「読む会」だより(25年3月用)文責IZ
(2月の議論など)
2月の「読む会」は16日に開かれました。定例会場の己斐公民館が新築移転のため、4月まで別会場になりますのでよろしくお願いします。
(1月の議論)と【復習3】のところには、特に意見や質問は出ませんでした。
【復習4】「不変資本と可変資本について」の所では、まずチューターから①では、普通なら「社会的な富」という言葉を使うところを、あえて「“抽象的な”富」という言葉を使ってみた。これは以前、“抽象的”という言葉について幾度か質問があったので、そのイメージを理解してほしいからだ、と説明がありました。
①では、P2の最後の「特定の社会的形態を持った使用価値」ということについて質問が出ました。チューターは、資本主義社会では、或る使用価値は直接に生産者が使用するためのものではなく、交換によって他の万人が使用するためのものとして、つまり商品として生産される。言い換えれば、諸使用価値は商品という社会的形態を持っている。これに対して封建社会では、或る使用価値は一部は生産者自らの使用のために、他の一部は領主等への貢納物として生産される。つまり諸使用価値のうち社会的な関係を持っている後者の使用価値は、土地占有者等への貢納物という社会的形態をもつ。このように使用価値自身(たとえばコメ)に変わりはないとしても、その使用価値が一定の社会関係の中で、またその社会関係を再生産するために生産される限り、それは一定の社会的な属性を、つまりその社会関係を反映するものとして規定される、という意味だと説明しました。
①で大事なことは、使用価値を生み出す労働としては歴史的に普遍的である「労働過程」が、“同時に”「価値形成過程」でもある、ということの意味のように思われます。ここでは引用しませんでしたが、第5章にはこう述べられています。「労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である」(5章末尾、全集版、P258)。チューターの理解としては、労働過程と価値形成過程とは、単に商品生産における質的な面と量的な面として区別されているのではありません。労働過程という社会的形態にかかわりのない普遍的な内容に、価値形成過程(さらには価値増殖過程)という特定の社会的な規定が加わることによって(このための手続きが、同質な抽象的人間労働への還元であり、この手続きを経たうえで)、はじめて商品を生産する労働はより豊富な、より現実的な規定を持つ、というように考えています。
②には質問等は出ませんでしたが、③については、引用の末尾の部分は国際的な価格の違いのことが述べられているのか、という質問が出ました。チューターは、そうではなくて、ここではただ利益すなわち投下資本に対する増加分の計算においては、原料価格が引き去られて計算されるということを例に挙げているだけだと説明しました。
また関連して、昨今の物価高の中では賃上げだけを要求してもいたちごっこになるだけだから、むしろ物価安定を要求したらどうか、という意見が出ました。これに対しては、どちらかということではなくて両方とも必要な要求だろうが、一番必要なのは労働者の団結した闘いでなければどちらも勝ち取れないということではないか、という意見が出ました。
なおたより1月用の(2)項で触れた、労働力の価値による労賃の規定という問題ですが、今回の①でも触れますように、労働力の価値が労賃の“最低限”を規定するということと、労賃が歴史的・社会的な規定を持つということは何ら矛盾するものではありません。チューターはどこか勘違いをしていて、1月用では無駄な説明をしていたようです。今回の説明を参考に願います。
【復習5】絶対的剰余価値と相対的剰余価値について
①労働日(1日当たりの労働時間)は、必要労働時間が一定とすれば可変量である剰余労働時間の長さによって変動する。つまり労働日の長さは剰余労働の長さに応じた可変量として現われる。
労働日がしたがってまた剰余労働時間が与えられていれば、労働力の搾取率である剰余価値率=(剰余労働時間)/(必要労働時間)は与えられる。しかしながら、剰余価値率の比率が与えられているとしても、労働日の長さが与えられるわけではない。
労働日は可変量であるとはいえ、無限界ではない。それはそれ以上には短縮しえない最小限度(剰余労働ゼロ)と、それ以上には延長しえない最大限度(労働力の肉体的限界と、精神的したがってまた社会的限界)の間を変動できるだけである。
必要労働時間を越える剰余労働時間の大きさを、したがってまた労働日の長さや剰余価値率を決めるのは、「資本家と労働者のあいだの敵対的な闘争」(『経哲草稿』、岩波文庫版、P17)──彼我内部の競争を含めて──を通じてである。
・「われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためには、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらない限り、一つの与えられた量である。しかし、それだけでは労働日そのものの長さはまだ与えられてはいない。
われわれは、線分a──────bが必要労働時間の持続または長さ、すなわち6時間を表わすものと仮定しよう。労働がabを越えて1時間、3時間、6時間などというように延長されれば、それに従って次のような三つの違った線分が得られる。
労働日Ⅰa──────b─c
労働日Ⅱa──────b───c
労働日Ⅲa──────b──────c
……さらに(剰余労働時間)/(必要労働時間)という比率は剰余価値率を規定するのだから、剰余価値率は前記の比率によって与えられている。それは、<与えられた>三つの違った労働日ではそれぞれに16・2/3%、50%、100%である。その逆に剰余価値率だけでは労働日の長さは与えられないであろう。仮にそれがたとえば100%<1対1>だとしても、労働日は8時間<4対4>、10時間<5対5>、12時間<6対6>、等々でありうるであろう。この剰余価値率は、労働日の二つの成分、必要労働と剰余労働とが同じ長さだということを示すであろう。しかし、これらの部分のそれぞれがどれだけの長さであるかは示さないであろう。
