広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより21年3月用

「読む会」だより(21年3月用)文責IZ
(前回の議論など)
2月21日に開かれた「読む会」での議論などについては、次回報告します。
今回は、前回の(1.計算貨幣としての貨幣の機能は、単なる計算単位のように見える)、(2.計算貨幣としての貨幣が単なる単位に見えるのは、そこでは貨幣の価値尺度機能が価格の度量基準に転化しているからにすぎない)の続きとして、中途半端になってしまった(3.現実の貨幣が出動するのは、貨幣が観念的な価格を実現する場合、すなわち現物の価値物として商品に並列して出動しなければならない場合である)について触れたいと思います。(引用については、これまで通りです。注記なければレキシコン訳)
(3.現実の貨幣が出動するのは、貨幣が観念的な価格を実現する場合、すなわち現物の価値物として商品に並列して出動しなければならない場合である)
──価格の実現すなわち商品の貨幣との交換(転換)の必然性は、商品のもつ価値性格のなかに、つまり私的生産物の交換によって社会的素材転換を行なう必然性とそこにおける矛盾とその解決のなかにある。問題を見づらくさせているのは、その解決方法としての商品の二重化(貨幣商品の商品一般からの分離・分化)である──


・「価格形態は、貨幣と引き替えに商品を譲渡することの可能性とこの譲渡の必然性とを含んでいる。他方、金は、それがすでに交換過程で貨幣商品としてかけめぐっているがゆえにのみ、観念的な価値尺度として機能する。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには硬貨が待ち伏せしているのである。」(全集版、P135)

この第3章「貨幣または商品流通」第1節「価値の尺度」の末尾にある文章を読んで、「なぜ、商品は貨幣と取り替えられなければならないのか」、あるいは「なぜ、観念的な価値尺度のうちには硬貨<実在の貨幣>が待ち伏せしている、と言われるのか」と疑問を持った方もおられるでしょう。
第2章「交換過程」のなかでは、商品のもつ矛盾についてこう触れられていました。
・「すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから、商品は全面的に持ち手を取り替えなければならない。そして、この持ち手の取り替えが商品の交換なのであり、また、商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。それゆえ、商品は、使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならないのである。
他方では、商品は、自分を価値として実現しうる前に、自分を<他人にとっての>使用価値として実証しなければならない。なぜならば、商品に支出された人間労働は、ただ他人にとって有用な形態で支出されているかぎりでしか、数に入らないからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってまたその生産物が他人の欲望を満足させるかどうかは、ただ商品の交換だけが証明することができるのである。」(全集版、訳も、P115)

要するに、商品はそれ自身をとってみれば単なる有用な使用価値であるにすぎないのに、それは“商品”としては、他の商品と交換されなければなりません。他の商品と交換されるためには、商品は、ある特定の有用な使用価値つまり具体的有用労働の対象化であると同時に、それと対立する何とでも交換可能な無差別で社会的な価値、つまり抽象的人間労働の対象化でもなければならなりません。しかしこの二つの要求は、上記のように相矛盾をするのです。
この矛盾を解決しなければ商品は全面的に交換されることができず、したがって私的な生産を基礎にした生産は、生産物の素材転換を全面的に行う商品生産社会として成立しえません。そしてこの解決が、一般的等価物としての貨幣商品の商品一般からの排除・分離という商品の二重化なのでした。

そして商品が価格をもつということは、商品自身が前記の矛盾を解決し、相互に交換されるためのいわば準備段階なのです。マルクスは『経済学批判』で次のように述べています。
・「流通の最初の過程は、いわば、現実の流通のための理論的な、準備の過程である。使用価値として存在する諸商品は、まずはじめに、それらが互いに観念的に交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定分量として現れる形態<すなわち価格>を自分のために創造する。この過程の最初に必要な行為は、すでに見たように、諸商品が独自な一商品、例えば金を、一般的労働時間の直接的な物質化として、すなわち一般的等価物として、排除することである。」(全集版、P48、Ⅰ.1.1【71】)

さて、なぜ商品の価値は、直接に社会的必要労働時間として現われることができず、価格としてすなわち観念的な金の姿で現われねばならないのでしょうか。それは商品に“内在的な“価値は、価格として、すなわち観念的な金の姿においてはじめて、すべての商品に共通で同等な内容として現われ得るからにほかなりません。商品は──総労働が意識的に組織されることなく私的労働の単なる総和にすぎないこの社会にあっては──たしかに「価値」、すなわち労働時間という社会的に共通な大きさをもつ抽象的人間労働の対象化として存在するのですが、しかしこの“社会的な”規定は、商品の使用価値の姿、その“物”の姿では現われることができず、相異なる商品がもつ共通な内容として諸商品の関連のなかで表現されるほかないからです。だからこそ価値は“内在的”なものなのです。

