goo blog サービス終了のお知らせ 

璋子の日記

Beside you

映画 『ダメージ』

2006年08月29日 03時12分45秒 | Movie(更新休止)

ジェレミー・アイアンズとジュリエット・ビノシュ共演、
ということで、封切られたとき見ようと思いつつ、
どうも気が重くてそのまま見ないでしまい、DVDで買ってからも
放置していた映画、
『ダメージ』(原題『Fatal/Damege』)を見た。

ルイ・マル監督といえば、
キャンディス・バーゲンと宿命的な出会いをして再婚したが、
(そんな記憶が残っているけれど・・・・)
この映画は、そのルイ・マル監督最期の作品。


 


息子の婚約者と運命的といえるような出会いをし、
世俗的にパーフェクトともいえる生活と人生を送っていた中年男性が、その女性(ジュリエット・ビノシュが演じる、愛に深く傷ついた暗い過去を持つ女性)との愛欲に溺れ、やがて全てを失うというのが、当時の解説だった。
その中年男の役、やっぱりジェレミー・アイアンズじゃないとやれないだろうなあ、という映画だった気がする。
『存在の耐えられない軽さ』以来、どうも、ジュリエット・ビノシュという女優が苦手になったが、この映画でも同様の印象を抱いてしまった。
何故だろう。

 

ちなみに、映画のストーリーはこちら。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD16772/story.html


過去との経緯から、愛に束縛されることや相手に所有されることを異常な程に拒否する女性心理・・・・、女は愛に飢えているわけでもない。
いまなお愛に深く傷ついている。が、そうだろうか・・・・
傷ついた分、実は過去の愛に、愛した男(実の兄)に、その時間と空間に、いまなお対峙しているのなら、愛の只中にある。
そういった繊細さ(の演技)が過剰だったのか、彼女が向き合っている愛が重層構造になっている分、深読みするし過ぎるとその重なりに絡め取られそうになるかもしれない。

それにしても、15歳でおおよそ愛において体験する最悪なことの全てを体験したと本人が語る台詞・・・・、
それを語るジュリエット・ビノシュに違和感を覚えた。これは個人的な感想なのでどうしようもないけれど、そんな女性を束縛しない形で愛する婚約者をルパート・クレイヴスが好演していた。
その彼の父親役のジェレミーが息子の婚約者となった彼女との愛欲におぼれていく様は、その背景を思うとやはり凄まじいものがある。

離婚してきちんとしたいと語る彼。
それとて、政治家という立場を思えば、リスキーなことかもしれない。が、
その彼にビノシュが微笑みながら淡々と語る台詞、
その台詞と顔の表情と存在の軽さ・・・・そこも印象的なシーンだ。
現代の非婚主義の女性たちには高感度に響くかもしれないけれど、
わたくしには不気味なものとして映った。
不毛な情熱を象徴する台詞だからではない。空っぽだからだ。

 

息子も泊まる同じ屋敷で深夜にその婚約者と密会するシーン。
女性の側から言えば、
愛する婚約者が同じ屋敷で泊まっている夜に、その父親と愛し合うといったシーンは、とても難しい場面であるにも関らず、
二人には何の葛藤もなくなるほど、いまや求め合うものが肉体ではないことを物語っているというか、二人の関係性がそのように見えたとき、
見ていてもっとも緊張したシーンだったかもしれない。

それと、空っぽであるということがいっしょならば、
fatal とは、この二人にあっては一方通行なものだということこそが、
ダメージそのものになる。


重層構造の愛の空っぽ。
凄まじいまでの絶望とニヒリズム、そして求愛。
見ようによっては、犬畜生の世界である。


人はどうしようもなく自分を制御できない局面を迎えることがある。
感情的爆発の局面のことではない。
生理的衝動でもない。
そうしたものを超えての求愛の切実さを思うとき、
ビノシュの台詞は、逆に軽すぎる気がした。
結婚は誰といっしょになっても同じだよというリアルの台詞と重なってくる。

確かに結婚では当初の恋愛期間中のような情熱は萎れていくだろうが、萎れない情熱というものもあるのではないのか。いかに好きな相手でも、譲れない孤独というものがあるのと同様に。
この映画のテーマでもあるfatalとは、そこに連なるものなのか、そうではないのか。

