孝霊天皇18年に生誕され、同36年に立太子
76年、父・孝霊天皇の崩御に伴い翌年、即位された
例によって「欠史八代」の天皇には事績は伝わっていません・・しかし
孫の【崇神天皇】の事績の中には、孝元天皇の第一皇子や異母弟が
各地の制圧に派遣されたことが「古事記」「日本書紀」に記されている
しかも異母妹に倭迹迹日百襲姫命〈やまとととびももそひめのみこと〉が
かの有名な伝説上の女王【卑弥呼】の事である
孝元天皇陵は下の写真 のように池の真ん中に拝所があった
池の周りをぐるりと回って、入り口らしき場所に出た 愛車【タント】です
制札にも【劔池嶋上陵】〈つるぎのいけのしまのうえのみささぎ〉とあります
池を渡り 制札の前を通って
石段を登っていきます
しばらく 上ると拝所が現れました
現在の場所に治定されたのが元禄時代と他の陵墓より古い
孝元天皇とは、大田田根子(根子は大王を意味する)。
出雲伝承は、大田多祢彦で彼が物部勢を大和に手引きしたヤタガラスで、
孝霊ら旧来の大和王朝勢力を物部勢の力を借りて大和から排除して大王に即位して三輪大王と呼ばれたらしい。
彼の姉妹がモモソ媛命で三輪山の祭主、媛巫女に就任なさり、
物部が道教に由来する神獣鏡を拝礼する事を民衆に強要した事から反感をかい軋轢を生じて宗教争乱に発展していた事を深く憂慮したモモソ媛命が、
出雲族の宗教感を尊重しつつ物部の要求をも満たす斬新な祭祀方法論(苦肉の策)を網だしまして見事に争乱を治める事に成功して平和が訪れた。
人々はこの平和をモモソ媛の平和と称えた。という。