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詩客 ことばことばことば

詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第39回 水8 相沢 正一郎

2016-05-18 11:41:34 | 日記
 久しぶりに武満徹の「琵琶、尺八とオーケストラのための」という副題のある『ノヴェンバー・ステップス』のCDを聴いた。小沢征爾指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック、琵琶は鶴田錦史、尺八は横山勝也。水の波紋のように水平にひろがるオーケストラと岩のように厳しく直立する邦楽器。たとえば日本の楽器でビートルズを演奏する、といったことではない。決して交わることがないが、対峙しながらも緊張感をもちながら流れていく音楽。
 西と東の楽器の出会い、といったことだけではない。西洋の文化と日本の文化との出会い、前衛と伝統の出会い、時間と空間との出会い、間(沈黙)と音との出会いでもある。それから、死と生……。そんなことを考えたのは、前回の「水7」で、レイモンド・カーヴァーの詩「水と水とが出会うところ」について書いたあと、立花隆の『武満徹・音楽創造への旅』を読んだから。同書は、現代音楽の作曲家武満徹の長時間にわたるインタビューをもとに、作曲家の文章、武満に関係するさまざまな人たちの証言をまじえ、「文學界」に五年十一カ月にわたって連載され、そののち十八年後に出版。武満は、小説家カーヴァー同様、音楽もエッセイも大好きな芸術家だったから、二段組み七八〇ページの大書にもかかわらず短期間で夢中になって読了。
 『ノヴェンバー・ステップス』の作曲で、武満ははじめ作曲をするときに尺八と琵琶をオーケストラに融合させようとしたが、まったく混じり合わない。そのため作曲を一時中断する。おなじ葛藤を雅楽『秋庭歌』で、それまで西洋音楽の世界にひたってきた武満は日本の楽器にショックを受け、《つねにその二つのものが自分のなかでせめぎ合っていって、それはうっかりすると自分のアイデンティティを見失わせるほどに強くせめぎ合っているのです》と語る。
 西と東の鏡に映された音楽は、つねに引き裂かれていたわけだが、同時にこうした苦悩が創造の力になってきたのでは、とも思う。《私は、これまでに日本音楽について多くを識りまたそれを書きもし、私なりにその本質を把えたようにも思ったが、(中略)交渉が深まるにつれて、私には、日本音楽が次第にわからないものになってきた。これは逆に言えば、私は果して西洋というものをわかっていただろうか、またほんとうにそれの影響をうけたのか、という当惑であったかもしれない》。
 そういう状態にあったときに武満は、インドネシア音楽に出会う。そうして西洋と日本という二元論からは本質は何も見えない。もっと大きな、西洋も日本もインドネシアも包んでしまうような宇宙的な視点から音楽をながめ直さないと考えるようになる。それから、六十六歳で亡くなる武満の絶筆になったエッセイ『時間の園丁』に収録された「ひとはいかにして作曲家となるか」で、武満の住んでいた多摩湖(この人造湖には、私もよく散歩する!)の干上がった湖の底に流れている川をみてインスピレーションを受けた経験が語られている。《よく考えてみると、海も同じなんですね。海の中には、温度や速度の異なった潮流が絶えず流れている。それらがすれ違ったり、ぶつかり合ったりしながら、いろんな海の表情をつくりだしている。そんな『海』みたいな音楽を作りたい。そう思うようになりました。西洋音楽の場合、一つのテーマを強調します。そのために、正と反の対立と止揚という弁証法が用いられる。でも、僕は一つの音楽の中にいろいろ流れを作りたい》。また、同じエッセイ集の「海へ!」で、《できれば、鯨のような優雅で頑健な肉体(からだ)をもち、西も東もない海を泳ぎたい》とも。
 『武満徹・音楽創造への旅』は、音楽以外のジャンルでもヒントになるたくさんのことばが語られている。もちろん文学にも当てはめていろいろ考えたし、冒頭に述べたようにわたしたちが生きている、といったことも考えた。そして、レイモンド・カーヴァーの詩集『水と水とが出会うところ』に収められた詩「彼に尋ねてくれ」を思い出した。前回紹介したレイモンド・カーヴァーの自伝によると、実際にカーヴァーはパリのモンパルナス墓地を訪れ、レイモンドの息子と門番が案内役を買って出ている。《僕は作家たちの墓を見たい。/息子は溜息をつく。そんなもの見たくないのだ》。作中、モーパッサン、サルトル、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの前で立ち止まる陰鬱な小説家・詩人の質問と門番の明るいユーモラスな回答は、フランス語の堪能な息子によって互いに伝えられる。《それから僕らは先に進む。/門番はとくにどうでもいいという様子だ。/彼はパイプに火をつける。時計に目をやる。そろそろ/昼御飯の時間なのだ。/そしてワインも一杯》。
 若いときに結核で生死のあいだを彷徨った武満徹も《生はいつも死をはらんでいる》という考えが常にあった。いま、この文章を書きながら聴いているCD『ガーデン・レイン』は、スーザン・モリソンという十一歳のオーストラリアの少女の同名の詩(《時間は生命の木の葉で/わたしはその園丁……/時間が順々に散っていく、ゆっくりと》)というから借用されている。

