広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより23年6月用・新

「読む会」だより(23年6月用)文責IZ

(5月の議論など)

5月の読む会は14日に開かれました。(3月の議論)の部分では特に意見は出ませんでしたが、分業の相違について「生産様式の変革はマニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする」という指摘が13章にある、とチューターから補足がありました。

(説明)の部分では、エンゲルスによる注釈について「家族が発展して種族になったのではなく、種族こそが人類社会の本源的な形態である、とマルクスが考えを転換したのは、他の文献などからの影響かそれとも自身の経済学の考察のなかからなのか」という質問が出ました。チューターは、インドやアメリカインディアンなどの社会構造の研究が進んだからと思われる。ただ、『経済学批判要綱』の「序説」などを見ても、「我々が歴史を遠くさかのぼればのぼるほど、個人は、したがって生産する個人もまた、ますます非自立的な、一つの一層大きい全体に属するものとして現れる」とあり、まず「諸個人」を「歴史の結果としてではなく、むしろ歴史の出発点として」考える18世紀的、ブルジョア的思想への批判が前面に出ている。そのうえで、「はじめには、まだ全く自然的なあり方で家族に、および種族にまで拡大された家族に属するものとして、後には……さまざまな形態に属するものとして<諸個人は>現れる」(岩波文庫版『経済学批判』、付録、P88)と指摘されているのであって、マルクスがアジア的古代社会の形成において家族の意義を強調していたというわけではないと思っている、と答えました。
さらに「現代の文化人類学からみて、そういう考えが主流なのか」という質問が出ました。チューターは、詳しくは知らないがむしろいまだ個人から出発しようとする学者も多いのではないか、しかしそもそもサルから出発している人間は個々には弱い存在であり、集団的な力なしには生存していくことができないのだから、歴史の出発点は個々の家族ではなくてより集団的なものだったことは常識的にみても明らかではないか、と答えました。なお、マルクス自身がこの考えの転換についてどこかで指摘しているかどうか、という点についてはチューターがもう少し調べてみることになりました。(下記の*部分)
またこの点に関連して、「現在、核家族化を通り越して、いわゆる墓じまいなど血族関係が非常に希薄になってきているが、これも商品生産を基礎にした社会的な分業の発展と関係しているのか」という質問が出ました。チューターは、血族関係の希薄化というのは、資本主義的なつまり労働力の搾取に基づく生産と関係はしているだろうが、それが社会的な分業と関係していると言えるのかは分からないと答えましたが、それ以上には議論は深まりませんでした。

最後のところにある、諸個人が全面的な能力を身につけることで社会的分業は廃止しうるというチューターの指摘に対しては、「それが資本主義の次に来たるべき社会の姿ということか」という質問がありました。チューターは、資本の興亡とともに離職・転職が強要されるというように労働者にとってはすでに固定した職業は否定されているが、諸個人が全面的な能力を身につけて社会的分業を廃止するということはいわば次の次の社会の課題ではないか。まずは搾取をなくして労働者がそうした能力を身につけるために徹底的に労働時間を縮減すること(これは商品生産と労働者支配に固有な職業を一掃すれば十分に可能)、これが次の社会の課題ではないか、と答えました。(なお、前回のたよりの最後の頁、下から8行目の「(この可能性については『第12章』で……)」とあるのは第13章の誤りです。)
なお、社会的分業と作業所内分業との相違については、チューターから、この部分はローゼンベルグの「資本論注解」を参考にしたが、生産様式と生産関係の変革という点でまだすっきりしていない点があり、いつか再検討したいと発言がありました。

