広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより23年7月用(7/16開催予定)

「読む会」だより(23年7月用)文責IZ

(6月の議論など)

6月の読む会は18日に開かれました。前回はたよりが間に合わず、引用部分のないものを送付することになり申し訳ありませんでした。
(5月の議論)の部分では、徹底的に労働時間を縮減することは、現在でも「商品生産と労働者支配に固有な職業を一掃すれば十分に可能」と触れた点について、「具体的にはどのような職業がなくせるのか」という質問が出ました。チューターは今思いつくだけでも、軍隊や警察、行政の多くの部分、企業のなかの人事や管理、あるいは金融・銀行業などがあげられる。現在チャットGPTが話題になっているが、そうしたもので置き換え得るいわゆる間接部門はほとんどそうだろう、もちろん政治的な変革抜きにはただの可能性にすぎないし、資本の下での技術進歩はいつでも労働者の犠牲の下で行われることを忘れてはいけないが、と答えました。それ以上には議論は進みませんでした。(なお、13章6節では不生産的な人口の例として、「召使とか下女とか従僕というような奴婢階級」の他に次のようなものがあげられています。「労働に不適当な老幼者、全ての不生産的な女や少年や子供、次には官吏や牧師や法律家や軍人などのようなイデオロギー的な諸身分、さらに地代や利子などの形で他人の労働を消費することだけを仕事にしている人々のすべて、最後に受救貧民や浮浪者や犯罪者」。)
また、エンゲルスの補足に関連して「人類の歴史の出発点として与えられているのはアジア・インド的な農業共同体であった、と(マルクスは)語っていると思われる」と触れた点について、「歴史の出発点をそのようにとらえるのはどうか」という意見が出ました。チューターは、原始共産主義の時代をそう呼ぶべきだということと思うが、たとえば『共産党宣言』の冒頭でマルクスは、“すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である”と述べている。最初の階級社会が、自然血縁的な原始的な共同体を抜け出したアジア的な農業共同体だとすれば、やはりそこを人類すなわち社会の歴史の出発点と考えてよいのではないか、と答えました。

(説明)の部分では、労働力が資本価値を増加させる手段となることに関連して、「神戸大の二宮厚美という人は、看護や介護も価値を生産する生産的労働とみるべきだと言っているがどうか」という意見がありました。チューターは、看護は労働力を回復させる限りで“準”生産的な労働と言えるだろうが、介護はすでに労働力の回復を目的としない活動であって、社会を物質的に再生産させるための“生産的な”労働とは言えない。それは生産することなく消費するだけの“不生産的な”労働でしかないだろう。しかしだからといって無意義というわけではない。介護は労働というよりも、社会的な共同活動と考えるべきではないか。介護が価値を生むという発想は、商品交換に基づいて価値をもたない物や活動にも「価格」が付くということと、それらが価値であり価値を生み出すということを混同しているだろう。(第3章では、「それ自体としては商品ではないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣と引き換えに売ることのできるものであり、こうしてその価格を通じて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことができるのである」P136と指摘されています)。むしろ介護が不生産的な活動であることを認めてはじめて、それが共同的に支出されるべき活動として認められることの歴史的意義が明確になるのではないか、と述べました。
関連して、「かつて日本に姥捨て山があったように、マルクスの時代には介護の問題などは問題にできなかったのではないか。この間の労働者の生活改善の成果ではないか」という意見も出ました。チューターは、たしかにそういう面はあるだろう、ただいわゆる社会保障全般の問題については、ここで触れようと思ってはいない、と答えて終わりました。

前回の12章も含め、第10章から次の13章までは、第4篇「相対的剰余価値の生産」という篇別のなかにあります。単なる労働過程としてみればその客観的な条件をなすだけの生産手段も、一定の社会的関係のなかでは、労働力を搾取する力をもつものとなるということに注意願います。
なお前回の、P5の3番目の段落で『賃金と価格』とあるのは『賃労働と資本』の書き間違いです(また、その下の引用部分で「生産“場”の精神的な諸能力」とあるのは生産“上”です)。
議論ではチューターの耳が悪いせいで、聞き落としている点も多々あるかと思います。ご容赦ください。


(説明)第13章「大工業と機械」の第1回(第1節)

第1節「機械の発達」

(1. 発達した労働用具である機械がもつ自然的・物質的な一般属性(生産力の物質的担い手)と、その社会的属性(役割)すなわち機械が資本主義的“環境”の下で充用される場合の、その特殊な属性・役割(利用形態)とが、区別されなければならない)