ことば、ことば、ことば。第38回 水7 相沢 正一郎

2016-04-21 11:14:14 | 日記
 《川が大きな河に流れこむ場所や/河が海と合流する広い河口。(……)でも海をまさに目前にした河の素晴らしさったらないな。/僕はそういう河を、ほかの男たちが馬やら/魅惑的な肉体の女を愛するように愛している。僕はこの/冷たくて速い水の流れにひきつけられるのだ。/それを見ているだけで僕の血は騒ぎ/肌がぞくぞくとする》。
 レイモンド・カーヴァーの「水と水とが出会うところ」(詩集『水と水とが出会うところ』収録)(村上春樹訳・以下同じ)の河(川)の情景は、詩の後半で詩人の人生に重なってくる。《僕は今日で四十五になった。/三十五だったこともあるんだよと言って/誰か信じてくれるだろうか?/三十五のとき、僕の心はからっぽで干からびていたよ!/それがもう一度流れ始めるまでに/五年の歳月がかかった。》。
 キャロル・スクレナカ(星野真理訳)のカーヴァーの伝記(これがおもしろい!)『レイモンド・カーヴァー 作家としての人生』で調べてみるとカーヴァーが三十五歳のとき(一九七三年、伝記では「18 溺れる」の章)アルコール依存症に苦しみ、そのため家庭内にいろいろ問題が。また浮気、客員講師の仕事も辞職、そして七年前以降の二度目の自己破産。――といったことで、あまり執筆活動もできない。
 そんなふうに川と人生を重ね、困難な状況もながい川の流れのひとつの支点、といった考え方は、じつは私たち日本人にも馴染み深い。《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし》は、鴨長明の『方丈記』の書き出し。「方丈」(約三メートル四方)、高さ二メートルのつつましい庵で書いた――といった意味の題名からもわかるように、《世の中にある人とすみか》の「人」と「家」についての随筆。住まい論ともいえる。

 さて、カーヴァーの伝記にもどると、「20 ホームレスな有名作家」の章のなかで、《ホームレスになった彼は、クパティーノとカリフォルニア・ストリートを行き来し、彼を愛し、食事と寝る場所を提供してくれる人々の家を渡り歩いた》《酒に溺れたレイの奇行よりも深刻なのは、急激に悪化する彼の健康状態だった。末期のアルコール依存症においては、肝臓、心臓、脳、その他の組織の回復不能な損傷が進むことが多い。彼は生きているだけでも幸運だった》とある。
 そんな人生の崖っぷちの時期にある新聞記事を目にし、「釣り人たちの物語」に思いをめぐらす。「川」そして「釣り」のテーマは、マーク・トウェーン、ヘミングウェイ、リチャード・ブローティガンなどアメリカ文学に脈々と流れている。カーヴァーも大好きな釣りのことを小説、詩、エッセイに書いている。でも、この小説「足もとに流れる深い川」(二つのヴァージョンがある)の場合、大自然とふれあう健康な物語というのではなくて、もっと病的で暗い。「足もとに流れる深い川」とはすてきな題名だが「レイモンド・カーヴァー全集第2巻」の村上春樹氏の解題によると、原題を直訳すると「家のこんなに近くに、こんなにいっぱい水があるのに」ということになる、という。
 四人の釣り人が川に浮いた全裸の少女の死体を発見する。しかし釣り仲間たちはせっかくの旅行をだいなしにしたくないため、警察に通報するのを一日遅らせる。《彼らは魚を調理し、ポテト料理を作り、コーヒーを飲み、ウィスキーを飲んだ。それから調理器具と食器を川にもっていって、娘の死体の側で洗った》。語り手は、釣り人のひとりスチュアートの妻。《私は台所の朝食テーブルに座り、コーヒーを飲み、その置き手紙(「行ってくるよ」と書かれた夫の伝言)の上にカップの底の丸いしみをつける。新聞に目をやり、テーブルの上でぱらぱらとページをめくってみる。(……)私は新聞をもったまま長いあいだそこに腰掛けて、考えごとをする。それから私は美容院に予約の電話をかける》。
 妻にとっては見知らぬ少女の死が、こころの中でしだいに性と暴力のイメージを帯びて膨らみ、徐々に彼女の日常生活を壊していく。死んだ少女と精神的に不安定な妻、そしていささか倫理観やデリカシーの欠けた夫の鬱屈した心理は、この時期のカーヴァーの深層が反映されている。
 一九七七年、カーヴァーは酒を断ち、詩人のテス・ギャラガーに出会う。そして十一年後、ポート・エンジェルズに海峡を見渡せる家を購入。しかし、このとき癌が脳に転移していた。同年の一九八八年、六月にギャラガーと結婚。七月にふたりでアラスカへ釣り旅行。八月二日、ポート・エンジェルスの新居で死去する。