そうした情熱を傾け合えるかもしれない二人が、出会って惹かれ合ったときには、必然性も因果関係もまるでない。それゆえに、Fatal と表現するしかないというのが恐ろしく、かつ魅惑的だ。

なのに、
なぜビノシュは廃人同様にならなければならなかったのだろう。
自分(たち)のせいで婚約者が転落死した衝撃?そんな倫理観などハナから超えている関係性ではなかったのか。
死んだ兄に実は瓜二つだったという婚約者のその死に、かつて愛した兄の死を重ね合わせることも、fatal というものなのだろうか。

あるいは、一途に求め合う情熱と魂の純粋さを、
そうした結末を迎えさせることで表現したのだろうか。ルイ・マル監督に思いがよくわからない。
原作を読んでいないので不明だけれど、この手の小説は読んでも不明だろうか。

結婚の準備を進める一方で、結婚相手の父親と逢瀬を重ねベッドで愛欲に絡まる・・・そんな二人の姿を婚約者である彼が目撃する。そうなるだろうなあ、と思って観てはいたけれど、そのときの彼の衝撃は、観ている側にもある種の衝撃を与えた、そんな瞬間だった。
どちらの側の衝撃にシンパシイを感じるか、
誰の衝撃に同じ周波数を感じるかで、
この映画のテーマは、霧の中に隠れてしまうかもしれない。

自分が恋をして夢中の相手との挙式も迫ったとき、その相手が自分の父親と絡み合っている光景は、絶句するしかないだろうが、若さゆえの、恋は盲目という悲劇でもある。
隠していたものを見られた側の衝撃の方が、実は大きいのだ。
ルパート・クレイヴスの表情が、実に凄い。
この世の終わり、といった表情。(それがこの映画の中で彼が初めてアップで映された瞬間だった気がした。)


こうした死は残された者にとってこそ衝撃でも、
本人にとっては、fatal な救いだ。
救い=死といったテーマも隠されているといったら、言い過ぎかしら。
その場面は、この映画の圧巻だった。
ジェレミー・アイアンズは、ベッドから飛び出し裸で階段を駆け下りる。息子の亡骸に取りすがり抱きしめ続ける、そこが、まさに「運命の代価」なのだろう。ビノシュも変えるべき表情をもたないまま、そこを無言で立ち去る。
これもまた、Fatal な相手の女性にも起こった fatal なダメージだとしても、やはり・・・≪重さ≫が≪軽さ≫に転じ、空っぽであることを感じさせる瞬間だったように思う。その空っぽぶり・・・・
それに比して、
この最愛の息子を失った母親役のミランダ・リチャードソンは、圧巻だった。圧巻のまま止まっている。凄い。
性的な匂いを最後まで感じさせなかった妻役の彼女が、息子が死んだ翌日の朝に見せるあの挑戦的な目、実に重く、激しく、かつセクシーだった。
絶望がセクシーさを担保するということの証左となった。

それと、ビノシュの方の母親役のレスリー・キャロン、
これもかなりの存在感!
やはり存在感で勝負できる女優は凄い・・・・
ジュリエット・ビノシュという女優の存在が極めて特異なものに思えたのは、彼女たちのせいかもしれない。女優である前に一人の女性としての人生の内実の確かさみたいなもの、それは、頭の中では作れない。
これだけの女優陣パワーに囲まれ一人で対蹠するジェレミー・アイアンズの真骨頂は、やはりここにあるのだろうと思われたのは、
映画のラストの映像で、全てを失ってなお、時を経ての現在も、彼は「彼女を」愛し続けていることが胸に迫ってくる。その愛は、虚しさの重さだ。
ああ、こんな役、彼じゃないと様にならないだろうなあ・・・


ラストの場面で、二人における情熱と愛欲の行方は、肉体を超えて魂の求め合いまで突き進んでしまっていたのだと、少なくとも男の方はそうだったのだと了解する。
虚しさが計り知れないほど深くなり、存在が空っぽになったとき、人は
fatal という宿命愛に沈殿していくのかもしれない・・・。


「決定的な代価」を求められるような愛は、
常に絶望の断崖に架けられたつり橋を渡るようなものであることは人の世の常であり、それは道理というものなのだろう。
虚無の中で一筋の光明を求める事態となったとき、
人はそもそもかなりヤバイのである。

そのヤバサの中でしか、
わたくしたちは、fatal なものとは出会えないのかもしれない。

 

 

 

 


 

 



 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る