イナサについて考えてみます。
地名としての「イナサ」は全国的に分布していて、ここでは詳細は省きますが、地名学者によりさまざまな解釈がなされています。今代表的な数か所を選んで考察していきます。
【肥前国稲佐神社】
『日本三代実録』記載の貞観三年(861)従五位下、仁和元年(885)に従五位上に昇った肥前国杵島郡「稲佐神社」があります。『大日本地名辞書』は稲佐神社を西彼杵郡悟真寺の項に載せ、「是は長崎の稲佐村の神にやあらん」としていますが、長崎の稲佐は豪族の名にちなむといいます。その長崎市稲佐山には淵神社が祀られています。これとは別に同書が引く「筑前志摩郡今津寿福寺弘安三年旧記」に、権現は七歳の時五島に浄土会の観音として現れ、それより平戸の郡安満嶽の主持の権現、肥前後藤山御正体黒上法身権現となり、それよりイナサ大明神と現れ、竜王崎のかふめの島に留まります。今これを彦島といい、竜王崎より舟に乗せ、寺井の津より上がるという記事に続きます。これが杵島郡稲佐山神社のことです。竜王崎はこの神社の続きにあります。平凡社版「長崎県の地名」に、西国寺社奉行伊豆藤内「稲佐神社再興表文」には、欽明天皇代に新羅に従属していた百済聖明王が謀反を起こしたとして殺されたとき、世子余昌並びに弟恵等数十人が妻子と一族を率いて来朝し(肥前国誌)、余昌が父の遺骨を稲佐山(杵島山)山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったとあります。確かに「日本書紀」欽明天皇十五年(554)に新羅との戦いで聖明王が死没しています。また境内整地の際古墳時代後期あるいは奈良時代と目される箱式石棺が出土したといいますが、詳細は不明です。徐福伝説もこの社に伝わっています。さらに、この山の東南端には竜王崎古墳群(五世紀末~六世紀後半)が存在し、大陸的要素の強い遺物が出土しているとのことです。祭神は天・聖王神・女神・阿佐神とありますが、「神社明細帳」には、社伝では初め五十猛命を祀っていたが、飛鳥時代に百済より阿佐王子が来朝し、稲佐大神とともに両親を合祀、王子死後王子も合祀したと伝えます。とすると、先の書の天神を除く三神のことで、ともかく朝鮮半島と「イナサ」との関りを示唆すると同時に、稲佐大神は五十猛であり、この神は百済聖明王などより古くから祀られていると述べていることになります。
ところで、五十猛命は「紀」の「神代上」第八段・一書(第四)で、天を追われた素戔嗚尊が、その子五十猛命を率いて、新羅国曾尸茂梨に天下ることになるのです。しかし、のち出雲に行って大蛇を退治します。五十猛命は樹種を持って天下りし、日本国中に植え、紀伊国伊太祁曾神社に祀られます。「記」の大屋毘古神と同体とします。この前半の記事から、五十猛命は新羅とまた父を通じてですが、蛇とつながりがある。また、第七段・一書(第三)には、八俣ノ大蛇の背には「松柏」が生えていたのであり、第八段・一書(第三)には大蛇の頭ごとに「石松」があり、同段一書(第五)では杉・檜・柀・櫲樟などは素戔嗚尊の鬚髯・胸毛・尻毛・眉から成ったのであり、八十木種も播いて生やしたのであり、五十猛命はこれらを全国に分布させたのです。ただし、ここでは杉・櫲樟は船、檜は宮を、柀は棺を作るのに使うとします。妹大屋津姫命の大屋は木によって大きな家を作るによる、さらにその妹枛津姫命は結婚にあたって一緒に住むために、本家の端(ツマ)に立てるツマ屋の意味で、いずれも木匠が祀る祖神である樹木の神素戔嗚尊と、それを斎祀る男神と結婚する姫神との間に出来た子、つまり木工作品の長く無事であることを祈願するための三神です。すなわち大屋毘古神と同体とされる五十猛命は木匠なのです。八俣ノ大蛇に生えているのは、自然物であり、素戔嗚尊は人の生活に役に立つ樹々を生み出したのであり、それをもって子である五十孟命にその全国への植栽とそれを用いて家など木工物を作ることを命じたのです。製作に使用する利器が大蛇の尾から出た草薙剣だと思います。大蛇は山の神であり、剣は蛇の形代です。これを持って山へ入り、仕事の安全を祈ってから、下草を刈り植樹したのでしょう。そうすると、五十猛命はイナベと関りがあります。もともと木国(紀伊国)一国の神ではなく、イナベが斎祀った神でもあったはずです。つまり、イナベの原郷は新羅にあって、かれらが山の神である龍蛇神に祈っていたのが原形だと思います。これに蛇を退治する素戔嗚尊の伝承が合わさって、以上の話ができたのです。これらは多分鍛冶による伝承だったはずです。鍛冶と木匠はその仕事上密接な関係があります。要するに「イナベ」は「イナ」に関わる「部民」の意味ですので、「イナサ」の「イナ」もまたかれらが齋き祀った「イナ」の神(「サ」は朝鮮語で「社」「砂」の意)であり、新羅(朝鮮半島)及び龍蛇と関わりがありそうだ、ということが言えそうです。
