goo blog サービス終了のお知らせ 

詩客 ことばことばことば

詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第34回 水3 相沢 正一郎

2015-12-19 08:13:47 | 日記
 水……地球の表面の三分の二が海(生きものの成分も三分の二が水)。この水の年齢は、地球誕生と同じだいたい四十五億歳。そして、三十五億年ぐらい前に生命が生まれた。
 それでは、水の中で誕生した生きものとは何か。以前に「第28回 からだ」に書いたこととも重なりますが、「いっぽんの管」なのではないか、と思います。食べものを「食べ」て口から胃腸、肛門へ栄養を摂取しながらエネルギーに変え、残滓を排出。けっきょく消化器の孔。いっぽんの管。その管が、三十数億年かけて背骨や肺、手足や目などが加わって、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類に進化させてきました。

 夜中に目をさました。
 ゆうべ買ったシジミたちが
 台所のすみで
 口をあけて生きていた。

 「夜が明けたら
 ドレモコレモ
 ミンナクッテヤル」

 鬼ババの笑いを
 私は笑った。
 それから先は
 うっすら口をあけて
 寝るよりほかに私の夜はなかった。


 石垣りんの「シジミ」の全文。台所のすみで眠るお鍋の水のシジミにとって、人間はみな「鬼ババ」。詩人の生活が「民話」のような原形に結晶した作品。「食べる」という生命の基本の行為を通して、生きものの透きとおった悲しみが見えてきます。
 最後の三行のフレーズ《それから先は/うっすら口をあけて/寝るよりほかに私の夜はなかった》。口をあけて眠るシジミのように、やがていつか私だって死に喰われてしまう存在、ということを暗示しています。
 生きるものがほかの生きものを喰わざるを得ない「食物連鎖」といった大きなテーマは童話「よだかの星」や「銀河鉄道の夜」のサソリのエピソードなど、宮沢賢治の作品にもよく出てきます。

 生きものの誕生と死。「水鏡」のように私たちを、それももっとも原初的なかたちで映し出す、そんな作品をもうひとつ。

 湖から
 蟹が這いあがってくると
 わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
 山をこえて
 市場の
 石ころだらけの道に立つ

 
 会田綱雄の「伝説」の舞台は、湖。山をこえた市場の石ころだらけの道や二連目の《蟹を食うひともあるのだ》に詩人の人生や社会に対する考えなどが透けてみえるものの、「シジミ」とおなじように生きものの悲しみが。
 《縄につるされ/毛の生えた十本の脚で/空を掻きむしりながら/蟹は銭になり/わたくしはひとにぎりの米と塩を買い/山をこえて/湖のほとりにかえる》と、三連目のリアルに目に浮かぶシーン。装飾を剥ぎとった最小のことばは緊張感を失わず、歯車を精巧に、正確にくみあわされていく。
 やがて、わたしたち夫婦は草の枯れた風はつめたい湖のほとりの小屋にかえり、《くらやみのなかでわたくしたちは/わたくしたちのちちははの思い出を》子どもたちに伝える。わたくしたちの父と母も湖の蟹を売り、米と塩を買い、わたくしたちに熱いお粥をたいたのだ。
 わたくしたち夫婦はやがてまた、わたくしたち父と母とおなじように痩せほそったからだを湖に捨てて蟹に食わせる。姥捨伝説や深沢七郎の『楢山節考』などを連想させる。
 最後、《こどもたちが寝いると/わたくしたちは小屋をぬけだし/湖に舟をうかべる/湖の上はうすらあかるく/わたくしたちはふるえながら/やさしく/くるしく/むつびあう》と、たった一篇の短い作品の中に生きものの生と性、死が透明感を漂わせて歌われている。
 エッセイ「一つの体験として」によると、詩人が二十五歳のときに南京特務機関という軍に直属した特殊な行政にはいる。そのときに日本軍による南京の大虐殺を体験したなまなましい思い出話のあと、「戦争のあった年にとれる蟹は戦死者を食べるためか、脂がのっておいしい」、ということを聞かされる。それも日本人がそういうのではなく、占領された側の民衆の口承であるといいます。
 時間を経て水の上澄みが澄んでくるように、石垣りんの詩が日常の経験が昔話に、そして会田綱雄の詩が南京での戦争の体験が、徐々にからだの中で伝説に結晶していった。

