夜中に目が醒めた。洗面所の蛇口をひねってコップに水を入れる。不穏な夢がまだ残っていてざわついている――どんな夢を見たのか、……忘れてしまった。
わたしのてのひらで水はコップの形をしている。……わたしのからだだって、何年かしたら細胞がぜんぶ入れ替わってしまう、〈わたし〉という形を残したまま。
《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず》とは、鴨長明の『方丈記』。《上善は水の若し》とは、老子。岩(争い)を避け、しなやかに低い場所に流れる水は老子思想の「無為自然」の譬え。
対象に応じて形を変えて流れる水に、孫子の兵法は、《夫れ兵の形は水に象る。水の行くは、高きを避けて下に趨く。兵の形は、実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し》と。
いま、水はコップの形をしている。ガラスを通して、ゆびさきに冷たさを伝えている――たしか、視覚と聴覚に障害をもつヘレン・ケラーの中で、サリヴァン先生に手に水をそそがれるのと同時に、てのひらにWaterとつづられた途端、ことばとものが結びついたんだったな。
水道管はうたえよ
御茶ノ水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
大岡信の「地名論」は、中央線の「水道橋」から「御茶ノ水」、そして「鵠沼」、「荻窪」と、はじめ一行の駅名、水のイメージとサンズイの漢字、ことばの響きなどから次の行を呼び込み、川のように流れていく。
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
と、フレーズはつづくが、ヘレン・ケラーが、はじめて水にWaterいうことばが重なり、ものに名前があることを知ったように、読者はこの詩のありふれた地名の響きに《土地の精霊》を感じ、新鮮な驚きを感じる。
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
というフレーズのあと、ベニスという地名に。
しらみの混ったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
と、自由な連想で力強く流れていく音をみごとに渡っていく。
イタリア民謡の〈オ・ソレミオ〉(太陽)を受けながら鮮やかに転調し、
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り
逞しい船乗りの逞しい舵捌きと同時に、緻密で繊細な指揮者のゆび先に導かれて湿気の多い日本の「東京」に着地。
湖水、血、河、雨、氷、霧……初期の詩篇としてまとめられた『水底吹笛』にも象徴されているように大岡信の詩には「水」のイメージのことばがおおい。
それと同時に、「地名論」にみられるように、大岡の詩は完成された絵画ではなく、まるで詩人がたっぷり水をふくんだ墨の筆をもって描いている様を目撃しているライブ感。まさに 西洋の静止した建築物ではなく、スリリングな絵巻の時間。「連句の会」をはじめ、世界中の詩人たちとともに「連詩」を編んでいるのは、こうした書く行為への関心と無関係とはいえまい。
また、「地名論」には、日本の地名といっしょに外国の土地の名前も織り込まれている。大岡の詩には、フランスをはじめとする西洋文学の深い知性と日本の古典への素養がある。そこで思い出すのが、三好達治などの詩人だが、先輩詩人たちの日本と外国との分裂、せめぎあいとは無縁の「無為自然」のしなやかさ。まさに水の詩人。
わたしのてのひらで水はコップの形をしている。……わたしのからだだって、何年かしたら細胞がぜんぶ入れ替わってしまう、〈わたし〉という形を残したまま。
《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず》とは、鴨長明の『方丈記』。《上善は水の若し》とは、老子。岩(争い)を避け、しなやかに低い場所に流れる水は老子思想の「無為自然」の譬え。
対象に応じて形を変えて流れる水に、孫子の兵法は、《夫れ兵の形は水に象る。水の行くは、高きを避けて下に趨く。兵の形は、実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し》と。
いま、水はコップの形をしている。ガラスを通して、ゆびさきに冷たさを伝えている――たしか、視覚と聴覚に障害をもつヘレン・ケラーの中で、サリヴァン先生に手に水をそそがれるのと同時に、てのひらにWaterとつづられた途端、ことばとものが結びついたんだったな。
水道管はうたえよ
御茶ノ水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
大岡信の「地名論」は、中央線の「水道橋」から「御茶ノ水」、そして「鵠沼」、「荻窪」と、はじめ一行の駅名、水のイメージとサンズイの漢字、ことばの響きなどから次の行を呼び込み、川のように流れていく。
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
と、フレーズはつづくが、ヘレン・ケラーが、はじめて水にWaterいうことばが重なり、ものに名前があることを知ったように、読者はこの詩のありふれた地名の響きに《土地の精霊》を感じ、新鮮な驚きを感じる。
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
というフレーズのあと、ベニスという地名に。
しらみの混ったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
と、自由な連想で力強く流れていく音をみごとに渡っていく。
イタリア民謡の〈オ・ソレミオ〉(太陽)を受けながら鮮やかに転調し、
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り
逞しい船乗りの逞しい舵捌きと同時に、緻密で繊細な指揮者のゆび先に導かれて湿気の多い日本の「東京」に着地。
湖水、血、河、雨、氷、霧……初期の詩篇としてまとめられた『水底吹笛』にも象徴されているように大岡信の詩には「水」のイメージのことばがおおい。
それと同時に、「地名論」にみられるように、大岡の詩は完成された絵画ではなく、まるで詩人がたっぷり水をふくんだ墨の筆をもって描いている様を目撃しているライブ感。まさに 西洋の静止した建築物ではなく、スリリングな絵巻の時間。「連句の会」をはじめ、世界中の詩人たちとともに「連詩」を編んでいるのは、こうした書く行為への関心と無関係とはいえまい。
また、「地名論」には、日本の地名といっしょに外国の土地の名前も織り込まれている。大岡の詩には、フランスをはじめとする西洋文学の深い知性と日本の古典への素養がある。そこで思い出すのが、三好達治などの詩人だが、先輩詩人たちの日本と外国との分裂、せめぎあいとは無縁の「無為自然」のしなやかさ。まさに水の詩人。