ことば、ことば、ことば。第37回 水6 相沢 正一郎

2016-03-19 09:58:19 | 日記
 《台所で冷たい水をのどに流し込む/いつのまにか/だれかの分まで飲んでしまっている/そんなふうに感じて/コップを置くことはあるかい》。田中裕子さんの『カナリア屋』に収録されている「水」の最後。ここだけ読むと、日常のなにげない情景を切り取ったフレーズ。でも、はじめは《のど仏の骨だけが/輪になったロープに綱渡りのように乗っかって/そのまま止まってたんだ》。生きて出会うさまざまな些事、ささやかな感慨、記憶や歳月に対する繊細な感受性が、死の側から丁寧に掬いとられている。「白い川」の冒頭もまた、生活の水が、同時に死の水でもあることをあらわしている。《河原や川底の石が白いのでそう見えるのか/水のない白い川が/蛇行して上流につづいている/―賽の河原》。
 《大学病院の広い窓から/白い鳥が/水辺を渡って対岸に着地するのを見たとき/私の中の何かが動いた/私に藁と稲と蜜柑の若木が蘇える/それらの匂い 肌触り 炎の色》(「感受」)。「感受」とはいうものの、意識的に「水」と「光」をキーワードに自然を造形し、ことばを刻み付ける青柳俊哉さんの姿勢とは違い、平田詩織さんの詩集『歌う人』はまるで印象派の絵画のように「水」と「光」が筆のながれと色彩に溶け合っている。
 《凪の野原のまんなかで/空耳の根に身をかがめ/ぬるい泥だまりに手を差し入れる/花々の碑銘はせつなく耳打たれ/両の手で掬いあげたものをゆらしては/水面をわたり/もうすこしで/まぶしい名前をことづてる/光の使者としてここへ来るだろう》(「春黙し」)。ひらがな、漢字の使い方まで神経が行き届き、歌曲が曲と詩句に分けられないようにことばと音楽が一体化している。五感(とくに聴覚)全部で自然と感応しながら歩く速度で、読者もまた目の前に展開する幻想を楽しむ。宮沢賢治を思い浮かべた。颯木あやこさんの音楽が室内楽ならオーケストラ。
 さて、平田さんが歌なら、花潜幸さんの『初めの頃であれば』は、語り口の魅力。それは、昔話を孫に話す、呼吸やリズムに似ている。体温がつたわる距離で、それでいてニュートラルな冷めた客観性も。《ある日ひとつの弾丸があなたの頭部を貫いた。白い渦になり消える記憶の向こうで、あなたは目を覚まし、水が欲しいと歩哨に言った。月の輝く夜には死骸も夢をつなぐのだろう》(「初めの頃であれば」)。作品はⅠからⅢまでの章にわかれているが、Ⅰは作者の記憶の底の父・母が濾過されて抽出されている。Ⅱ・Ⅲのウイットとユーモアのある軽みは稲垣足穂をおもわせる。
 《町を 村を 山々を激しく襲った水は/どこへ還りついたか/天から降りおちた灰 噴き出したガス》(「萼」)。アトランティス、遠野物語、ポンペイ……洪水伝説は世界中の神話にあるが、布川鴇さんの『沈む永遠 始まりにむかって』でも、海は生命の胎内と同時に圧倒的な暴力の象徴でもある。《林の奥に半ば崩壊し/文字の刻まれていない墓がならんでいる》(「名前のない墓」)。おそらく東日本大震災、アメリカ同時多発テロ、アウシュヴィッツをも含む《歴史の無意識》を遡り、忘却と抗うように文字を刻む。
 《けれど汀、使いそこねた庖丁の春で半「馬の骨」がこわい。水落をぴくぴく瀬ぶみしてまで(ほら、ぼくの澱粉質のいきがむらさきのほらで衰えている。/念のため)けさは百葉箱に戻した。」》。森本孝徳さんの『零余子回報』のなかの「水」は、現実のつめたい水や飲む水というより文字の水。もしかしたら『古事記』のように物語の語りを漢字にあてはめて書いた時代に遡る試みかもしれない。意味と音、漢字・ひらがな・カタカナが異化されているのに妙に身体感覚に訴える。