ことば、ことば、ことば。第33回 水2 相沢 正一郎

2015-11-22 15:41:31 | 日記
 夜中に目が醒めた。洗面所の蛇口をひねってコップに水を入れる。不穏な夢がまだ残っていてざわついている――どんな夢を見たのか、……忘れてしまった。
 わたしのてのひらで水はコップの形をしている。……わたしのからだだって、何年かしたら細胞がぜんぶ入れ替わってしまう、〈わたし〉という形を残したまま。

 《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず》とは、鴨長明の『方丈記』。《上善は水の若し》とは、老子。岩(争い)を避け、しなやかに低い場所に流れる水は老子思想の「無為自然」の譬え。
 対象に応じて形を変えて流れる水に、孫子の兵法は、《夫れ兵の形は水に象る。水の行くは、高きを避けて下に趨く。兵の形は、実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し》と。

 いま、水はコップの形をしている。ガラスを通して、ゆびさきに冷たさを伝えている――たしか、視覚と聴覚に障害をもつヘレン・ケラーの中で、サリヴァン先生に手に水をそそがれるのと同時に、てのひらにWaterとつづられた途端、ことばとものが結びついたんだったな。

 水道管はうたえよ
 御茶ノ水は流れて
 鵠沼に溜り
 荻窪に落ち
 奥入瀬で輝け
 サッポロ
 バルパライソ


 大岡信の「地名論」は、中央線の「水道橋」から「御茶ノ水」、そして「鵠沼」、「荻窪」と、はじめ一行の駅名、水のイメージとサンズイの漢字、ことばの響きなどから次の行を呼び込み、川のように流れていく。

 トンブクトゥーは
 耳の中で
 雨垂れのように延びつづけよ
 奇体にも懐かしい名前をもった
 すべての土地の精霊よ


 と、フレーズはつづくが、ヘレン・ケラーが、はじめて水にWaterいうことばが重なり、ものに名前があることを知ったように、読者はこの詩のありふれた地名の響きに《土地の精霊》を感じ、新鮮な驚きを感じる。

 名前は土地に
 波動をあたえる
 土地の名前はたぶん
 光でできている
 というフレーズのあと、ベニスという地名に。
 しらみの混ったベッドの下で
 暗い水が囁くだけだが
 おお ヴェネーツィア
 故郷を離れた赤毛の娘が
 叫べば みよ
 広場の石に光が溢れ
 風は鳩を受胎する
 おお
 それみよ


 と、自由な連想で力強く流れていく音をみごとに渡っていく。
 イタリア民謡の〈オ・ソレミオ〉(太陽)を受けながら鮮やかに転調し、

 瀬田の唐橋
 雪駄のからかさ
 東京は
 いつも
 曇り


 逞しい船乗りの逞しい舵捌きと同時に、緻密で繊細な指揮者のゆび先に導かれて湿気の多い日本の「東京」に着地。
 湖水、血、河、雨、氷、霧……初期の詩篇としてまとめられた『水底吹笛』にも象徴されているように大岡信の詩には「水」のイメージのことばがおおい。
 それと同時に、「地名論」にみられるように、大岡の詩は完成された絵画ではなく、まるで詩人がたっぷり水をふくんだ墨の筆をもって描いている様を目撃しているライブ感。まさに 西洋の静止した建築物ではなく、スリリングな絵巻の時間。「連句の会」をはじめ、世界中の詩人たちとともに「連詩」を編んでいるのは、こうした書く行為への関心と無関係とはいえまい。
 また、「地名論」には、日本の地名といっしょに外国の土地の名前も織り込まれている。大岡の詩には、フランスをはじめとする西洋文学の深い知性と日本の古典への素養がある。そこで思い出すのが、三好達治などの詩人だが、先輩詩人たちの日本と外国との分裂、せめぎあいとは無縁の「無為自然」のしなやかさ。まさに水の詩人。

ことば、ことば、ことば。第32回 水1 相沢正一郎 

2015-10-28 09:55:45 | 日記
 だあれもいない
 馬が
 水の匂いを
 かいでいる


 この馬のいる場所は一体どこだろう。山村暮鳥の「馬」(全文)は、いまわたしのいる場所――真夜中の台所にとてもよくあう。水面に鼻づらをそっと近づける馬は、ゴーギャンの絵画に登場しそうな青い透明感を感じる。馬が好きだった暮鳥、伝道師だったというから、なにか信仰と関係があって、ここはもしかしたら馬小屋(キリストが誕生したところ)なのかな、とも思うけれど、しずかな雰囲気は真夜中の台所にとてもよくあう。
 「水」は、いつどこでだれが、という以前。今回は、暮鳥の澄明な水の世界から。

 水のおとが きこえる
 水の音のあたりに胸をひたしてゆくと
 ながされてゆくと
 うつくしい世界がうっとりとあかるんでくる
      
(「秋のこころ」全文)


 水の音に胸をひたす――重吉が当時、結核にかかっていたことを考えると、この澄み切った明るさはなんだろう。信仰とか祈りとかも感じる。また、水の音に「時間」を重ねてしまうのは、つぎに挙げる詩のうっとりと果実をみのらせる時間とひびきあっているから。
 
 秋になると
 果物はなにもかも忘れてしまって
 うっとりと実のってゆくらしい

(「果物」全文)

 
 水はながれる。わたしのてのひらの水だって、時間のようにながれる。

 たっぷりと
 春の河は
 ながれているのか
 いないのか
 ういている
 藁くずのうごくので

(「春の河」全文)


 そんな作品に現れる河の、たっぷりとした水の豊かでゆったりとながれる時間と、キリスト教の伝道者として生きながらも教会主義に対立した山村暮鳥の生涯とは大違い。
 作品を追ってみても、暮鳥三十二歳のとき、第二詩集『聖三稜玻璃』の前衛(《竊盗金魚/強盗喇叭/恐喝胡弓/賭博ねこ/詐欺更紗/瀆職天鵞絨/姦淫林檎/傷害雲雀/殺人ちゆりつぷ/堕胎陰影/騒擾ゆき/放火まるめろ/誘拐かすてえら。》(「囈語」全文))から、第三詩集『風は草木にささやいた』以降のシンプルで平明な作風に一変。
 それでも、暮鳥の第三詩集以下の澄明な詩の世界は、心身の濃い濁りが濾過された水。そんなふうに思ったのは、悲喜こもごもの地上から空(天上)をながれる雲(水が成分)に呼びかけた詩を読んでから。

 おうい雲よ
 ゆうゆうと
 馬鹿にのんきそうじゃないか
 どこまでゆくんだ
 ずっと磐城平の方までゆくんか

(「雲」全文)


「磐城平」(福島県平)には、暮鳥の恋人が……という。作品の底の生臭い澱。

 さて、この文章のはじめの方で真夜中の台所と暮鳥の「水」とはよくあう、といったけれど、いろんな詩を読み返してみて、『聖三稜玻璃』に収録された「風景」も、この場所にとても響いてきた。《いちめんのなのはな》の九文字が、八行(プラス異なった文字の一行)並び三連。一連の終りから二行目にそれぞれ《かすかなるむぎぶえ》、《ひばりのおしやべり》、《やめるはひるのつき》が挟み込まれる。この「風景」には「純銀もざいく」の傍題があるが、黄色い花の明るい装飾というより、どこか「病んだ」先にひろがる月の光に臨死体験のような感じ。だからだろう、たぶん真夜中の台所に似ているのは……。