(*)マルクスは1853年頃から、ニューヨーク・トリビューン紙への寄稿としてインドについて触れ始めており、第4節にあるインドの共同体の叙述はイギリス下院の公式報告を参考に書かれています。
『資本論』に先立ち~1858年にまとめられた『経済学批判要綱』のなかにある「資本主義的生産に先行する諸形態」の部分では、こう書かれています。「こうした土地所有の第一の形態にあっては──さしあたり自然生的共同団体が最初の前提として現れる。すなわち家族、および種族の形に拡大した家族、ないしは家族間の相互の結婚により種族の形に拡大した家族、または諸種族の結合」。1868年3月のエンゲルス宛の手紙には「ドイツのマルクや村落などの制度について勉強した。……アジア的またはインド的な所有形態がヨーロッパのどこでも端緒をなしている、という僕の主張した見解がここでは新たな証拠が与えられている」という記述があります。
さらに1881年、ロシアのミール共同体についてのザスーリチからの質問に答えるための3つの準備文書のうちの最初のものには、「まず第一に、それ以前の原始的な共同体<いわゆる原始共同体>は、もっぱら、その構成員の自然的血縁関係に基づいている。ところが農業共同体<農耕・定着段階の村落共同体>は、この、強くはあるが狭隘な紐帯を断ち切ることによって、順応し、広がり、かつよそ者との接触を受けることがより可能になった」という記述があります。
マルクス自身の関心は、原始共同体から抜け出したばかりの人類が行き着いた最初の階級社会の在り方──それはまさに自然生的な血縁団体と区別されるべきものです──にあったためか、家族について言及されたものは見当たりませんでしたが、最後の記述にあるように、人類の歴史の出発点(生物学的な出発点ではなくて)として与えられているのは、農業共同体といった小共同体であった(やがて古代王国へと成長する)と語っていると思われます。
エンゲルスが語っているように、家族から種族が発展したのではなくて、種族団体の解体こそが個別的な家族形態を発展させた、ということは間違いないでしょう。しかし、アジア・インド的古代社会のなかに血縁社会と区別される階級社会の成立の鍵(共有物の私的専有から私的所有への発展)を見るマルクスと違って、「血縁団体に立脚する古い社会は、新しく発展してくる社会的な諸階級と衝突して破砕される。それに代わって、国家に総括される新しい社会が現われるが、この国家の下部団体は、もはや血縁団体ではなくて地縁団体である。……」(『家族・私有財産と国家の起源』序文、1881年、岩波文庫版、P10)として、アジア・インド的古代社会を原始共同体と同一視し、階級社会の成立の鍵が地縁団体の成立にあるかに説くエンゲルスの観点は、モルガンの『古代社会』への傾倒も含め正しいものとは思われません。


(説明)第12章「分業とマニュファクチュア」の第3回(第5節)

第5節「マニュファクチュアの資本主義的性格」

アダム・スミスをはじめ、経済学者はもっぱらマニュファクチュアを生産性の増大すなわち「商品を安くし資本の蓄積を早くするための手段」(P478)という見地からのみ取り上げました。彼の師ファーガソンのようにそれを批判する人にあっても、その非人間的な面をいわば悪い面として評価するにとどまっています。マルクスが12章の最後に置かれたこの節で「マニュファクチュアの資本主義的性格」を取り上げたのは、マニュファクチュアには良い面(生産性の向上)と悪い面(人間性の抑圧)がある、だから悪い面を取り除けば良いといった、一面的な見方への批判だと思われます。そうではなくて、それら両面ともに資本(産業資本)のいわば本性の発展が招く不可避的な副産物であるとして、大工業の入り口であるこのマニュファクチュアの資本主義的な性格がここでまとめられているのです。

(1.マニュファクチュア的(工場手工業的)分業=工場内分業が発展するためには、生産手段(労働条件)の直接的生産者(労働力)からの独立が、言い換えれば資本家によるその独占が必要であった。それは同時に直接的生産者の生産手段からの分離=賃労働者としての独立であり、また資本と賃労働という社会的関係(資本関係)の成立である。この関係の成立のためには、私的所有の発展と貨幣や商品流通の一定の発展が歴史的に前提される。)

まず、復習がてら「資本」について大まかに確認しておきましょう。マルクスは労働者向けの講演『賃労働と資本』で次のように説明しています(エンゲルスが補足・訂正していますが)。
「新しい生産のための手段として役立つ蓄積された労働が、資本である。こう経済学者は言う。
黒人奴隷とは何か? 黒色人種の人間である。上の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係の下でのみ、それは資本となる。これらの関係から引き離されたら、それは<ただの生産用具であって>資本ではない。そのことは、金がそれ自体としては貨幣ではなく、また、砂糖が砂糖価格でないのと同じである。……
資本は、生活資料、労働用具、原料だけ、<つまり>物質的生産物だけから構成されているのではない。資本は同じように交換価値からも構成されている。資本を構成するいろいろの生産物はみな商品である。だから、資本はいろいろな物質的生産物の一総和であるだけではない。それは、いろいろな商品の、交換価値の、社会的量の、一総和である。……
では、どのようにして、諸商品の、諸交換価値の一総和が資本となるのか?
それ<諸商品・諸交換価値の一総和>が直接の生きた労働力との交換を通じて、独自の社会的力として、すなわち社会の一部の者の力として自らを維持し、増やすことによって<資本になるの>である。<だから>労働能力の他には何も持たない一つの階級が存在していることが資本の必要な前提である。
直接の生きた労働を<自己の価値増殖のために>蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて蓄積された労働を資本とするのである。
資本の本質は、蓄積された労働が生きた労働のために新しい生産の手段として役立つという点にあるのではない。それは、生きた労働が蓄積された労働のためにそれの交換価値を維持し増やす<つまり剰余価値を生産する>手段として役立つという点にあるのである。……」(国民文庫版、P44~48)

