【遠州安国寺金剛山貞永寺】
夢窓疎石が後醍醐天皇や南北朝の戦いの戦没者の菩提を弔うために、一国一寺一塔を建てることを将軍足利尊氏提案し、十四世紀半ばには一部を除きほとんどの国で実現したもので、寺のほうを安国寺と名づけられました。そのひとつ遠州安国寺とされたのが掛川市大坂(旧小笠郡大東町)金剛山貞永寺です。
このお寺の開山について詳しいことはよくわかっていません。
寺伝ほかでは高峰顕日法嗣玉峰殊圭を開山とします。この僧に関する伝はほとんど伝わっていません。玉村竹二著『臨済宗史』は高峰顕日の弟子の多くは法諱の系字として「妙」を用い、玉峰も「妙圭」を諱とするとします。また『禅学大辞典』も玉峰妙圭をとります。『豊鐘善鳴録』に南溟殊鵬が「京都万寿寺玉峰殊圭に参じ大悟」とあり、これが数少ない情報のひとつですが、真実かどうかは不明です。『禅学大辞典』法系図は「無学祖元ー高峰顕日ー玉峰妙圭ー南溟殊鵬ー機叟圭璇ー堅中圭密」とあります。これも正しいか否かははっきりしません。最後の堅中圭密は京都天龍寺三十六世で、応永十年(1403)明に国書を送るための遣明使(正使)となり、翌年帰国の際明使同行し永楽帝が将軍義満を日本国王と認める印を持参したことにより、勘合貿易(日明貿易)が開始されました。
もう一人開山説のある天祥源慶は三州の人、円爾の法嗣双峰宗源に法を継いだ人です。永和初年(1375)四月二十六日「遠之安国蘭若」において、辞世の偈を作って寂します。これは間違いのないことで遠州安国寺住は確かです。『東福寺誌』は「遠州安国開山」と注記します。ただ、『延宝伝統録』によると、「遠之安源寺」を開いているので、これと間違えているのかもしれません。「安国寺は建武五年(1338)から康永四年(1345)以前に設定され、とくに暦応二年(1339)が画期である」といいます。したがって永和初年時まで三十年以上住持を勤めたことになります。しかし、官寺の住持としては長すぎるのでおそらく中興でしょう。
確実にこの寺の住持であった南溟殊鵬も開山とされています。それは先にあげた僧密雲(俗名河野彦契)が寛延三年(1750)完成させた『豊鐘善鳴録』に「遠州貞永寺南溟禅師、諱殊鵬、豊後田原府藤貞広子」で、幼にして宝陀寺悟庵和尚に投じて仏門に入り、のち京都万寿寺玉峰殊圭に参じて大悟し、故郷に帰り実際寺・宝陀寺などを視篆した。そして同国豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開き、晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山に請じた」と書いています。さらには康安元年(1361)没とします。また「大友・田原系図」(『大分県史』中世編Ⅰ)には「遠州横須賀金剛山貞永寺開山、同国見付瑞雲山見性寺開山、豊後国辻間掲諦寺・同国香賀地施恩寺開山」とあります。またこれに続けて「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」を載せます。
「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」における「可翁」は、博多崇福寺や京都万寿寺との関りからは南浦紹明法嗣可翁宗然(康永四年没)がいます。諱に「賀」を用いたともされますが、時期的に合わず、玉峰殊(妙)圭の関係からいうと高峰顕日法嗣で鎌倉建長寺住持を勤めた可翁妙悦(永和三=天授三年/1377)の可能性がありますが、やはり事実はよくわからないのです。しかし、「遠州貞永寺」に住持したことの証明にはなります。
内田旭「南溟禅師と槐安国語」(『郷友』第四号)は檀越某氏は今川貞世(了俊)であり、南溟禅師の康安元年没も正しいとします。しかし南溟禅師の実兄田原氏能が上京して九州南朝方討伐のため強い武将を送るよう要請したのち、応安三年(1370)今川了俊が九州探題に任命され、翌年九州下向して以来の間柄です。したがって、康安元年以前にに南溟禅師を招請するほどの関係ではなかったでしょうし、応安七年(1374)二月四日兄田原氏能が、南溟に寺地を与え、豊後国辻間に掲諦寺が開かれているので、明らかにこの説は誤りです。おそらく河野彦契が康応元年(1389)死没と書くところを間違えたのです。さらに同書は豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開いたあと「晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山」に招請したとするので、開山はともかく遠州入りについて、これが正しければ少なくとも応安七年よりはあとのことになります。了俊の九州探題解任は応永二年(1395)閏七月大内義弘の讒言によるものですので、つまり内田旭のいう檀越某氏が今川了俊であるというのは、南溟禅師の没年の誤りさえなければ正しいでしょう。
