世の中が色んな事が効率化されていった一方で、却って忙しくなって生き辛くなったとネットでは言われているけれど。
一方で昔なら教科書と黒板の板書が絶対だった世界で、LDの人にとっても使いやすいタブレット使用が認められるようになったり。
一昔前は発達障害という事自体知られていない時代で、様々な特性から来る不得手に対しては「甘え」や「わがまま」「根性が足りない」などの叱責対象で、気合いとか努力という効果が実は無い事ばかりが求められてきたように思う。
私の子どもの頃なんて、障害者への偏見はかなり強かった。
特別支援学級(一昔は特殊学級と呼ばれていた)の存在は罰則のため行くような場所扱いだった(母がそういう見方だった)。
実際の意義は、全く全然違うのだけれども。
息子よりも数年上の当事者で通常クラス在籍の人への教育支援はほぼ無くて親が苦労したという話も聞いている。
でも、今は、当事者の苦手さと得意さにアプローチした取り組みが行われるようになった。
根性とか、根拠の無い努力では無くて、合理的なアプローチで本来の力が発揮できるようになってきていると思う。
もちろん、今も偏見はあるものと思うし、間違った理解、特別支援教育が正しく行われず苦労しているお子さんと親も見えると思うし、
不正を働く福祉支援事業もあるし、まだまだな部分もあるけれど、
全く発達障害知らなかった時代よりはまだ進化はしたのではと。
息子の頃に当事者への合理的なアプローチへの道ができたことはやはり良かったのだと思う。
私の母がやってしまったような無意味な叱責や強要、罰などしなくて本当に良かった。
やっぱり心配はあるけれど、私よりもある意味スキルを身につけているし、自己肯定感もあると思う。
一方で昔なら教科書と黒板の板書が絶対だった世界で、LDの人にとっても使いやすいタブレット使用が認められるようになったり。
一昔前は発達障害という事自体知られていない時代で、様々な特性から来る不得手に対しては「甘え」や「わがまま」「根性が足りない」などの叱責対象で、気合いとか努力という効果が実は無い事ばかりが求められてきたように思う。
私の子どもの頃なんて、障害者への偏見はかなり強かった。
特別支援学級(一昔は特殊学級と呼ばれていた)の存在は罰則のため行くような場所扱いだった(母がそういう見方だった)。
実際の意義は、全く全然違うのだけれども。
息子よりも数年上の当事者で通常クラス在籍の人への教育支援はほぼ無くて親が苦労したという話も聞いている。
でも、今は、当事者の苦手さと得意さにアプローチした取り組みが行われるようになった。
根性とか、根拠の無い努力では無くて、合理的なアプローチで本来の力が発揮できるようになってきていると思う。
もちろん、今も偏見はあるものと思うし、間違った理解、特別支援教育が正しく行われず苦労しているお子さんと親も見えると思うし、
不正を働く福祉支援事業もあるし、まだまだな部分もあるけれど、
全く発達障害知らなかった時代よりはまだ進化はしたのではと。
息子の頃に当事者への合理的なアプローチへの道ができたことはやはり良かったのだと思う。
私の母がやってしまったような無意味な叱責や強要、罰などしなくて本当に良かった。
やっぱり心配はあるけれど、私よりもある意味スキルを身につけているし、自己肯定感もあると思う。
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