【大和国伊那佐山】
次に大和国伊那佐山です。奈良県宇陀郡榛原町にある標高六三七・七メートルの山です。その頂上には式内都賀那木神社が鎮座しています。 『日本の神々』4大和「八咫烏神社」の項によると、志賀剛が「実は今の八咫烏神社は福西・比布・母里など芳野川左岸の諸村から目の前に仰がれる伊那佐嶽の真(旧)の式内八咫烏神社の共同の遥拝所=斎宮であったらしい。真の式内八咫烏神社は伊那佐山の尖峰(嶽さん)の山頂に祀られていたが、近世に貴船社(大和志)と改称された」(『式内社の研究』と述べて現在の都賀那木神社に比定し、さらに補考で「高塚の故老も八咫烏社は元はイナサ山にあったとも述べている」という説を引用しています。平凡社版「奈良県の地名」および『角川 地名大辞典』らは大和志の説を挙げるにとどめています。他方『寺院神社大辞典』大和・紀伊は「都賀那伎神社」条で、伊那佐山山頂に鎮座。「延喜式」神名帳の宇陀郡「都賀那木神社」とされ、仁寿二年(八五二)七月二六日に官社に列せられた(文徳実録)とあり、ツガナキの意味についての諸説をあげています。しかしこの山が本当に伊那佐山かどうかははっきりしないのです。『地名辞書』は「大和志山路山を以て神武帝御歌に見ゆる伊那佐山に充てたるに由り、近年此名立つ。古事記傳は之を採らず、伊那佐山は墨坂の別名ならんと曰へり。延喜式、都賀那木神社、伊那佐山の上に在り、是又大和志の説なり」とし、疑問を呈しています。つまり、伊那佐山の場所も、都賀那木神社の所在地も確かではないということです。
したがって、ここでは考察外ということになります。
【出雲国伊那佐浜】
この地は、『日本書紀』巻一「神代上」では「五狭狭之小汀」「五十田狭之小汀」とも称されます。つまり「伊那佐」は「五狭狭」「五十田狭」とも言われたのです。
この「五十狭狭」は垂仁紀即位三年条「一云」に、新羅から来た天日槍の天皇への捧げものの中に、「膽狭浅之太刀」があります。訓は「いささ」で、「ゐささ」ではありません。これは「五十狭狭」と同じです。そこで、これ自体がどんな太刀かは不明ですが、天日槍は新羅の王子ですから、朝鮮半島と関わりのある言葉だということがわかります。また本文欄外上の註に、延喜神名式に、播磨国賀古郡日岡坐天伊佐佐比古神社(今、兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山所在日岡神社)、胆狭浅は即ち伊佐佐か、とあります。天日鉾は初め播磨国宍粟邑に、船に乗って辿り着きます。ここでも「五十狭狭=イナサ」は、新羅(朝鮮半島)と関わっています。
さて「神代上」第八段一書(第六)に、国作大己貴命(亦名大國主神・大物主神・葦原醜男・八千戈神・大国玉神・顕国玉神)と力を合わせて国家の経営に尽くした少彦名命が常世の国に去って、大己貴神が「今此の国を理むるは、唯し吾一身のみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや」と問うたところ、「神しき光海に照して忽然に浮び来る者」があり、これが大己貴神の幸魂奇魂で、これによって大己貴神が国を平静に治めることができるのです。そしてこの幸魂奇魂はその望みによって、大和国三諸山に鎮まり、大三輪の神となります。大己貴神と少彦名命との最初の出会いは、出雲国の「五十狭狭」の小汀でした。少彦名命は白蘞の皮で作った舟に乗ってやってきたのです。『古事記』では、御大の御前に天の羅摩船に乗って来た神の名がわからず、久延毘古(山田の曾富謄)に聞くと、少名毘古那神と述べました。 白蘞とは、ヤマカガミと読み、今のビャクレンのことで、解熱効果があります。羅摩はカガミで、ガガイモのことです。吉野裕子は、白蘞も羅摩も「カガミ」と読み、「異種の植物ではあるが、共に蔓草で、前者は長い地下茎をもち、後者は巻きひげをその特色」とし、これからカガミとは「長く這う地下茎とか、他のものにまつわりつく蔓をもった植物に冠せられる名称」であるとします。これに似た語に「カガチ」があり、ヤマカガチは大蛇の意であり、この語の「チ」は「<ミズチ>(水蛇)、<オロチ>(大蛇)などというように、蛇・虫類を指し、また霊力を表わす」こと、また「カガミ」の「ミ」は「身」であろうとして、