ことば、ことば、ことば。第31回 日常1 相沢正一郎 

2015-09-17 12:49:19 | 日記
 テレビでは、よくミステリーを観ている。現在、放映を楽しみにしているのが『刑事フォイル』。イギリスの地方都市ヘイスティングズ署の警視正フォイルが殺人事件の犯人を捜しだす、という刑事ドラマ。でも、ちょっと変わっている。そのひとつが、まず①第二次大戦の時代を舞台にしているところ。それから、②主人公のフォイル、釣りとスコッチを愛する物静かで誠実、けっして不正を許さない。
 ②のどこが「変わっている」か。ほかに大好きなミステリーを思い浮かべてみると、ベネディクト・カンバーバッチ出演の『シャーロック』は、『シャーロック・ホームズ』の物語の舞台を21世紀に置き替えた「高機能社会不適合者」のコンサルタント探偵。『名探偵モンク』の私立探偵エイドリアン・モンクは強迫性障害を患っている。日本の刑事物も含めて現実にはいそうもない主人公ばかりの活躍のなかで、フォイルの真面目さは異色。
 またこのドラマ、まだ日本で放映されたばかりなので、はっきり書くことはできないのだが、戦時下(①)という特殊な状況のなかでも当然いろいろな事件がおき、軍隊の利益や政界の高官に抗ってまで正義を追及する(といっても、けっして熱い正義漢という威圧的なものではなく、温厚な姿勢)というのも、変わっている。たとえば、日本の戦時下で、敵国人が殺されたとして、犯人が軍の重要な役割をもつ人物だとしたら、警官が軍人を逮捕できただろうか。
 シャーロック・ホームズのテレビ(と、原作にも確かにある)おもしろいエピソードに、下宿の部屋でホームズが「なにも事件が起きないと退屈で死にそうだ」と言っていきなりピストルを壁にぶっぱなすシーンがある。ホームズの宿敵モリアティー教授もまた、退屈に耐え切れず事件を起こす。じつはこのふたり鏡に映った虚像と実像のようによく似ている。江戸川乱歩の明智小五郎と怪人二十面相がまるでひとりの人格の裏表だったように。 
 ……と、ここまで書いてきて、例の「安保法案」の強行採決に反対するデモンストレーションのことを思い出した。現在のデモは68年の学生を中心とした革命運動とは違う。安部首相がなんと言おうと、この法案が戦争(非日常)への道を開いているのは間違いなく、生活と未来への不安が学生を含む一般市民を突き動かしている。
 さて、詩について。……どちらかというと、詩を書いたり読んだりするとき、息苦しい現実を破壊するエキセントリックな天才ホームズに憧れをもったり、また状況にうまく順応できないモンクに自分を重ねたり、という場合が(私自身を含めて)おおかったような気がする。高橋順子さんの『海へ』は、東日本大震災(という非日常の現実)が詩集におおきく響いている。《おはようございます/こんにちは/いただきます/ごちそうさま/ありがとう/おやすみなさい//これらは日常のことばである/この国に大地震と大津波が来て放射能が降って/日常が揺らいできたから/日常をはっきり声にすることで揺らぎを抑えようとする//抑えられる》(「日常」全文)
 現代詩を振り返ってみると、「日常」を描いた傑作はたくさんある。前衛的な「荒地」のグループのなかで日常に寄り添った黒田三郎氏。過激な「プアプア詩」を書いていた鈴木志郎康氏の詩集『やわらかい闇の夢』、『見えない隣人』、『家族の日溜り』、『日々涙滴』など。昨年亡くなった、詩の読者以外にも広く人気のある吉野弘氏。今年7月に『朝起きてぼくは』を出版した金井雄二さん。金井さんの詩集からいくつか読んでみよう。
 瀟洒な本のページを開くと、まず序詞ともいうべき「椅子」のどこからか聞こえてくる声――《コノ道ヲマッスグニ行ッテクダサイ》に導かれて道順を辿って行くと、《錆びたトタン屋根の/みすぼらしい小屋》。そこにみんなが待っていて、きみ(読者)の椅子がある、と。そして、またページをめくると、見覚えのある、ささやかな風景が……。
 《蓋の欲望は/瓶の上に乗ることだ/ぼくは瓶の中から/ジャムをすくい/パンにぬりおわると/蓋をしめる/平均的な力を/だんだんと加える/蓋は瓶の縁を/幾重にもなめるように/合わさっていく/がっしりとかさなる/それは純粋な幸福感/子どもがきて/蓋を開けようとしても/あかない》(「蓋と瓶の関係」全文)。瓶の蓋をしっかりしめてあかない、といった些末なことは誰でも経験する。それをこんな風にエロスがにじむ高度な作品に、そしてこんな風にユーモラスに表現できるとは、と一読感嘆し、溜息がでる。
 全編、呼吸とリズムに流され読むと、素朴な歌、と思われるけれどたいへんなテクニシャン。また、題名の明るさの奥の、夜の闇、眠り、また死のにおいの陰影が詩の味わいになっている。逆にいうと、闇が光を際立たせるように、なにか死が私たちのささやかな日常を照らしているような気もする。