第1節は次のような指摘から始まります。
・「ジョン・スチュアート・ミルは、その著書『経済学原理』のなかで次のように言っている。
『すべてのこれまでになされた機械の発明が、どの人間かの毎日の労苦を軽くしたかどうかは疑問である*。』
だが、このようなことは決して資本主義的に使用される機械の目的ではないのである。そのほかの労働の生産力の発展がどれでもそうであるように、機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものなのである。それは剰余価値を生産するための手段なのである。」(全集版、P485)

前回挙げた、『賃労働と資本』のなかでの資本についての説明にもあったように、労働手段である機械は、「一定の諸関係の下でのみ」資本となります。剰余価値の生産のための手段としてそれを利用するという社会的関係から切り離すならば、機械はただの労働手段であり、人間自身のもつ労働力と区別される、生産力の物質的担い手であるという一般的な属性を持つのみです。しかしながら、同様に『賃労働と資本』のなかで指摘されているように、機械は生産“物”として存在するばかりではありません。それは投下された既存の「価値」(不変資本部分)の一部分としても存在し、意義をもっています。それはもう一方の投下された既存価値である可変資本部分が労働力に転換されることで、資本家がもつ資本の諸部分として労働者と労働条件とが結合することになり、生産が実行されます。そしてこの場合にはじめて、後者(機械)は前者から既存価値以上の労働を吸収し、既存価値を増大させるための手段になる、という特殊な役割・属性を、すなわち資本属性を獲得するのです。
このような機械がもつ自然的・物質的な一般属性と、それが剰余価値生産の手段となるという機械がもつ特殊に歴史的な属性・役割(利用形態)とが、区別されなければなりません。というのはこの区別を忘れ、機械の資本主義的充用(価値属性として表現される)と、機械そのもの(使用価値属性として表現される)とを同一視することが、まさに資本の永遠性を賛美するブルジョア経済学の「眼目」なのですから。

少し先の第6節では、労働者への補償説に関連して、マルクスはこう批判します。
「生活手段からの労働者の「遊離」<失業>が機械そのものの責任でないということは疑いもない事実である。機械はそれがつかまえる部門の生産物を安くし増加させるのであって、他の産業部門で生産される生活手段量を直接に変化させはしないのである。だから、社会には機械が採用されてからもそれ以前と同量かまたはもっと多量の、排除された労働者のための生活手段があるのであって、年間生産物のうちの非労働者によって浪費される巨大な部分はまったく別としてもそうである。そして、これ<機械採用の後も多量の生活手段が存在すること>が経済学的弁護論<補償説>の眼目なのである!@
<彼らには>機械の資本主義的充用と不可分な矛盾や敵対関係など<ただの外観であって>存在しないのである!なぜならば、そのようなものは機械そのものから生ずるのではなく、その資本主義的充用から生ずるのだからである!つまり、機械は、それ自体として見れば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力にたいする人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富を増やすが、資本主義的に充用されれば生産者を貧民化するなどの理由によって、ブルジョア経済学者は簡単に次のように断言する。@
それ自体の機械の考察が明確に示すように、すべてかの<資本主義的充用による>明白な矛盾は、日常の現実のただの外観であって、それ自体としては、したがってまた理論においては、全然存在しないのだ、と。」(同、P577~)

労働用具としての機械そのものが、その自然的・物質的属性──労働手段として、人間の労働と自然との間での物的生産を媒介する──とともに、そうした自然的・一般的属性に立脚しながらも、それとはまったく区別される社会的属性・役割──他人の労働を搾取し、社会的富としての“価値”を増殖する手段となるという──を、機械が特殊歴史的に持つということ、この両者の区別とその意義を確認することは、第13章ばかりではなく、資本論を読むうえで決定的に重要な事柄だと思われます。参考に『経済学批判・序説』の一節を挙げておきます。
「こういうように、生産という場合には、いつでもある一定の社会的な発展段階での生産──社会的な個人の生産──を指すのである。……生産一般とは一つの抽象であるが、しかしそれは、共通のものを現実に浮き出させ、固定させ、それによって我々の繰り返す労を省く限りでは、一つの合理的な抽象である。けれどもこの一般的なもの、すなわち比較によって選び出された共通なものは、それ自身、多様に組み立てられたものであり、さまざまな規定に分かれるものである。……しかし、もっとも発達した言語がもっとも発達しない言語と、法則と規定とを共通に持つとしても、その発達をなすものこそ、まさにその一般的なものおよび共通なものからの区別なのであって、生産一般に当てはまる規定が区別されなければならないのは、まさに、……同一性に気をとられて、本質的な差別が忘れられないためである。@
この差別を忘れるところに、たとえば現存の社会的諸関係の永遠性と調和とを証明する近頃の経済学者たちのあらゆる知恵があるのである。たとえば、生産用具がたとえ手だけにすぎないとしても、この用具がなければどんな生産もできない。過去の蓄積された労働が、たとえ繰り返しなされた練習により野蛮人の手に蓄積され集中された熟練にすぎないとしても、この種の労働がなければどんな生産もできない。資本は、何よりもまず、生産用具でもあり、過去の客体化された労働でもある。だから資本は、一つの一般的、永久的な自然関係である。だがそれは、もしも私が、「生産用具」や「蓄積された労働」をはじめて資本とする特殊なものをとり去ってしまった場合に、そうだということである。……」(岩波文庫版『経済学批判』付録、P289)

