくの正気はどこにあるんだ?
「何するんですかっ」
 状況を考えれば、これ以上罪を重ねないほうがいい。時間帯からして大きな声は禁物だから、ささやくくらいの声量にしようとして止むを得ず、結果掠れ声を荒げるかたちになった。いくら松井でも脇腹に入れてくるのは無しだろう。
「何って云われても……」
 次に聴こえたのはさっきの女声。幻聴じゃない。声のもとを見れば女がいた。そいつは歯は閉じていて唇は半開き、目はぱっちり開かれていて左手は口元に添えられている。要するに驚いているのだろう。
「塚田はどうしてこんな時間に?」
 ぽかんとしている松井も職務を忘れはしなかったらしい。
「は、塚田?」
 ぼくが云うと、
「塚田汐海です」
 そいつは律儀に平然と名乗った。こんな調子、さっきの慌て様は何だったんだ?
「天体観測ですよ。ふたご座流星群を見るんです。ほら、岸本くん、行くよ」
「あ、うん……」
 ドラマでよく見る下手なウインクとは違う、自然な瞬きのように塚田は片目を閉じてぼくに合図してきた。なんとなく感じ取った指示通り、頷く。
「理科の秋吉先生にもちゃんと許可取りましたよ。サイン、見ますか?」
 塚田は淀みなく話し、肩から下げたポーチに手をかけた。
「いい、いい。見せなくていい。なんだ、岸本も一緒なのか」
「はい。望遠鏡とかセットするのにかなり力がいるんです。彼の腕力、頼りになりますよ」
 左手で頬を押さえてにこりとほほ笑む。暗がりのこちら側からすれば、コンビニを背にした塚田は後光が差した女神のようである。
「じゃあ行こうか。先生、夜なのに大変ですね。わたしたちのために有難うございます」
「おお、まあな。頑張れよ、いい観測になるといいな」
「はい」
 塚田はぺこりと一礼してぼくの手を引いた。同じように会釈して慌ててついていくと、彼女はポーチを肩から外して自転車のかごに入れた。鍵をカチャリと開ける。
 それは黒くて細身のあの自転車だった。
「貸して」
「ありがとう」
 尋ねたいことばかりが脳内で渦巻く。話のきっかけづくりを、とぼくは塚田の自転車を預かり、引いてやることにした。
「あ、こっちね」
 塚田の指さす方向は僕の家とは反対方向の路地だった。はじめから考えなおせばどうせ帰るつもりのなかった外出だ。遠回りではあるけれど、いいだろう。
 コンビニの駐車場から出て道なりに進もうというとき、ふと振り返ると松井が車に乗り込むのが見えた。そういえば、あのレジ袋。そろそろ弁当は冷えてきたんじゃないだろうか。ペットボトルの中身も温くなってしまっただろう。ぼくなんかを捕まえていい気になるからいけないんだ。ははは、と心の中で笑ってやった。
 自転車を挟んで二人、並んで歩く。病人のように見えた電灯が今はスポットライトに見える。ところどころに立つそれが、塚田の横顔を照らした。学校では後頭部で一つにくくっているからわからなかったけれど、髪は背中の半分を隠すくらいに長く闇に溶け込むような黒だった。彼女が見たくて何度かちらりと横を見たけれど、その度に何か話さなくてはと思って、焦った。
「岸本宏也です。あの、助けてくれてありがとう……」
 浮かんできた疑問や何かはとりあえず置いておき、とりあえず感謝を述べた。
 小学校の時に、悪いことをしたらこれこれをこうしてしまってごめんなさい、何かしてもらったら、これこれをこうしてくれてありがとう、と理由をつけて話すように言われた経験はないだろうか。あの角ばった、言わされている感が前面に出されるやつだ。
 とは云えはっきり伝えたいことであるのは確かだ。しかし語尾が曖昧になってしまう。僕が彼女に気圧されているのか、はたまたあんなめにあったあとだからか。助けてもらった身なのだから、格好悪いことに変わりはない。
「理由は訊かないから」
 え、と声を漏らすと、塚田は前を見たまま口角をきゅっと上げた。
「ふたご座流星群ね、すごいときには一時間に五十個とか六十個とか見られるんだよ。毎年毎年堅実に、活動度も高くて大気の透明度もいい時期で、ちょっと地味な流星が多かったりもするけど、満月くらい明るいのも見られたりするの。綺麗なんだよ。きっと好きになるよ。絶対また見たいって思うから」
 それだけ早口にまくしたて、急に僕の手に自分の手を重ねてきた。
 公園のベンチで二人、って時だったらよかったけれど、この場合はそんなに青春の一ページらしいものでもない。ただ自転車のハンドルを奪われただけだ。正しくは、取り返されただけ。重ねた、といっても指一本分触れたか触れてないかという程度だ。甘くない。むしろその中途半端さが苦い。
「ここでいいよ。岸本くんの家、反対方向でしょ」
「あ、ああ、そうだけど……」
 強い力で引っ張られて僕の手から自転車が離れた。空っぽになった僕の両手が宙に浮く。
「早めに寝なよ」
 明日は月曜か、とつぶやくと、もう月曜だよ、と小さな声が返ってきた。携帯電話をちらりと見ると、確かに、二十四時を回っていた。
 塚田はじゃあね、と言ってそのまま自転車を引き、小走りに行ってしまった。何か意図するところがあってか、近くの曲がり角に消え、僕は追うことができなかった。
 両手は拳をつくり、僕の身体の横へ降りてきた。夜風がさわさわと路地を吹き抜ける。
「帰るか」
 僕はくるりと向きを変え、家路を急いだ。どうして外に出てきたのだろう、こんな目にあったのだろう、塚田に助けられたのだろう。いろいろ知りたいけれど、今は一刻でも早くあの暖かいベッドに入って眠りたいと思う。
 明日、学校で塚田と話そう。訊きたいことが山ほどある。何よりあいつと少し話してみたいから。
 眠い。今は夢か現かさえわからない。もし今が現ならば夢に塚田が出てきそうだ。松井の出演は拒否したいけど、回想シーンに秋吉先生が出てくるのも悪くない。



さよならをつれていく

2010年08月17日 14時45分28秒 | ショート・ログ

 自分とヤマが結ばれないことなんてとっくにわかってた。
 ヤマは専らの野球少年だった。肘を悪くしてもずっと投げていた。キャプテンの役を押し付けられても黙って雑用をこなして放課後は後輩に混じってグラウンドの整備をしてた。帰宅してからは庭向きの窓の前で投球練習。夜は窓がマジックミラーみたいになって、ヤマはフォームを確認しながら丁寧に、でも俊敏に、勢いよく。本当にその手から白いボールが投げられてくるみたいだった。その直向きさに惹かれて彼を見初めたあたしだけど、その小さな判断はきっと間違ってなんていなかった。だって今でも好きだもの、ヤマのこと。好きだよ、ヤマ、殺したいくらいに好き。
 でもヤマには思いを寄せる人がいた。名前もちゃんと知ってる、知りたくなかったけど。ヤマの名前もヤマしか知らないのに、なんで知ってるんだろう。ヤマダかもしれないしヤマグチかもしれないし、アオヤマともコヤマともつかない。わからない。もしかしたらヤマのつく苗字じゃないかもしれない。
 ウリ。それがヤマの好きな人。嫌なのは、あたしがウリの名前なら全部知ってるってこと。ヤマはウリにメールするときだけ手が震えてた。何回も何回も文章を練り直して、慎重に絵文字を選んで空白を空けたり改行したりして、でも学生の経済的にこの通信量はどうなんだろうって文章を少しずつ削って、そして送信しようとして何度も指を止めた、あと一ミリ、一ミリだけ指を下ろせば三秒もしないうちにウリのところに届くのに、その一ミリのために何時間も迷って。ヤマが宿題をやるときには絶対に机の上に携帯電話があった。画面は送信しますか、にイエスかノーかで答えるところ、早く送ればいいのにってとっても、もどかしかった。連絡網が回ってきたら、ウリに「これ聞いた?」ってさりげない感じを装ってメールで尋ねたり、教室の背面黒板の飾りから誕生日をちゃんと覚えてて「おめでとう」って普段使わないデコレーションメールとかしてみたり、その度にヤマの送信ボックスに未送信のメールばかりが溜まっていく。