つまり、労働日は不変量ではなく、可変量である。その二つの部分の一方は、労働者自身の不断の再生産のために必要な労働時間によって規定されてはいるが、しかし労働日全体の長さは、剰余労働時間の長さまたは持続時間とともに変動する。それゆえ、労働日は規定されうるものではあるが、それ自体としては不定なのである。
このように労働日は固定量ではなく流動量であるとはいえ、他面、それはただある限界のなかで変動しうるだけである。しかし、その最小量は規定されえないものである。もちろん、延長線bcすなわち剰余労働をゼロとすれば、一つの最小限度、すなわち1日のうちで労働者が自分を維持するために必ず労働しなければならない部分が得られる。しかし、資本主義的生産様式の基礎の上では、必要労働はつねに彼の労働日のただ一部分をなしうるだけであり、したがって労働日はけっしてこの最小限度までは短縮されえないのである。@
これに反して、労働日には最大限度がある。労働日は、ある限界を越えては延長されえない。この最大限度は二重に規定されている。第一には、労働力の肉体的限界によって。人間は、24時間の1自然日のあいだにはただ一定量の生命力を支出することしかできない。馬ならば毎日8時間しか労働することはできない。1日のある部分では、体力は休み、眠らなければならない。また別の一部分では、人間はそのほかの肉体的な諸欲望を満足させなければならない。すなわち、食うとか身を清めるとか衣服を着るとかの欲望である。このような純粋に肉体的な限界の他に、労働日の延長は精神的な限界にもぶつかる。労働者は、精神的および社会的な諸欲望を満足させるための時間を必要とし、これらの欲望の大きさや数は一般的な文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的および社会的な限界のなかで動くのである。しかし、これらの限界はどちらも非常に弾力のあるもので、極めて大きな変動の余地を許すものである。こういう訳でわれわれは8、10、12、14、16、18時間の、つまり非常に様々な長さの労働日を見出すのである。
資本家は労働力をその日価値で買った。1労働日のあいだの労働力の使用価値は彼のものである。つまり、彼は、1日のあいだ自分のために労働者を働かせる権利を得たのである。だが、1労働日とは何か? とにかく、自然の1生活日<24時間>よりは短い。どれだけ短いのか?<それは資本家と労働者のあいだの敵対的な闘争を通じて決まるのである>……
要するに、まったく弾力性のあるいろいろな制限は別として、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長してできれば1労働日を2労働日にでもしようとするとき、彼は買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質には、買い手によるそれの消費に対する制限が含まれているのであって、労働者が、労働日を一定の正常な長さに制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張するのである。だから、ここではひとつの二律背反が生ずるのである。つまりどちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利のあいだでは力がことを決する。こういう訳で、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争──総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級との間の闘争──として現れるのである。」(全集版、第8章1節、P300~)
②資本主義的生産は、単に社会を再生産するための(つまり諸個人と彼らの社会関係の再生産のための)使用価値の生産なのではない。それは本質的に剰余価値の生産であり、剰余価値の吸収つまり資本の増殖を目的としている。使用価値の生産はそのための“手段”である。
剰余価値を増大させるための、直接の“絶対的な”方法は労働日の延長である。このため、資本は労働者に対してその労働日を、精神的な最大限度ばかりか純粋に肉体的な最大限度をも踏み越えて延長しようとする。しかし無制限な労働日の延長は、労働者の肉体的存在と不分離な労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とをもたらす。
それは資本にとって、得られるべき剰余価値に対するより大きな「損耗費」として現われる。このため労働者階級のみならず、総資本にとっても(個々の資本の思惑とは別に)、一定の「標準労働日」が社会的に必然な要求となる。こうして労働日に対する法的制限が行なわれる。
・「『1労働日とは何か?』資本によって日価値を支払われる労働力を資本が消費してよい時間はどれだけか? 労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を越えて、どれだけ延長されうるか? @
これらの問いに対して、すでにみたように、資本は次のように答える。労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役立ちを繰り返すために絶対に欠くことのできない僅かばかりの休息時間を引いたものである。まず第一に自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体を通じて労働力以外の何ものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みなどは、日曜の安息時間でさえも──そしてたとえ安息順守の国においてであろうと──ただふざけたことでしかない!
@ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間を取り上げる。資本は、食事時間を削り、できればそれを生産過程そのものに合併する。したがって、ただの生産手段としての労働者に食事があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に油脂が加えられるようなものである。生命力を集積し更新し活気づけるための健康な睡眠を、資本は、まったく疲れ切った有機体の蘇生のためにどうしても欠くことのできない時間だけのマヒ状態に圧縮する。ここでは労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の1日の可能な限りの最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定する。資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつのは、ただただ、1労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、どん欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。
つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余価値の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する。それは労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである。
しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追及する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力の一層急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産には一層大きい損耗費が入ることになり、それは、ちょうど、機械の損耗が速ければ速いほどその毎日再生産されるべき価値部分が一層大きくなるのと同じことである。それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである。」(同、第5節、P346~)
③労働日の延長によって生産される剰余価値は絶対的剰余価値と呼ばれる。これに対して、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値は相対的剰余価値と呼ばれる。
労働日が一定の場合にも、必要労働部分が減少すれば、それだけ剰余労働部分を増大させることができる。このような必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、労働の生産力を高くし労働力の価値を引き下げることが必要である。こうした資本主義的生産に特徴的な剰余価値の生産方法を遂行するために、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを絶えず変革することを余儀なくされる。
・「労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件の下では、その時の社会の経済的発展段階では、不変量なのである。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。線分ac、すなわち@
a──────────b──c@
は一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にかかわりなしに、剰余価値の生産を増やすことができるだろうか? 言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか?
労働日acの限界は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。仮に、@
a─────────b’─b──c@
のなかのb’─bはbcの半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。いま12労働時間労働日acの中で点bがb’にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb’cになり、剰余労働は半分だけ増えて2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab’に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになる。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割<割合>であろう。
他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働日の日価値が5シリングならば、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補填するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられている。そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られる。12時間から10時間を引けば2時間が残り、そして、どうすれば与えられた条件の下で剰余労働を2時間よりも長く延長することができるかは、まだ分からない。@
もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはもっと少なくしか支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスという価値の再生産には9時間で足りるであろうし、したがって、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎないであろう。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも1/10だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行われないことになる。この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけであろう。このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいえ、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値通りに売買されるという前提によって排除されている。@
このことが前提される限り、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるものではなく、ただこの価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのである。労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要時間の短縮から生ずるほかはなく、逆に必要労働の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。われわれの例でいえば、必要労働時間が1/10だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に1/10だけ下がるよりほかはないのである。
しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができる。彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。そして、それは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできない。したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起きなければならない。@
われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働によりより大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。そこで、これまで考察してきた形態<労働日の延長>での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないのである。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。」(同、第10章、P411~)
・「労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これに対して、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。
労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。しかし、一商品の価値は、その商品に最終形態を与える労働の量によって規定されているだけではなく、この商品の生産手段に含まれている労働量によっても規定されている。たとえば、長靴の価値は、ただ靴屋の労働によってだけではなく、革や蝋<ろう>や糸などの価値によっても規定されている。だから、必要生活手段を生産するための不変資本の素材的諸要素すなわち労働手段や労働材料を供給する諸産業で生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなれば、このこともまた労働力の価値を低くするのである。これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。
安くなった商品が労働力の価値を低くするのは、もちろん、その商品が労働力の再生産に入る割合に応じて低くするだけである。たとえば、シャツは必要生活手段ではあるが、しかし多くの生活手段の一つでしかない。それが安くなることは、ただシャツのための労働者の支出を減らすだけである。ところが、必要生活手段の総計は、みなそれぞれ別々の産業の生産物であるまったく様々な商品から成っており、このような商品の一つ一つの価値は、いつでも労働力の価値の一可除部分をなしている。この価値は、その再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなるのであり、この労働時間全体の短縮は、かのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の総計に等しい。@
われわれはこの一般的な結果を、ここでは、あたかもそれが各個の場合の直接的結果であり直接的目的であるかのように、取り扱う。ある一人の資本家が<競争に打ち勝って市場を拡大するために>労働の生産力を高くすることによって例えばシャツを安くするとしても、決して、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与する限りでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。資本の一般的な必然的な諸傾向<ここでは必要労働時間の減少ないし労働力の価値の低下による、剰余価値率の増大>は、その現象形態<ここでは競争のための生産力の増大ないし商品価格の低落>とは区別されなければならないのである。」(同、P415~)