労働用具である機械の発達は、新たな生産のために役立つ蓄積された労働として“可能的には”労働者の労苦を軽くしうるのですが、賃労働と資本という関係のなかでは、それは剰余価値の生産のための手段=資本として利用されるために、むしろ労働者の労苦を増加させるのです。この矛盾は、ブルジョア学者たちの言うような外観ではなくて、まさに真実=資本主義的現実そのものなのです。

また資本主義の下での機械の使用目的が労働者の労働の軽減ではなくて、剰余価値の生産である点について、マルクスは次のように皮肉たっぷりに補足しています。
(*)ミルは、〔他人の労働で養われていないどの人間かの〕<毎日の労苦を軽くしたかどうかは疑問である>と言うべきであっただろう。なぜならば、機械が高貴な怠け者の数を非常に増やしたということは、争う余地がないからである。


(2. 生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力の変革を出発点とし、大工業では労働手段の変革を出発点とする。機械を構成する三つの部分、すなわち原動機、伝動機構、道具機ないし作業機のうち、道具機が18世紀の産業革命の出発点である)

・「生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。だから、まず第一に究明しなければならないのは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか、である。ここで問題にするのは、ただ大きな一般的な特徴だけである。なぜならば社会史の諸時代は抽象的な厳密な境界線によっては区分されないということは、地球史の諸時代の場合と同じことだからである。……
すべて発達した機械は、三つの本質的に違う部分から成っている。原動機、伝動機構、最後に道具機または作業機がそれである。……機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が18世紀にそこから出発するものである。それは、今もなお、手工業経営やマニュファクチュア経営が機械経営に移るたびに、毎日繰り返し出発点となるのである。
そこで道具機または本来の作業機をもっと詳しく考察するならば、……道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行なっていたのと同じ作業を自分の道具で行なう一つの機構なのである。その原動力が人間から出てくるか、それともそれ自身また一つの機械から出てくるかは、少しも事柄の本質を変えるものではない。本来の道具が人間から一つの機構に移されてから、次に単なる道具に代わって機械が現われるのである。その区別は、相変わらず人間自身が第一の動力であっても、すぐに見分けがつくのである。……同じ道具機が同時に動かす道具の数は、一人の労働者の使う手工業道具を狭く限っている有機体的な限界からは、はじめから解放されているのである。……
産業革命の出発点になる機械は、ただ一個の道具を取り扱う労働者の代わりに一つの機構をもってくるのであるが、この機構は一時に多数の同一または同種の道具を用いて作業し、またその形態がどうであろうと単一な原動力によって動かされるものである。ここにわれわれは機械を、といってもまだ機械的生産の単純な要素として、もつのである。」(同、P486)

中世的な手工業的生産様式を変革したのは一人の資本家の下での分業に基づく協業=マニュファクチュアでしたが、それは前回触れたように「社会的生産をその全範囲にわたって捉えることも、その根底から変革することもでき」ませんでした。というのも、「都市の手工業と農村の家内工業という幅広い土台の上に経済的な作品としてそびえたった」マニュファクチュアは、手工業的労働を諸部分に分解しはしましたが、その個々の部分はやはり労働者の熟練に基礎を置いており、そこでの労働は、人間の自然的・肉体的な限界をもった部分労働者が“集合”した“全体労働者”が、手工業的な道具を使うことだったからです。言い換えれば、生産様式の変革はマニュファクチュアでは労働力の変革を出発点としていたのです。
ところが機械を基礎にする大工業は、労働力自身ではなくてその労働対象への働きかけを媒介する労働手段を変革をすることによって、手工業的な労働における人間の自然的・肉体的限界を“技術的に”、つまり機械や自然力の応用(科学)を用いて解放します。このことによって「機械は、社会的生産の規制的原理としての手工業的活動を廃棄する」(前章の最後)ことができたのです。