 「第36回 水5」につづいて、今回も私の選択というより、偶然に出会った作品のなかの水を調べてみた。(もうH氏賞の選考は終わり、賞の結果は発表されたが、そのことはこのエッセイとはなんの関係もない)。
 水……それから、詩集のみならず、手にするほかのジャンルの本でも無意識に「水」を探すようになった――のどの渇いた時のように……。
 生活の中でもっともありふれたものが、たとえばアリストテレスの証言――「水だ!」というタレスの発語が哲学の開幕だった。おなじ水が液体から雪や氷などの固体に、水蒸気などの気体に姿を変える。生物が海から陸に上がってきたのと、はじめ胎児が母体の羊水で眠っていたのとは響きあう。また、水の年齢は地球の年齢とおなじ45億歳、ということとも関係があるのか、世界中の神話や宗教で世界のはじまりの状態が水というのはたいへん興味深い。

ことば、ことば、ことば。第36回 水5 相沢 正一郎

2016-02-19 13:48:59 | 日記
 H氏賞の選考委員になったため、このところ時間があればノミネートされた詩集を読んでいる。詩集をひらくと、「水」という文字が浮かびあがってくるのは、この連載(第36回 水)が意識の隅にあるためか。たとえば、手紙やハガキ片手に街をあるくとポストがよく目にはいる、といったようなことなのか。
 さて、十一冊の詩集、文体からテーマからたいへん幅ひろく、この多様性は現代詩を反映しているのかもしれない。でも、共通するのは、すべての詩集に「水」という文字があり、「海」や「川」、「雨」や「雪」などといった「水」に関係する文字までひろって読むと、現代詩の広大な地平の底で「水」が通底しているのかも、なんて考えて探ってみたくなる。
 それでは、「火」や「地」、「風」や「空」は、と調べてみたが、圧倒的に「水」が多い。水がいちばん身近だからだろうか。それじゃあ、土(とか地面)、それに空気ということになるが、このことばは少ない。「風」という文字がまったくない詩集はたくさんある。井上瑞貴さんの『星々の冷却』は例外で、「風」が十五。でも、「雨」が三十七もある。あわてて断っておくが、ここでは、賞のための選評が目的ではない。「水」というテーマで私が詩を選ぶのではなく、たまたま必要にせまられて読むことになった詩集に、「水」ということばや水のイメージがどういう風に描かれているのか――そんな好奇心に動かされて十一の詩集をめくっていくと、詩集賞を選ぶという無謀な苦役を忘れ、読書の歓びがもどってきた。
 《錆びた乳母車で眠る犬のすぐそばを通り/聞こえない子守唄が流れる駅まで/たったそれだけの永遠があれば、と/ぼくは告げたかった/湾に出る/沈黙の中を退いていく汐をみつめる/それから何もみつめない》(「そして沈黙の音に触れたかった」)。パウル・クレーを思い浮かべた。井上瑞貴さんは、感受性を全開にし、透明感のある硬質の抒情をつくっている――必要最小限の好きなことばを使って。
 《七階の/わがマンションも裏手の川のむこう岸には/一本の樹が いて》ではじまる「五月の朝に」は、宇佐美孝二さんの『森が棲む男』に収録されている。先に引用した井上さんの詩が、湾を目指す歩行で、眼差しが水平だとしたら、宇佐美さんの詩は階段を降り、眼差しは垂直。おもしろいのは、《下降するほどに/樹は/水におのれを映すようになる》と、《ぼく》の階段を降りる速度や息づかいが、読者の文字を読むスピードや呼吸に重なり、次第に水鏡に映った老人や五、六羽の鳩が見えてくること。