以前にも紹介した『経済学批判要綱』のなかでマルクスはこう述べています。
・「……価格では<諸商品に内在する>交換価値が<商品の外部に存在する>貨幣と比較される……貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、<つまり>特殊的な交換価値が、<普遍的な価値としての>貨幣にふたたび等置される、すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳される<ことで価格として現われる>のである。諸商品は、貨幣に等置されることによって、概念から見れば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである。<こうして>特殊的な交換価値である商品は、自立化された交換価値である貨幣という規定性のもとに、表現され、包摂され、措定される。……@
しかし貨幣が<交換価値として>商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は、貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。商品がそれの社会的実体から見れば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この<価格という>規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それ<価格>と貨幣<単位としての>との比較によって媒介されているのである。商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。前者<価値>は商品との直接的統一のうちにあったのであり商品の直接的規定性であった。この規定性と商品とが、同じく直接に、分裂し、その結果一方には<使用価値のかたちで>商品が、他方には(貨幣のかたちで)それの価値がある、というようになった。@
だが、いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。それ<価格>はもはや、商品の直接的な規定性ではなくて、それの反省された規定性である。現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである。」(大月版、Ⅰ、P108、Ⅰ.1.14【129】)

商品それ自身は、その使用価値の姿=“物”の姿しか持っていないのですが、しかし諸商品は、ある別の一商品に対して、その特別な商品は価値つまり抽象的人間労働だけを反映している“物”だという“社会的な”規定を、つまりその商品に貨幣であり一般的等価物であるという規定を与えることはできます。そして諸商品は、その一商品を商品世界から排除したうえで、自らを一定の比率でその貨幣と等置されうるものであり、この点では諸商品は相互に使用価値は異なっていても価値としては同等なものであり、したがって一定の比率において他の商品と交換可能であるということを表示できるのです。
しかしながら、貨幣・金のほうはすべての商品と交換可能なのですが、商品のほうは貨幣・金との直接の交換可能性をもつのではなくて、ただその交換可能性を等価表現=価格(観念的な金量)としてもつにすぎません。貨幣・金を媒介にして、商品は実際に商品として、つまりその使用価値である現物の姿の他に、それとは別の価値の姿を、価格(観念的な金量)という形でもつ、二重のものとして現われることができるのですが、しかし実際に別の商品に置き換わるためには、まず一般的等価物である貨幣の姿に置き換わらなければならないのです。これが価格を実現するということの内容です。
こうして商品は、その価格を実現してまず貨幣になり、この貨幣の姿を媒介にして、こんどは別の商品に転化するという過程を経ることで、それが抱えている矛盾──特定の使用価値であるとともに無差別な価値であるということはできない──を解決するとともに、社会的な素材転換を実現できることになるのです。商品がその“観念的な”価格を“実現”して、“実在の”貨幣に転化するということは、ただ、その商品の価値を貨幣の姿に転換(形態転換)する──そののちに再び、別の商品=使用価値に素材転換するために──ということであり、その価値としての等価表現(価値関係)を“実現”するということにすぎません。
したがって、現実の貨幣が出動するのは、貨幣が商品の観念的な価格を実現する場合、すなわち諸商品の素材転換を媒介する転換可能な価値物として、諸商品のなかに商品と相並んで出動しなければならない場合ということになるのです。

価格の実現についての疑問は、おそらく第一に、「価格」を諸商品相互の価値関係(等価表現)という質の問題においてとらえるのではなくて、それが実現(転化)する貨幣・金の量の問題としてとらえる所に、さらに第二には貨幣・金の価値はその金の量(すなわち価格)で表現されているという誤解から発していると思われます。価格としての貨幣・金の量が表現するのは、価値=抽象的人間労働の量ではなくて、ただ単位となる一定量の金に対するその価格が実現する金の量の比率にすぎません(言い換えれば、貨幣・金自身は価格をもたず、その価値は、他のすべて商品との展開された等置関係で表現されるのみなのです)〔Ⅱ.1.6〕。
価格“現象”においては、諸商品の価値における諸関連が断ち切られて、それらがすべて貨幣・金の“物”としての性格であるように見えるので、種々の疑問が起こるのもやむを得ないことです。
こうした価格にまつわる諸事情を、久留間は『レキシコン』貨幣篇Ⅰの1.価値尺度の14.で次のように端的にまとめています。「商品の価値は、価格としての定在においてはじめて、実現されなければならないものとして現われる」。きわめて示唆に富んでいるように思われます。
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