ここに資本は「交換価値からも構成されている」とあるのは、資本は、単に種々の物質的な労働条件の合計なのではなくて、それぞれに対象化された人間労働の一つの“集合・結集”でもあるのだということ、つまり、対象化された労働の人間労働としての同等性に基づいて商品の交換・流通が行なわれるという社会的条件の下で、はじめて成り立つものだといった意味と思われます。
生産の客体的条件である生産手段(原料と生産用具)とその主体的条件である労働力とが、ともに商品として、価値として売買され、資本家の下に結集すること、そして生産手段が労働力の購入価格を越える労働支出=労働力の搾取の手段となることによって、労働力を自らの価値を増やす手段とする場合に(そうした社会的関係のなかで)はじめて、生産手段は、人間にとって単なる生産の客観的条件をなす“物”とは異なった、人間を(労働者ばかりではなく資本家にとっても)支配する社会的な力をもつものに、すなわち“資本”になるのだ、と言われているのです。

さて、前節で見たように──社会的な分業とは異なり──作業場・工場内での分業(分業によって特殊化された協業)の特徴は、労働者の生産的機能を、対象となる生産手段との全体的な関連・結合から切り離して、個々の諸部分に分解することにありました。このことは、農奴や同職組合のように生産者と生産手段とが直接に結び付いていたこれまでの生産有機体には不可能なことでした。それだからこそ、このような分業は「資本主義的生産様式のまったく独自な創造物」であり、だからこそそれは機械と大工業を生み出すことで資本主義を確立してゆきます。
そして、それを可能にしたのは私有財産の発展による富の集中(商品流通の一定の発展の下での)であり、一人の資本家の指揮の下での多数の労働者の協業だったのです。(支配階級が剰余労働を剰余生産物や夫役として受け取る場合には、その搾取や収奪には使用価値としての欲望の限界が存在しますが、資本の下での搾取のように、剰余労働を価値としては全て同等で交換可能な剰余価値として受け取る場合には、その致富欲に限界はありません。)


寄り道が長くなりました。第5節の冒頭で、マニュファクチュアの分業は、多数の労働者が一つの指揮の下で働くという協業一般を基礎にしていること、しかしそこでの分業の利益は充用労働者数の増大に左右されるために、充用資本の最小規模の増大が、したがってより多くの社会の生活手段と生産手段の資本への転化が進んでいく、と述べられた後、次のように続けられます。

・「分業にもとづく協業、すなわちマニュファクチュアは、当初は一つの自然発生的な形成物である。その存在がいくらか堅固さと幅広さとを増してくれば、それは資本主義的生産様式の意識的な、計画的な、組織的な形態になってくる。本来のマニュファクチュアの歴史が示しているように、それに特有な分業は、最初は経験的に、いわば当事者たちの背後で、適当な諸形態をとってゆくのであるが、やがて、同職組合的手工業と同じように、ひとたび見いだされた形態を伝統的に固守しようとするようになり、また場合によっては数百年もそれを固守するのである。この形態が変わるとすれば、それは、枝葉末節のことは別として、いつでも労働用具の革命の結果にほかならない。……
マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の専門化、部分労働者の形成、一つの全体機構のなかでの彼らの組分けと組み合わせによって、いくつもの社会的生産過程の質的編成と量的比例性、つまり一定の社会的労働の組織をつくりだし、同時にまた労働の新たな社会的生産力を発展させる。@
社会的生産過程の独自な資本主義的形態としては──それは既存の基礎の上では資本主義的な形態でしか発展しえなかったのであるが──、マニュファクチュア的分業は、ただ、相対的剰余価値を生みだすための、または資本──社会的富とか「諸国民の富」とか呼ばれるもの──の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。それは、労働の社会的生産力を、労働者のためにではなく資本家のために、しかも各個の労働者を不具にすることによって、発展させる。@
それは、資本が労働を支配するための新たな諸条件を生みだす。したがって、それは、一方では歴史的進歩および社会の経済的形成過程における必然的発展契機として現われ、同時に他方では文明化され洗練された搾取の一方法として現われるのである。」(全集版、P477~)