南溟禅師は、豊後大友一族の庶流田原氏の出で、実兄は今川了俊を九州に迎えた田原氏能で、当時本家大友氏を凌ぐ勢いを持っていました。正平六年(1351)ころ、南溟叔父田原直平が開いた豊後国国東の宝陀寺悟庵智徹に嗣法した可菴智悦を嗣いでいます。悟庵は貞治六年(1367)示寂しています。南溟は幼にして宝陀悟庵和尚に投じ、芟染受戒とあるので、本来は悟庵がその修行をみるはずであったが、亡くなったので、その法嗣である可庵智悦の弟子になり、その印可を得たと考えられ、それは貞治六年より後になるでしょう。むろんこの間、諸方に諸尊宿を尋ねたと思いますが。宝陀寺は正平年中(1346~1370)に田原氏能の叔父田原直平によって建立され、悟庵智徹を開山に招聘しました。悟庵智徹は東福円爾法嗣で豊後万寿寺開山、東福寺住持を歴任した直翁智侃の法嗣です。
したがって、少なくとも貞治六年以降、さらに言えば天祥源慶死没の永和初年(1375)四月二十六日よりのちに遠州安国寺住持になったわけです。だとすると、南溟禅師も開山ではないことになります。つまり玉峰殊(妙)圭を開山とするのは正しいと思います。しかし、南溟殊鵬をその弟子で法を継いだというのは違うと思います。
当初南溟は智鵬と名乗り宝陀寺住持を勤めています。また同じく師の悟庵智徹が開いた豊後国大分郡篠原村重之山慈航寺にも「宝陀南溟智鵬」とあり、この派の系字「智」を諱に付けています。宝陀寺・慈航寺ともに東福寺派の寺です。禅僧は例外はありますが、一師一証が原則です。また「宝陀寺末寺帳」(『東福寺誌』)に「寺基あるも檀縁なし。これによって住持相続き難し。派中より兼領するものや、又、他派に属し,或は廃壊するものあり」という五十八箇寺の中に「遠州見附 見性寺」が入っています。これが正しければ、東福寺派の僧「南溟智鵬」として遠州入りしているわけです。貞永寺にも同派の天祥源慶が先に住持していたとすれば、わざわざ玉峰の法を継ぐ必要がなく、玉峰の京都万寿寺住持というのも不明なのです。南溟禅師は仏照大光禅師と勅により諡号を贈られます。
こうして、遠州安国寺としての貞永寺には、開山玉峰殊(妙)圭、二世天祥源慶,三世南溟智鵬が住持したと考えられます。
貞永寺は諸山に列します。寛正年間(1460~66)までは公帖が発せられて住持が任命されていますが、その後どうなったのかは、明らかではありません。寺伝では大永四年(1524)四月中興と伝えますが詳しいことはわかりません。「黙宗大和尚行状」(龍潭寺文書)は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中(1532~1555)寺運衰退し法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、貞永寺を退院します。そして嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(1555)寿像に法語を需めています。年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年(1569)正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に駿河臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。つまりこのころには既に妙心寺派の禅寺となっていたのです。そして天正年間(1573~1592)雄踏宇布見安寧寺に入山した清庵宗徹により安寧寺末寺となりました。
不思議なのは磐田市万勝寺・同市大蔵寺という見性寺(現臨済宗妙心寺派)末寺が前者が文永五年(1268)二月、後者が健治三年(1277)九月両寺ともに南溟創建としていることです。見性寺については『磐田郡誌』もほとんど伝を記載していません。ただこうした鎌倉時代に南溟禅師が関わったという寺院はほかにもあります。同じ東福寺派の円爾の弟子無為昭元に嗣法した鉄山継(景)印が中興した伊予観念寺(現西条市)の住持を、鉄山以前に南溟が勤めたと伝えます。現に開山堂に鉄牛とともに南溟の座像があると言います。「豫章記」にも建武三年(1336)ころ、「道前(伊予国東部)ニハ南溟和尚。垂二鐵牛之乳一施二舐犢之慈一。」とありますが、鉄山の中興が元弘二年(1332)であり、南溟禅師が生まれているかどうかもわからない年代ですので、住持を勤めるのは不可能です。ただ伊予には師悟庵智徹開創の寺が存在します。ともかく、如上の「南溟」は智鵬ではないでしょうし、磐田の二寺は伝の誤りでしょう。
曹洞宗雲岩寺(浜松市浜北区)を開いた洞巌玄鑑は、南溟の母無伝公尼発願で兄氏能が永和元年(1375)国東郡横手に建立した泉福寺開山始祖無著妙融の法嗣です。次はこの僧について書きます。