川が樹を抱き留とめ/老人と鳩を収める/もうすこし降りていき/このたおやかな 時のさかさに/ぼくも参加する》。結末を読んで、詩の展開のあざやかさに感動するものの、けっしてあざとさを感じないのは、宇佐美さんのことばが、からだをもっていて、詩の文章が思索と血肉化し、一体となっているから。
 《初めに/水があった。》。詩集『女坂まで』の冒頭、こんなことばではじまる長谷川忍さんの「渇き」は、《睦み合う時も/交わり合う時も/対峙し合う時も/赦し合う時も/憎しみ合う時も/傍らには/流れがあった。》と、「コントラバス」、「湯気」、「暮色」など人生が川と重ねあわされている(そして、「運河」、「由来」の海、「不忍池」の池。)。
 むかしから江戸には水が豊か。長谷川さんの東京下町散歩にも「水」は欠かせない。「運河」で、《今、海は埋め立てられ/橋のたもとに泊まる釣り船が/海辺だった頃の名残を留めている。》というフレーズがあるが、詩集の地層の下にも、「水」が流れている。「暮色」では、《水が眺めたくなり/橋の欄干から/流れを見下ろした。》と隅田川が舞台になっているが、時間の地層も描かれている。《焼夷弾で燃えつくす町の灼熱は/水を火に変えた/火は川面を素早く走る》と、「火」と「水」のアクションもいい。
 長谷川さんの詩のことばには強い身体性がある――雨の匂い、湿気、体温、風、賑わい・静けさ。そして、目的をもたず、「町」を散策する呼吸。読者も、ゆっくりことばを追い、おもわずページのあいだに指をはさんで詩集から目をあげたりする。そんなゆったりした速度とは、まるで違うスピードが佐峰存さんの『対岸へと』。
 《時計の硝子が空を掻き回す/腰掛けた階段の硬直が/背骨の水面を昇っていく/月が溜め込んで飛び跳ねる波に/呼吸を忘れながらも/柔らかな冷たさ/身体は世界のごく一部に/過ぎなくなり 意識は/水面に照らされた空気に/掬い上げられる》(「水の人」)。
 長谷川さんの江戸の抒情さえ匂う「町」の散策と、アメリカの感覚で「街」を疾走する快感の差峰さん。でも、《身体は世界のごく一部に/過ぎなくなり》とはいうものの、不思議と身体性が豊かなのが二人には共通する。たとえば詩集冒頭の「連鎖」では、《丸く折られた背》、《白い腕》、《心臓》、《腹に宿した中間体が体温を奪う》、《冷えた歯》、《》、《細胞》、《》、《裸足》、《飛びかい編まれた髪》、《唇に指をひたす》、《静かな頭》、《》などのからだのパーツが。
 まるでギーガーの絵のように、巨大で無機質の都市が細胞のように息づいて呼吸している。迫力と繊細さが共存している。
黒曜石の川に/病葉がいちまい落ち/煮えたぎるように運ばれていく》(「黒曜石」)。颯木あやこさんの『七番目の鉱石』も硬質なことばが、繊細な指さきで時計の歯車のように正確に組み合わされていく。それでいて緻密で明晰な構造の文章に血が脈打ち、生命が羽ばたく不思議。そこが錬金術の課題(であると私が考えている)「物質に閉じ込められている魂の救済」とよく似ている。――そんな趣旨で、颯木さんの詩集評は「現代詩手帳」3月号で書いたので、ここでは割愛する。
 残念ながら、「水」というテーマのノミネート作品、あと六詩集も残ってしまった。次回につづけて書いてみたい。