マニュファクチュア的分業すなわち工場内における分業に基づく協業は、従来の社会的な分業の一部としての手工業的生産の限界を乗り越えた、社会的生産のための新たな組織と生産力を発展させます。しかしながら、この新たな社会的生産の組織と生産力も、資本の下での客体的労働条件と主体的労働条件の結合・統一であるかぎり、労働者の剰余労働の支出によって既存の資本価値を増大させるために用いられる他はない、というのです。


(2.労働者が資本の「一つの存在形態」であるとはどういうことか)

はじめに見出しの一部の訂正(削除)をお願いします。
第6章「不変資本と可変資本」で、「一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化した時にとった別々の存在形態でしかないのである」(同、P273)と述べられていました。このことが頭に残っていたために、「労働者が資本の構成部分、資本の一つの存在形態」と筆が滑ってしまいましたが、これはチューターの軽はずみで大きな間違いです。それというのも、この文章のすぐ後には、「労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程<ないし価値形成過程>の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである」とも述べられているのです。
労賃に支出される可変資本はたしかに資本(前貸資本)の一部であり、だからその「構成部分」ではあるのですが、それはあくまでも労働者ないし労働力の維持・再生産のための生活手段をなす既存の商品の価値として、そうであるにすぎません。労働者ないし労働力自体は、既存の価値をなす労働の客体的な条件すなわち資本と異なり、それとは独立した労働過程の要因であり、価値形成過程において新たな価値を創造する(新たな労働を支出する)という能力を持つ唯一の要因なのです。この決定的な差異については、こう触れられています。「もちろん、それは、ただ、資本家によって労働力の買い入れの時に前貸され労働者自身によって生活手段に支出された貨幣を補填するだけである。支出された3シリングとの関係で見れば、3シリングという新価値はただ再生産として現れるだけである。しかし、それは現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではない。ある価値の他の価値による補填は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである」(同、P272)

適切な見出しを付けることが出来ませんでしたが、問題にしたかったのは以下の文章です。
・「単純な協業の場合と同様に、マニュファクチュアにあっても、機能している労働体は資本の一つの存在形態である。多数の個別的部分労働者から構成されている社会的生産機構は、資本家のものである。それだから、諸労働の結合から生ずる生産力は資本の生産力として現われるのである。本来のマニュファクチュアは、以前は独立していた労働者を資本の指揮と規律とに従わせるだけではなく、その上に、労働者たち自身のあいだにも一つの等級的編制をつくりだす。単純な協業はだいたいにおいて個々人の労働様式を変化させないが、マニュファクチュアはそれを根底から変革して、個人的労働力の根源をとらえる。それは労働者をゆがめて一つの奇形物にしてしまう。というのは、もろもろの生産的な本能と素質との一世界をなしている人間を抑圧することによって、労働者の細部的技能を温室的に助成するからである。……元来は、労働者が自分の労働力を資本に売るのは、商品を生産するための物質的手段が自分にはないからであるが、今では彼の個人的労働力そのものが、資本に売られなければ用をなさないのである。その労働力は、それが売られた後にはじめて存在する関連のなかでしか、つまり資本家の作業場のなかでしか、機能しないのである。マニュファクチュア労働者は、その<部分労働者としての>自然的性質からも独立なものをつくることはできなくなっているので、もはやただ資本家の作業場の付属品として生産的活動力を発揮するだけである。エホバの選民の額には彼がエホバのものだということが書いてあったように、分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本のものだということを表わしている焼き印を押すのである。」(同、P472~)