この変革の出発点となる道具・作業機は、労働者がいわば自分の手足の延長として用いる労働用具=道具とは明確に区別されます。それは労働用具である機械自身が、労働者に代わって幾つかの労働用具を使って「働く」もの、すなわち道具を使う道具なのであって、機械は人間のもつ有機体的な限界からは、はじめから解放されているのです。こうして労働者の自然的・肉体的活動は機械によって置き換え可能なものとなり、労働の生産力は飛躍的に増大しますが、同時に、生産における合目的的精神的活動は労働者自身ではなくて機械を保有する資本家(と支配階級)の専有事項となり、労働者は機械が運動を続けるための付属品の地位にまで貶められることになります。


(3. 機械による機械の生産によって大工業は自分の足で立つようになる。機械体系すなわち機械による分業は、労働過程の社会的共同的な性格を必然にする)

・「まず道具が人間という有機体の道具から一つの機械装置の、すなわち道具機の道具に転化されてから、次には原動機もまた一つの独立な、人力の限界からは完全に解放された形態を与えられた。同時に、これまで考察してきたような個々の道具機は、機械的生産の単なる一要素に成り下がる。いまや一つの原動機が多数の作業機を同時に動かすことができるようになった。同時に動かされる作業機の数が増すにつれて、この原動機も大きくなり、そして伝動機構は巨大な装置に広がるのである。
……
ところが、本来の機械体系がはじめて個々の独立した機械に代わって現われるのは、労働対象が互いに関連のあるいろいろな段階過程を通り、これらの段階過程がさまざまな、といっても互いに補い合う一連の道具機によって行なわれる場合である。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現するのであるが、しかし今度は部分作業機の組み合わせとして再現するのである。……マニュファクチュアでは各種の特殊過程の分立化が分業そのものによって与えられた原理だとすれば、それとは反対に、発達した工場ではいろいろな特殊過程の連続が支配するのである。
機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業に基づくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせによるものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる。……
ただ伝動機の媒介によって一つの中央自動装置からそれぞれの運動を受け取るだけの諸作業機の編成された体系として、機械経営はその最も発展した姿をもつことになる。個々の機械に代わってここでは一つの機械的な怪物が現われ、その体は工場の建物一杯になり、その悪魔的な力は、はじめはその巨大な手足の荘重ともいえるほど落ち着いた動きで隠されているが、やがてその無数の固有の労働器官の熱狂的な旋回舞踏となって爆発するのである。
……かのマニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部面で、手工業的経営やマニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして機械経営は自分にふさわしくない物質的基礎のうえに自然発生的にたち現われるのである。@
機械経営は、ある程度まで発達してくれば、この最初は既成のものとして与えられ次いで古い形のままでさらに仕上げを加えられた基礎そのものをひっくり返して、それ自身の生産様式にふさわしい新たな土台をつくり出さなければならなかった。……
こうして<このような歴史的背景の下で>、大工業はその特徴的な生産手段である機械そのものをわがものとして機械によって機械を生産しなければならなくなった。このようにして、はじめて大工業は、それにふさわしい技術的基礎をつくりだして自分の足で立つようになったのである。……」(同、P494~)

機械と大工業は、ことにそれが機械によって機械をつくるという技術的基礎を確立するとともに、「社会的生産をその全範囲にわたって捉え」ることになります。ここでは引用は省きましたが、ある労働部門で機械が採用されると、それに続いてその部門に材料を提供する部門や、あるいはその部門から半製品を受け取るような部門といった他の部門でも次々と機械が採用されることになります。さらに、重要な産業部門での機械の採用が進行すると、それとともに蒸気機関の採用などによる輸送手段の変革が進み、それはそれで市場を拡大することによって大工業の一層の発展を促すことになります。こうして機械と大工業は、いまだ機械的経営に至っていない部門をも自らの影響下に置くことで、社会的生産をその全範囲にわたって捉え、資本主義的な生産を全世界に押しひろげる物質的基礎をなしていくのです。

最後に、第1節「機械の発達」は次の言葉で締めくくられます。
・「機械としては労働手段は、人力の代わりに自然力を利用し経験的熟練の代わりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然的にするような物質的存在様式を受け取る。@
マニュファクチュアでは社会的労働過程の編成は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見いだすのである。@
単純な協業では、また分業によって特殊化された協業の場合さえも、個別的な労働者が社会化された労働者によって駆逐されるということは、まだ多かれ少なかれ偶然的なこととして現われる。機械は、のちに述べるいくつかの例外を除いては、直接に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、<機械という客観的な労働条件がもたらす>労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。」(同、P503)


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