宛先は全部ウリ。一つの要件のためのいくつも試作品を作った。何かの開発者みたいだったよ。ときどき思い切ってまとめて削除してたところも。可愛いヤマ。ウリからの返信を今か今かと待ち構えていて、届いたときにはとっても嬉しそうで。ウリが気を遣わずに携帯電話の学習機能に沿って返信してたなんて事実、あたしは知ってたけどヤマには教えたくない、絶対に。学級でやってた朝のスピーチ、ウリからもらった感想用紙だけ大事そうに読んでた。他の子とそう変わらない、何の変哲もないただの感想なのに愛おしそうに引き出しにしまってた。ストーカーみたいに気持ち悪いことは何にもなかったと思う。クラシック音楽なんて全然興味がなかったのに、ウリが好きだと云っていたショパンを聴いてみたり、ちょっとした野球部の成果をさらりと報告したり。ストーカーじゃなくても好きなんだろうなってばればれだと思う。でも部活ならともかく学級の連絡網だってそんなに頻繁にあるものじゃないし、毎回ウリにメールするほどヤマも暇じゃなかったから、ウリもヤマのことを疎ましくなんて思っていなかったはず。仲がいい、ってくらいには思ってたのかな? でも周りもウリも鈍感すぎるよ。もしかしたらあたしの特権で気付いていただけかもしれないけどね。ヤマは気付いてほしかったのかな。
 ウリの話ばかり長々とできちゃうあたし、ヤマはもっとウリのことを知りたいんだろうし、ウリが大好きなんだよね。あたしのことなんてヤマは知らないんだろう。あたしがヤマのこと思ってるだなんて知る由もないもんね。
 存在だけでもヤマに知ってほしかったよ。ウリにはウリの好きな人がいるんだよって教えてあげたいよ。だからこっち向いてよ、あたしのほう見てほしい。叶えられないのはわかってるけど、結ばれないことなんてわかってたけど、ヤマが好き。
 こんなことしちゃいけないってわかってるけど、しないほうがいいってわかってるけど。あたし知ってる。ヤマがウリに告白しようとしていること。何日もかけてつくったメール、まじめな気持ちだったから結局、句読点だらけになっちゃったんだよね。そしていつも削除する分と一緒に消しちゃった。アドレス帳のボタン押して、電話番号とにらめっこしたときもあったね。でもやっぱり発信ボタンが押せなかった。結局はまたメールに頼って。そういえば手紙って発想は無かったね。それで、メールしたのは「今日会える?」から始まって、何度かやりとりして最後は「公園で待ってる」だった。直接会って口に出して伝えようとした、ヤマのそういうところがあたしは大好きなんだよ。
 でもヤマよりももっと知ってるよ。ウリよりももっと知ってる。このままいったら二人は付き合わない。付き合えない。ウリがヤマに「ごめんね」って言うの。そしてヤマは「本気にするなよ、冗談だよ」って笑うの。ヤマの瞳が潤いかけるのをウリは気付かないふりして、その瞬間からもう仲良しの二人には戻れない。アドレス帳からお互いの名前が消えちゃう。
 そんなの嫌。ヤマには幸せになってほしい。あたしがヤマと一緒になれないのは理解してる。納得はいかないけど、それは受け入れなくちゃいけない事実だから。だから、だから、せめてヤマの幸せだけ。ヤマの願いだけ叶えてあげたい。
 わかってる、わかってる、わかったつもりかもしれないけど、ほんとにわかってるんだよ、あたし。ヤマが好き。あたしをこんなに幸せな気持ちにさせてくれてありがとう、幸せにね、ヤマ。あたしのことなんて気付きもしなかったでしょうし、これから気付くこともないでしょう。恩着せがましいって思うかもしれないけど、本当に好きなの、ヤマのこと。だからせてヤマのために生きたい。今ならそれでいいと思える、ヤマがウリといて幸せになれるなら、初めから結ばれないあたしなんかが出しゃばるより、ヤマの幸せを願っていたいの。
 ねえ神様、あたしの、天に仕える者の権限で、二人からさよならを奪っていってもいいですか。



(title by はぐみ様)