ことば、ことば、ことば。第35回 水4 相沢 正一郎

2016-01-23 04:42:05 | 日記
 「水」の詩、といえば私のなかで安藤元雄氏の「水の中の歳月」は、第33回で紹介しました大岡信氏の「地名論」と同様、つよく印象に残っています。水の二つの正確――舞台が静止した演劇と、映像のように視点が流れる映画と。
 安藤氏は「水中感覚」というエッセイで、《水こそは歴史を超えた時間そのもののイマージュである》と述べています。大岡氏の川の流れるような、あるいは墨をふくんだ筆の動きのような「地名論」と、海のような、または動きがはじまる時の「間」のような「水の中の歳月」と言い換えた方がいいかもしれません。
 もっとも、私のこうした考えは、同エッセイで、《「流れる」も「淀む」も、所詮は時間を基軸として成立する概念にすぎない》と、あっさり打ち消されてしまいますが。正確にいうと「水の中」もまた歳月(時間)は流れています。地球の時間に比較して宇宙での時間のように、ゆっくりと。
 さて、「水の中の歳月」を読んでみましょう。《こうして上も下もない水の中で、辛うじて体の位置を保ちながら、私は待っている。水は私の鼻と口とを覆い、瞳孔に冷たく、そして私の耳は限りなく静かである》ではじまる「水の中の歳月」は*で区切られ、現代詩文庫で、少なくて2行、多くて14行の11の断章からなります。(番号は振られていませんので、以下、たとえば7番目「の断章」と書くべきところを、「 」内は省略して、7番目という風に書きます)。
 前述した《上も下もない》水の中の空間は、日常の尺度の通用しない宇宙を連想させます。6番目の《かつて地上では、濡れているということは特別の一時的な状態であった》とか、8番目の《私は何を思い出しているのか》というフレーズから、たとえば洪水伝説のように大きな事件が終わった後とも思えます。SF小説、たとえば安部公房の『第四間氷期』を思い出してもいいかもしれない。
 さて、1番目の《体の位置を保ち》とか《私の鼻と口とを覆》う水の感触、瞳孔に感じる体温、といった私の身体は作品を読むにつれ、次第に体の内と外が消え、体自体がだんだん失われていきます。体ばかりではありません。2番目の《待っている――何を? 私はそれが何であるかを知らない。というよりも、私は自分の待っているものが何であるかがわかるのを待っているのだ。だから私は、実は何も待っていないのと同じである》と話者は自分の思考をこんどは明晰なのに妙にナンセンスに近い論理で話者自身をも打消し、とうとう「語り」自体も沈黙に沈んでいく。《そしてやがて私が水の中にいることを私自身忘れる日がきたとき、水はその冷たい悪意を完成させるだろう》と。
 安藤氏の訳したサミュエル・ベケットの長編小説『名づけえぬもの』の《ある瞬間には頭蓋の中にいるかと思えば、次の瞬間には胎の中にいる》という話者の声を思い起こせば、この作品もまた頭蓋の中の声とも、母胎の中の胎児とも、そしてベケット的にじつは墓の中の死者とも、思えます。
 連作詩『めぐりの歌』が第七回「萩原朔太郎賞」を受賞。その記念講演が、現代詩文庫に収録されていて、たいへん興味深く読みました。タイトルは「詩人という井戸」、水にふかく関わりがあります。そのエッセイの中で、「詩人というものは空洞である」という小見出しの後で氏はこう語っています。《けれども詩人の実態は、私は井戸の方だと思います。井戸の内部に外から来た言葉がたまる。そのたまったものをどうやって自分の井戸から上へ汲み上げてもらうか》と。
 このエッセイは、谷川俊太郎氏が、「詩は無意識からことばを汲み上げる」といった発言とも、またユングの意識の層を深く掘ると「無意識」、「民族的無意識」、そして「集合的無意識」に、といった思想とも、「自我」から水のもつ「無名性」へ、ということで響きあいます。
 「めぐり」ということで連想しましたが、時間を車輪のように考えてみたらどうでしょう。おおきく回転する外側と、内側の静止した軸。「不易流行」という松尾芭蕉の俳諧の用語がありますが、ちょっと変えて中心の永遠性と賞味期限の短い「流行」。ただこの永遠、不動であるけれどなにか生命力が希薄でリアリティがない。水を例に挙げると、蒸留水では味がない。
 そこらへんの微妙なバランスを氏は「水中感覚」で、「水の中の歳月」の題名を《「時間」でなしに「歳月」としたのは、時間という言葉のもつ無機的な抽象性を避けて、もっとなまなましい感覚的なものを表現したかったからだし、「日々」という言葉を選ばなかったのは、そこになおもわれわれとは寸法の違うもの、根源的で避けがたいものが匂ってほしいと思ったからだ》と述べています。
 水の中でもゆっくり時間が流れている。安藤氏の作品は車輪の中心のすぐ近くに位置しながら、やはりリアルな手触りを感じさせ、車輪全体をも暗示している。詩人の水鏡は現実をも深いところから映し出している、といえます。