浜松市北区三ヶ日町平山に中世存在した「凌苔庵」は悟渓宗頓禅師が開いたと伝承されています。しかしこれは全くの早とちりで、「悟渓」という道号であれば「宗頓」という諱が対応するという思い込みによるものです。『禅学大辞典』の法系図などをみると、「悟渓」という道号の僧はたとえば京都東福寺三聖門派だけで三人います。このうち悟渓宗頓と同時代なのは悟渓一鳳(別号悟栖)でしょうか。三ヶ日町は東福寺住持を勤めた仏海禅師一峰明一が同町大谷虎洞山高栖寺を開いたと伝え、一峰明一は三河吉良実相寺五世です。浜松荘は中世吉良氏の所領であり、吉良氏開基実相寺の弟子が住持する寺もあって、そうした関係で東福寺とも関係があり、むしろこの悟渓一鳳が平山悟渓の可能性が高いでしょう。
また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があります。「加藤寅三覚書」(静岡県史別編民俗)によると、「リョウテ」の遺跡の地には戦国時代ころの陶器片が散乱していたとのことですが、現在地には何もなかったという古老の談を聞いています。三ヶ日の著名な郷土史家高橋祐吉によれば、禅僧は水を好み(遺跡は山中の湧水点付近)、そのうえここを凌苔庵と特定する決め手は仏花であり栽培品種であるシュウメイギクの存在であるといいます。しかし隣の愛知県新城市では石灰岩質土壌で自生するものが見つけられています。決定的なものではありません。むしろ現在地の谷を挟んだ西の段丘上のほうが可能性が高いと思います。その段丘下の谷は中世大福寺末寺万福寺があったところですが、この周辺一帯は鎌倉時代から戦国時代の陶器片が散乱しています。日当たりからも陰気な場所より陽気なこの丘陵のほうがふさわしいと思いますが、確定するまでには至っていません。
悟渓宗頓は応永二十三年(1416)尾張国丹羽郡南山名村に生まれました。同国瑞泉寺(犬山市)日峰宗舜に師事し、のち日峰法嗣美濃国愚渓寺義天玄詔・同国汾陽寺雲谷玄祥・伊勢国大樹寺桃隠玄朔に参禅、京都龍安寺雪江宗深により印可を受け「悟渓」と命名されます。大徳寺五十二世・妙心寺十一世住持となり、妙心寺東海庵の開祖となります。応仁元年(1467)の乱を避け瑞泉寺に戻り、同二年美濃斎藤妙椿に招請され、守護土岐成頼菩提寺として瑞龍寺の開山となります。晩年は瑞泉寺・瑞龍寺で過ごし、明応九年(1500)済北院寂。勅賜大興心宗禅師。ちなみに引佐郡井伊谷龍潭寺開山黙宗瑞淵は悟渓禅師の法嗣玉浦宗珉から嗣法した文叔瑞郁の法を嗣いでいます。
平山凌苔庵の文献上の初出は寛正三年(1462)十二月十二日「大福寺不動堂造立勧化帳」です。これが悟渓宗頓であれば四十八歳の時です。雪江による印別付与は二年後の寛正四年です。まだ修行途中で三ヶ日に来る余裕はなかったでしょう。凌苔庵平山「悟渓」自身の初見は文明十六年(1484)六月十二日「悟渓寄進状」に浜名神戸刀禰名を「悟渓老僧為慈母亡魂見蘭禅尼菩提」として大福寺に寄進しています。この年の四月十五日悟渓宗頓は、景川宗隆の後任として妙心寺に十一世として出世しています。これは雪江宗深の定めた二夏三年の入院ですので、当然三ヶ日にはいないことになりまっす。また彼の法語を収録した『虎穴録』に「慈父真叟道詮禅門二十五年忌拈香」を自ら執り行ったときの法語がありますが、母についても塔銘「慈母梅蘂妙清大姉塔婆銘」に関する法語が記載されています。そうしますと、母親の法名が異なります。さらに先の平山悟渓の寄進状には花押がありますが、悟渓宗頓の残っている晩年の書状には印章が使用され、花押は稀有なものでそこに署名された文字は少し似ていますが筆跡は異なります。
以上から平山「悟渓」が「悟渓宗頓」である可能性は非常に低いと言わざるを得ません。
また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があります。「加藤寅三覚書」(静岡県史別編民俗)によると、「リョウテ」の遺跡の地には戦国時代ころの陶器片が散乱していたとのことですが、現在地には何もなかったという古老の談を聞いています。三ヶ日の著名な郷土史家高橋祐吉によれば、禅僧は水を好み(遺跡は山中の湧水点付近)、そのうえここを凌苔庵と特定する決め手は仏花であり栽培品種であるシュウメイギクの存在であるといいます。しかし隣の愛知県新城市では石灰岩質土壌で自生するものが見つけられています。決定的なものではありません。むしろ現在地の谷を挟んだ西の段丘上のほうが可能性が高いと思います。その段丘下の谷は中世大福寺末寺万福寺があったところですが、この周辺一帯は鎌倉時代から戦国時代の陶器片が散乱しています。日当たりからも陰気な場所より陽気なこの丘陵のほうがふさわしいと思いますが、確定するまでには至っていません。
悟渓宗頓は応永二十三年(1416)尾張国丹羽郡南山名村に生まれました。同国瑞泉寺(犬山市)日峰宗舜に師事し、のち日峰法嗣美濃国愚渓寺義天玄詔・同国汾陽寺雲谷玄祥・伊勢国大樹寺桃隠玄朔に参禅、京都龍安寺雪江宗深により印可を受け「悟渓」と命名されます。大徳寺五十二世・妙心寺十一世住持となり、妙心寺東海庵の開祖となります。応仁元年(1467)の乱を避け瑞泉寺に戻り、同二年美濃斎藤妙椿に招請され、守護土岐成頼菩提寺として瑞龍寺の開山となります。晩年は瑞泉寺・瑞龍寺で過ごし、明応九年(1500)済北院寂。勅賜大興心宗禅師。ちなみに引佐郡井伊谷龍潭寺開山黙宗瑞淵は悟渓禅師の法嗣玉浦宗珉から嗣法した文叔瑞郁の法を嗣いでいます。
平山凌苔庵の文献上の初出は寛正三年(1462)十二月十二日「大福寺不動堂造立勧化帳」です。これが悟渓宗頓であれば四十八歳の時です。雪江による印別付与は二年後の寛正四年です。まだ修行途中で三ヶ日に来る余裕はなかったでしょう。凌苔庵平山「悟渓」自身の初見は文明十六年(1484)六月十二日「悟渓寄進状」に浜名神戸刀禰名を「悟渓老僧為慈母亡魂見蘭禅尼菩提」として大福寺に寄進しています。この年の四月十五日悟渓宗頓は、景川宗隆の後任として妙心寺に十一世として出世しています。これは雪江宗深の定めた二夏三年の入院ですので、当然三ヶ日にはいないことになりまっす。また彼の法語を収録した『虎穴録』に「慈父真叟道詮禅門二十五年忌拈香」を自ら執り行ったときの法語がありますが、母についても塔銘「慈母梅蘂妙清大姉塔婆銘」に関する法語が記載されています。そうしますと、母親の法名が異なります。さらに先の平山悟渓の寄進状には花押がありますが、悟渓宗頓の残っている晩年の書状には印章が使用され、花押は稀有なものでそこに署名された文字は少し似ていますが筆跡は異なります。
以上から平山「悟渓」が「悟渓宗頓」である可能性は非常に低いと言わざるを得ません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます