聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「ろくろで作る土の器」

2024-09-12 11:10:22 | 日記

 先日、益子焼き体験で、ろくろで土の塊から、お皿と花瓶を作成された方から、その作品の写真を見せて頂きました。その方は今回初めてだそうで、マンツーマン指導を受けて作ったのですが、非常に難しかったと。けれども、自分の手で作品を生み出すことの楽しさと、また自分の作品をいとおしく思ったと言われていました。そしてその時、「神様が人間を創造した時も、同じようにその作品である人間に対しての愛情を持たれたのだろう」と、神様の人間への愛を、陶器づくりを通しても知ることができたとおっしゃっていました。そして、その作品は初めてとは思えない、とても素敵な作品でした。

 一般的に、器というのは何かの目的を持って作られるものですが、益子焼きの作家さんたちの作品を見ても、機械でつくる大量生産の器と異なり、一つ一つの作品に特徴があり、思いが込められているのを、素人の私が見ても感じます。ましてや、神様が人間一人一人を創造される時、その人の人生で、その人の為の目的をもって創造し、そしていとおしく、大切に思い、そして人がその神様の愛に気づき、神様への信頼関係を持つことを願っておられることが聖書に示されています。たとえ、壊れてしまっても、神様は修復することが出来る方です。なぜなら創造される主なる神様は、救い主(贖い主)でもあるからです。神様の目にはわたしたち一人一人は値高く、貴いとみて下さる*1、と記されているとおりです。

 「光あれ」と天地の創造のとき、神様は言葉で言われて、その通りになっていくように、神様の御子イエス・キリストが私たちの救い主であるという福音と、生きている間に経験するその救いの御業を悟る光を私たちの心に与えられます*2。パウロは私たちを土の器として例え、この並外れた偉大な神様の力を土の器の中に納めている宝と記しています。この宝がその器を通して光輝き、神様の力がわたしたちを通して現わされます。器である私たちに力があるのではないので、器は立派でなく、壊れやすく、欠けがあるかもしれません。しかし、各器の中にある宝に力があり、この神様の力を通して、私たちがどんな試練にあっても、神様の愛に根差し、愛にしっかりと立つものとして、他者に仕えていく力となるという希望が与えられていることは幸いです。人知を超えた、計り知れない神様の愛を、土の器より気が付かされ、神様へ感謝したいと思います。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節 (引用 新共同訳聖書)

*1 イザヤ書43章3-4節参照

*2 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6節「「闇から光が輝き出よ」」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

 


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