賃金(生活資料)と引き換えに、労働者は新しい価値を創り出すというその「貴重な再生産力」(『賃金と価格』、同P49)を資本に譲り渡します。それが意味することは、労働の客体的要因とともにその主体的要因も資本の所有物として結合・統一されて、資本の一存在形態となるということです。つまり、社会的な(つまり単なる自家需要のためではない)生産機構は、資本家の私的な所有物としてはじめて機能できるのですが、その結果は生産力や生産物が資本家のものとなるというばかりではありません。この点が第5節の中心的なテーマです。
・「未開人があらゆる戦争技術を個人の知能として用いるように、独立の農民や手工業者が小規模ながらも発揮する知識や分別や意志は、今ではもはやただ作業場全体のために必要なだけである。生産場の精神的な諸能力が一方の面ではその規模を拡大するが、それは、多くの面でそれらがなくなるからである。部分労働者が失うものは、彼らに対立して資本のうちに集積される。部分労働者たちにたいして、物質的生産過程の精神的な諸能力を、他人の所有として、また彼らを支配する権力として、対立させるということは、マニュファクチュア的分業の一産物である。@
この分離過程は、個々の労働者たちにたいして資本家が社会的労働体の統一性と意志とを代表している単純な協業に始まる。この過程は、労働者を不具にして部分労働者にしてしまうマニュファクチュアにおいて発展する。この過程は、科学を独立の生産能力として労働から切り離しそれに資本への奉仕を押しつける大工業において完了する。
マニュファクチュアでは、全体労働者の、したがってまた資本の、社会的生産力が豊かになることは、労働者の個人的生産力が貧しくなることを条件としている。
……
ある種の精神的肉体的不具化は、社会全体の分業からさえも不可分である。しかし、マニュファクチュア時代は、このような諸労働部門の社会的分割をさらにいっそう推し進め、他面ではその特有の分業によってはじめて個人をその生命の根源からとらえるのだから、それはまた産業病理学のための材料や刺激をもはじめて供給するのである。」(同、P473~)


(3.マニュファクチュアは手工業的熟練を基礎とするがゆえに、労働における人間の身体的制限を越えて社会的生産様式を根底から変革することはできなかったが、それは機械を生み出すことで新たな生産様式である工場制度を導いた。)

この点についは、下記のように触れられており、第13章「機械と大工業」との関連が示されています。内容は分かりやすいでしょうから説明は省きます。
・「本来のマニュファクチュア時代、すなわち、マニュファクチュアが資本主義的生産の支配的な形態である時代には、マニュファクチュア自身の諸傾向の十分な発達は多方面の障害にぶつかる。すでにみたように、マニュファクチュアは、労働者の等級制的編制をつくり出すと同時に熟練労働者と不熟練労働者との簡単な区分をつくり出すとはいえ、不熟練労働者の数は、熟練労働者の優勢によって、やはりまだ非常に制限されている。マニュファクチュアはいろいろな特殊作業をマニュファクチュアの生きている労働器官の成熟や力や発達のいろいろの違った程度に適合させ、したがってまた女や子供の生産的搾取を促すとはいえ、このような傾向は大体において慣習や男子労働者の抵抗に出会ってくじける。手工業的活動の分解は労働者の養成費を下げ、したがってまたその価値を下げるとはいえ、いくらか難しい細部労働にはやはりかなり長い修業期間が必要であり、また、それが余計な場合にも、労働者たちによって用心深く固執される。たとえば、我々がイギリスで見るところでは、7年間の就業期間を規定する徒弟法はマニュファクチュア時代の終わりまで完全に効力を保ち、大工業によってはじめて廃棄されたのである。手工業的熟練はマニュファクチュアでも相変わらずその基礎であり、マニュファクチュアで機能する全体機構も労働者そのものから独立した客観的な骨組みは持ってはいないのだから、資本は絶えず労働者の不従順と戦っているのである。……
同時に、マニュファクチュアは、社会的生産をその全範囲にわたってとらえることも、その根底から変革することもできなかった。マニュファクチュアは、都市の手工業と農村の家内工業という幅広い土台のうえに経済的な作品としてそびえ立った。マニュファクチュア自身の狭い技術的基礎は、一定の発展度に達したとき、マニュファクチュア自身によってつくりだされた生産上の諸要求と矛盾するようになった。
マニュファクチュアの最も完成された姿の一つは、労働用具そのものを生産するための、またことに、すでに充用されていた複雑な機械的装置を生産するための、作業場だった。……
マニュファクチュア的分業のこの産物はまたそれ自身として生みだした──機械を。機械は、社会的生産の規制原理としての手工業的活動を廃棄する。こうして、一方では、労働者を一つの部分機能に一生縛りつけておく技術上の根拠は除かれてしまう。他方では、同じ原理がそれまではまだ資本の支配に加えていた制限もなくなる。」(同、P482~)


今回説明を省いた生産力と生産様式の関係については、第13章のなかの適当な場所で触れたいと思います。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「月報」カテゴリーもっと見る