夢窓疎石が後醍醐天皇や南北朝の戦いの戦没者の菩提を弔うために、一国一寺一塔を建てることを将軍足利尊氏提案し、十四世紀半ばには一部を除きほとんどの国で実現したもので、寺のほうを安国寺と名づけられました。そのひとつ遠州安国寺とされたのが掛川市大坂(旧小笠郡大東町)金剛山貞永寺です。
このお寺の開山について詳しいことはよくわかっていません。
寺伝ほかでは高峰顕日法嗣玉峰殊圭を開山とします。この僧に関する伝はほとんど伝わっていません。玉村竹二著『臨済宗史』は高峰顕日の弟子の多くは法諱の系字として「妙」を用い、玉峰も「妙圭」を諱とするとします。また『禅学大辞典』も玉峰妙圭をとります。『豊鐘善鳴録』に南溟殊鵬が「京都万寿寺玉峰殊圭に参じ大悟」とあり、これが数少ない情報のひとつですが、真実かどうかは不明です。『禅学大辞典』法系図は「無学祖元ー高峰顕日ー玉峰妙圭ー南溟殊鵬ー機叟圭璇ー堅中圭密」とあります。これも正しいか否かははっきりしません。最後の堅中圭密は京都天龍寺三十六世で、応永十年(1403)明に国書を送るための遣明使(正使)となり、翌年帰国の際明使同行し永楽帝が将軍義満を日本国王と認める印を持参したことにより、勘合貿易(日明貿易)が開始されました。
もう一人開山説のある天祥源慶は三州の人、円爾の法嗣双峰宗源に法を継いだ人です。永和初年(1375)四月二十六日「遠之安国蘭若」において、辞世の偈を作って寂します。これは間違いのないことで遠州安国寺住は確かです。『東福寺誌』は「遠州安国開山」と注記します。ただ、『延宝伝統録』によると、「遠之安源寺」を開いているので、これと間違えているのかもしれません。「安国寺は建武五年(1338)から康永四年(1345)以前に設定され、とくに暦応二年(1339)が画期である」といいます。したがって永和初年時まで三十年以上住持を勤めたことになります。しかし、官寺の住持としては長すぎるのでおそらく中興でしょう。
確実にこの寺の住持であった南溟殊鵬も開山とされています。それは先にあげた僧密雲(俗名河野彦契)が寛延三年(1750)完成させた『豊鐘善鳴録』に「遠州貞永寺南溟禅師、諱殊鵬、豊後田原府藤貞広子」で、幼にして宝陀寺悟庵和尚に投じて仏門に入り、のち京都万寿寺玉峰殊圭に参じて大悟し、故郷に帰り実際寺・宝陀寺などを視篆した。そして同国豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開き、晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山に請じた」と書いています。さらには康安元年(1361)没とします。また「大友・田原系図」(『大分県史』中世編Ⅰ)には「遠州横須賀金剛山貞永寺開山、同国見付瑞雲山見性寺開山、豊後国辻間掲諦寺・同国香賀地施恩寺開山」とあります。またこれに続けて「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」を載せます。
「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」における「可翁」は、博多崇福寺や京都万寿寺との関りからは南浦紹明法嗣可翁宗然(康永四年没)がいます。諱に「賀」を用いたともされますが、時期的に合わず、玉峰殊(妙)圭の関係からいうと高峰顕日法嗣で鎌倉建長寺住持を勤めた可翁妙悦(永和三=天授三年/1377)の可能性がありますが、やはり事実はよくわからないのです。しかし、「遠州貞永寺」に住持したことの証明にはなります。
内田旭「南溟禅師と槐安国語」(『郷友』第四号)は檀越某氏は今川貞世(了俊)であり、南溟禅師の康安元年没も正しいとします。しかし南溟禅師の実兄田原氏能が上京して九州南朝方討伐のため強い武将を送るよう要請したのち、応安三年(1370)今川了俊が九州探題に任命され、翌年九州下向して以来の間柄です。したがって、康安元年以前にに南溟禅師を招請するほどの関係ではなかったでしょうし、応安七年(1374)二月四日兄田原氏能が、南溟に寺地を与え、豊後国辻間に掲諦寺が開かれているので、明らかにこの説は誤りです。おそらく河野彦契が康応元年(1389)死没と書くところを間違えたのです。さらに同書は豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開いたあと「晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山」に招請したとするので、開山はともかく遠州入りについて、これが正しければ少なくとも応安七年よりはあとのことになります。了俊の九州探題解任は応永二年(1395)閏七月大内義弘の讒言によるものですので、つまり内田旭のいう檀越某氏が今川了俊であるというのは、南溟禅師の没年の誤りさえなければ正しいでしょう。