ことば、ことば、ことば。第30回 からだ2 相沢正一郎 

2015-08-16 23:04:08 | 日記
 レイモンド・カーヴァーの詩集『水と水とが出会うところ』(村上春樹訳)に収録された「鍵がかかってしまって、うちの中にはいれない」は、《ちょっと外に出て、うっかりドアを/閉めてしまう。これはまずいと/はっと思ったときにはもう/手遅れ》というフレーズで始まる。ドアを閉めると、自動的に鍵のかかる仕組みなんだろう。私も以前、ホテルで部屋から閉め出されたことがある。
 家の外には雨が降っている。《わたしは下の方の窓》を何度も開けようと試し、《ソファや植木やテーブルと椅子/ステレオ装置なんかをじっと》見る。それから、雨の中を二階のベランダまで登り、手すりを乗り越えて、そこのドアも試してみるが、ロックされている。そして、《それでもやっぱり/自分の机や原稿や椅子なんかをじっとのぞき込む。/これは机に向かい合っている窓で/机に座っているときにわたしがふと目をあげて/そこから外を眺める窓なのだ》。
 さて、そこで「わたし」は、《こんな風にベランダから誰にも見られずにのぞき込むのは/ちょっとしたものだ/その内側にいるべきわたしは、そこにいない》気持ちは、《とても言い表せそうにない》と思う。それからガラスに顔を寄せて、中にいて、机に向かっている自分自身を想像してみる。すると雨の中で立っている「わたし」は、こんなふうに思う――《自分くらい幸福な人間はいないなと思いながら。たとえ哀しみの波が身体を通り抜けても》と。
 最後は、窓ガラスを割って部屋に戻るわけだが、「わたし」がガラスを隔て「見る」というより、ここでは「見る」というより「視る」とか「観る」といったほうが……いや、今ふと大岡信の《さわることは見ることか おとこよ。》(「さわる」より)とか、《人間よ、眼でさわってごらん。》(「壜とコップのある」より)といった詩句を思い出したが、《眼でさわ》るというほうが正確なのかもしれない。眼差しで「さわる」適切な距離感は、机に向かって作者が書く「幸福」感にも通ずる、と思う。そして、作者が経験した《まるで人生そのもの》、家から閉め出されたことよりも《もっとひどいこと》をも含んだ事物にさわるカーヴァーのすべての作品(詩と小説)とも響きあう。

 ここでもうひとつ「彼に尋ねてくれ」という詩をとりあげてみよう。僕が息子といっしょにモンパルナスの墓地を訪れ、ボードレールなどフランスの作家たちの墓にお参りに行く話だ。息子も墓の門番(白髪の老人)も《自分が腐って消えていくことなんて》まるで頭にない。門番に《もし自分が死んだら、ここの墓地に葬られたいか》という僕の質問に対し、手を上げて行ってしまう……《屋外カフェのテーブルを目指して》。
 作中の「僕」と、息子や門番とのあいだには心の距離がある。そして詩の最後は門番の視点からカフェの室内の描写が。《笑い声や話し声が聞こえる。ナイフやフォークの触れ合うちゃりんという重い音。グラスが/触れ合う音。窓を照らす太陽。歩道を照らす太陽、木の葉の中の太陽。/太陽はまた彼のテーブルをも照らす。彼のグラス。彼の両手》。
 もちろん門番は、店内をこんなふうに眼でさわるように意識することはないだろう。墓地にいる「僕」だからこそ見ることができる。カーヴァーの作品には、どこか明晰で透明なガラスがはさまっているような距離感が感じられる。でも、不思議とどんなに死が濃厚であっても、五感が全開で、同時に生のリアリティもある。そして、カーヴァーの詩と小説を読むことは、まさに読者にとっても《哀しみの波が身体を通りぬける》のを体験することもできる。

 さて、私はこの原稿のためにA5の用紙で下書きを書いている――筆圧の強い、金釘流で。いつも下書きはボールペン、それからパソコンのワープロ機能で清書している。そういえば、もうだいぶ前のこと活版印刷の活字がデジタル製版に変わってしまったとき、はじめ目が本の表面でツルツル滑ってしまって、ことばがひどく薄っぺらなものに思えた。モデルハウスの明るい清潔さ、とでもいうような馴染にくい感じ。けれども、いつのまにか目が慣らされてしまって、もうそんな違和感はなくなった。
 パソコンで文章を書くことだって、いまではもう当たりまえ。もちろん、便利になったけれど、その分なにか私のなかで文章のリズム、におい、肌触り、味覚といったものが希薄になってしまったような気がする。ちょうど、家屋の中心にあった竈が電子レンジに取って代われたことによって失われたものがあるように……。
 私にとってカーヴァーの作品を読むということは、からだのリズムを取りもどすことでもある。