〇「カガチ」は蛇そのものを指し、またホウヅキの異称
〇「カガミ」は蛇神を連想させる蔓植物の名称
これから、さまざまな「カカ」「カガ」の古典・民俗・方言使用例を探り、「<カカ>は<ハハ>(『古語拾遺』記載)以前の大蛇名であって、子音転換によって、<カカ>は<ハハ>に移行」したものとして、「カカ」は蛇の古名と結論付けます。 ここでは、少名彦名神が「カカ」ミの船、すなわち蛇の船に乗ってきたと述べていることに注目してください。
谷川健一は、「神光照海(あやしき光、海を照らして)忽に浮かび来る者」とは三輪山に斎き祀られた大己貴神の幸魂奇魂のことで、三輪山の神は蛇神であるから、「海を照らして依り来る神」も蛇神だと述べます。そしてこの神は神在月(出雲以外は神無月)のころ、この地方に依り来るセグロウミヘビのことで、地元の漁師によると、「夜に海蛇が海の上をわたってくるときは、(黄金の模様によって)金色の火の玉に見える」という証言を載せています。そして、稲佐浜にも旧暦十月ころにはウミヘビが来訪し、この浜に上がるのです。地元で龍蛇様とよばれるウミヘビを、とぐろを巻いて円錐形にして、出雲大社へ納めるのです。またこの行事は佐田神社でも行われ、こっちの方は出雲西北の恵曇の古浦から奉納します。またこの龍蛇信仰は朝鮮半島とも関りがあるといわれています。さらに『古事記』の「御大の御前」(ミホのミサキ)は現松江市三保関町に比定する説もありますが、島根半島を漠然と指すと考えれば、日御碕神社(出雲市日御碕町)も同様の神事を行っています。あるいは同行事を三保にある神社でも行っていたのでしょう。
以上のことから、実質的な国の経営者である大己貴神を助ける国魂―少彦名命も手のひらに乗るくらいの妖精的存在ですので、これに含めても良いでしょうーは「蛇」神であり、谷川健一の解釈によれば、朝鮮半島から来たということになります。さらに少名彦名命も神代上では「五十狭狭」の小汀に海の方から渡って来た神で、前にのべたように、これは新羅と関係する地名ですので、やはり朝鮮半島新羅から渡来した神といえるでしょう。 中国語では、「蛇」は呉音・漢音ともに「タ」、あるいは呉音「ジャ」、漢音「シャ」ですが、呉音漢音ともに「イ」(yi)とも発音します。「なよなよしたさま。また、くつろいでのびのびしたさま」を「蛇蛇(イイ)」というと『学研漢和辞典』(藤堂明保編)にあります。朝鮮語では訓「뱀(ぺム)」音「사」サ)ですが、「クリョンーイ、クリョンギ」とはチョウセンネズミドリという蛇の一種で、朝鮮で最大の蛇のことをいい、大蛇としても使用されます。また「イームギ、アムギ」は伝説上の動物で、竜になろうとしてなれず、深い水底に住むという大蛇。みずち、おろち。もう一つの意味は熱帯に住む大きな蛇の俗称、蟒蛇(うわばみ)、大蛇を指すと『朝鮮語大辞典』は載せています。したがって、「イナサ」・「イタサ」・「イササ」に共通する「イ」が「蛇」を、意味しているのではないか。そうであれば、三文字目の共通する「サ」は稲佐浜のように浜ばかりではなく、伊那佐山もあるわけですから、これも朝鮮語だとしたら「社」(사、サ)であるかもしれません。「イナサ」「イタサ」「イササ」などの「ナ」「タ」「サ」は良くわかりませんが、「ナ」すなわち土地・国の変異転形かもしれません。つまり、「イナサ」は「蛇(龍蛇)の国の社」の意の可能性が高く、新羅からもたらされた語ではないでしょうか。
ここに至って、やっとわたしたちは「オロ」と「イナサ」の共通性にたどり着いたのです。最初に挙げた「鳥名子舞」の歌謡に戻ることができたのです。つまり、伊勢神宮から見て、遠江国はイナサ(ミナサ)・オロの国、すなわち「蛇」神の国、豊穣と再生の国だったのです。