南溟禅師は、豊後大友一族の庶流田原氏の出で、実兄は今川了俊を九州に迎えた田原氏能で、当時本家大友氏を凌ぐ勢いを持っていました。正平六年(1351)ころ、南溟叔父田原直平が開いた豊後国国東の宝陀寺悟庵智徹に嗣法した可菴智悦を嗣いでいます。悟庵は貞治六年(1367)示寂しています。南溟は幼にして宝陀悟庵和尚に投じ、芟染受戒とあるので、本来は悟庵がその修行をみるはずであったが、亡くなったので、その法嗣である可庵智悦の弟子になり、その印可を得たと考えられ、それは貞治六年より後になるでしょう。むろんこの間、諸方に諸尊宿を尋ねたと思いますが。宝陀寺は正平年中(1346~1370)に田原氏能の叔父田原直平によって建立され、悟庵智徹を開山に招聘しました。悟庵智徹は東福円爾法嗣で豊後万寿寺開山、東福寺住持を歴任した直翁智侃の法嗣です。
したがって、少なくとも貞治六年以降、さらに言えば天祥源慶死没の永和初年(1375)四月二十六日よりのちに遠州安国寺住持になったわけです。だとすると、南溟禅師も開山ではないことになります。つまり玉峰殊(妙)圭を開山とするのは正しいと思います。しかし、南溟殊鵬をその弟子で法を継いだというのは違うと思います。
当初南溟は智鵬と名乗り宝陀寺住持を勤めています。また同じく師の悟庵智徹が開いた豊後国大分郡篠原村重之山慈航寺にも「宝陀南溟智鵬」とあり、この派の系字「智」を諱に付けています。宝陀寺・慈航寺ともに東福寺派の寺です。禅僧は例外はありますが、一師一証が原則です。また「宝陀寺末寺帳」(『東福寺誌』)に「寺基あるも檀縁なし。これによって住持相続き難し。派中より兼領するものや、又、他派に属し,或は廃壊するものあり」という五十八箇寺の中に「遠州見附 見性寺」が入っています。これが正しければ、東福寺派の僧「南溟智鵬」として遠州入りしているわけです。貞永寺にも同派の天祥源慶が先に住持していたとすれば、わざわざ玉峰の法を継ぐ必要がなく、玉峰の京都万寿寺住持というのも不明なのです。南溟禅師は仏照大光禅師と勅により諡号を贈られます。
こうして、遠州安国寺としての貞永寺には、開山玉峰殊(妙)圭、二世天祥源慶,三世南溟智鵬が住持したと考えられます。
貞永寺は諸山に列します。寛正年間(1460~66)までは公帖が発せられて住持が任命されていますが、その後どうなったのかは、明らかではありません。寺伝では大永四年(1524)四月中興と伝えますが詳しいことはわかりません。「黙宗大和尚行状」(龍潭寺文書)は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中(1532~1555)寺運衰退し法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、貞永寺を退院します。そして嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(1555)寿像に法語を需めています。年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年(1569)正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に駿河臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。つまりこのころには既に妙心寺派の禅寺となっていたのです。そして天正年間(1573~1592)雄踏宇布見安寧寺に入山した清庵宗徹により安寧寺末寺となりました。
不思議なのは磐田市万勝寺・同市大蔵寺という見性寺(現臨済宗妙心寺派)末寺が前者が文永五年(1268)二月、後者が健治三年(1277)九月両寺ともに南溟創建としていることです。見性寺については『磐田郡誌』もほとんど伝を記載していません。ただこうした鎌倉時代に南溟禅師が関わったという寺院はほかにもあります。同じ東福寺派の円爾の弟子無為昭元に嗣法した鉄山継(景)印が中興した伊予観念寺(現西条市)の住持を、鉄山以前に南溟が勤めたと伝えます。現に開山堂に鉄牛とともに南溟の座像があると言います。「豫章記」にも建武三年(1336)ころ、「道前(伊予国東部)ニハ南溟和尚。垂二鐵牛之乳一施二舐犢之慈一。」とありますが、鉄山の中興が元弘二年(1332)であり、南溟禅師が生まれているかどうかもわからない年代ですので、住持を勤めるのは不可能です。ただ伊予には師悟庵智徹開創の寺が存在します。ともかく、如上の「南溟」は智鵬ではないでしょうし、磐田の二寺は伝の誤りでしょう。
曹洞宗雲岩寺(浜松市浜北区)を開いた洞巌玄鑑は、南溟の母無伝公尼発願で兄氏能が永和元年(1375)国東郡横手に建立した泉福寺開山始祖無著妙融の法嗣です。次はこの僧について書きます。
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