奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

2022-10-18 01:04:07 | 郷土史
strong>一 第一 アメナルヤ。ヤカリガナカナルヤ。ワレヒトノコ。サアレドモヤ。ヤカサガナカナルヤ。ワレヒトノコ。
第二 ミチノベノ。コダチハナヲ。フサヲリモツハ。タガコナルラン。
第三 トウタヲミ。ミナサノヤマノ。シイカヘタヲ。イマロモトル。
第四 イヨヨトゾ。イフキミガヨハ。チヨトゾイフ。ムラサキノオビヲタレテ。イザヤアソバム。
第五 オロノミヤノ。マエノヲラレズ。タレアラレムカ。カヨヘバゾツマモソロフ。
第六 オロノミヤノ。マヘノカハノゴト。カワノナガサ。イノチモナガリトミモシタマエ。
第七 ヤマカハニハ。ムマタシノトリマシヤ。コノヨニナガクヒツマコヒヤス。
第八 ヤマカハニ。タテルクロメスコ
メマサフクヤ。ヨキコニテヲトリカケテ。イザヤアソバム。
第九 ミナミナキトリバカリニゾアル。アラレフリ。シモヲクヨモ。ヨトモサダメズ。
第十 オロノカハ。ヤナギハヒロクテタテル。オロノカハ。ヤナギヨキヤニテ。ヲトリカケテ。イザヤアソバム。
第十一 マヤニイデヽ。アソブチドリナリ。アヤシナキコマツカヲエニ。ア
ミナヲカレソ。
第十二 タチバナガモトニ。ミチヲフミテ。カウバシヤ。ワガカヨヱバゾ。ツマモソロフ。

(鳥名子舞終わりて)「アマノヲビアマノオビト」と三度唱え、鳥名子等は組手を廻らし、その後各々頭を一つ所に集めて伏せ、のち起き上がって各々手を合わせて退出する。
 これが伊勢神宮「鳥名子舞」で歌われるのですが、いつ頃から始まったのかはわかりません。鳥名子舞そのものは、文献上延暦二十三年(804)撰皇大神宮・豊受神宮の両『儀式帳』にみえ、古くから存在していました。それは伊勢神宮の重要な祭祀にあたって、鳥名子所に所属する童男童女十余人が舞い、楽人が唱と楽器演奏するものです。主として、三節祭(六・十二月「月次祭」・九月「神嘗祭」の神宮の三つの重要な祭り)に内宮・外宮で舞われたもので、その意義については、たとえば斎宮殿の神送りの祭り、すなわち豊明の最後に舞われることから、神を称えるとともに、童子は神との媒介者でもあるので、天に昇る神の仲介者としても踊るわけです。
舞う曲は幾つかあったようで、六月十七日御饌神事では「志多良を撃ち、歌を謳い舞い」とあり、その後内宮荒祭宮に参って同じ舞を繰り返します。「志多良を撃つ」とは、手拍子を取って歌うことで、天慶八年(九四五)頃出現した志多良神由来と思われます。これに付随する歌謡・踊りは農耕神事芸能の田楽などの原型を成すともいわれます。
 神事では、この鳥名子舞に先立って、大和舞を宮司・神主、勅使である祭使などが次々踊ります。そして、諸神戸中ただ一人、遠江神戸司が「遠江舞」を舞います。遠江國浜名神戸は、伊勢神宮にとって特別なところであったようで、「遠江神戸種薑」御贄の奉仕にかんして詔刀があげられ、同神戸供進の綿にも「御綿神事」が伴い、こうした例は他国ではありません。
 これは「浜名神戸」がもつ伊勢神宮に対する方向性、つまり神宮からみて、渥美半島を通って浜名神戸に至る道は、夏至の太陽の昇る方角、浜名神戸からは伊勢神宮は、冬至の太陽が沈む方角にあるということ、すなわち「浜名神戸」は陽の極まるところであり、それゆえ陰に転回する場所であり、ですからものごとの終始する不思議な場所であったと考えられたのかもしれません。ここにあげた詞章はそうした観点から見ると、良く理解できるように思えます。

 上述の詞章は『群書類従』より引用しましたが、『静岡県史』では一部異なった歌詞となっています。しかし、わたしは前者のほうが意味が通るので以下これを採用します。
 第一・第二句は導入部であまり意味がありません。最初の問題は第三 「遠江、引佐の山の、椎が枝を、房折り持てば、今ろ廻ろふ。」にあります。意味としては、遠江の引佐の山の、椎の枝を何本か折って持ったならば、今こそ地上を這い巡るでしょう、くらいですが、意味は不明です。ここでの「椎」は蛇神=水神の依りましで、後に続く意味のある語句で、それゆえ地上に降りた蛇が這う回るという句になるのだと思います。「椎」と蛇との関係は『常陸国風土記』他に出てきます。
第四「 愈々とぞ言ふ君が代は、千代とぞ言ふ、紫の帯を垂れて、いざや遊ばむ。」益々盛んと言う君の一生は永遠と言えるでしょう。紫の帯は高官が用いる帯で、めでたい色であり、ここでは仙界で遊ぶこと。
 そして、次も問題です。
第五 「於呂の宮の、前の居られず、誰あられむか、通へばぞ妻も揃ふ。」於呂のお宮の前にいらっしゃるのは、どなたでありましょうか。あなたが通えば、妻も娶ることができるでしょう。これは麁玉郡式内於呂神社のことで、おそらく祭神は蛇体で、三輪山の神婚譚を示唆しています。
「オロ」は古代朝鮮語で、竜蛇あるいはオロチ(大蛇)を意味します。(これには異論が多くあると思いますが、続けます。)ついでに言うと、「イナサ」の「イナ」も古代朝鮮語でおそらく「蛇」の住む巖界の意味であろうと推測しています。「サ」は、朝鮮語では「蛇」を指し、転じて「社」「砂」を意味します。したがって、於呂神社は竜蛇神=水神を祀った社です。古代の正確な場所は不明ですが、近くに椎ケ脇竜王を祀る椎ケ脇神社もあります。おそらくこの神社が式内於呂神社だと推測されます。
第六 「於呂の宮の、前の川の如く、川の長さ、命も長りと見もしたまえ。」於呂のお宮の前の、大きく長い川(麁玉=天竜川)のように、あなたの命もきっと長くなるでしょう。
第七 「山川には、六又四の鳥いますや。この世に長く暇乞いやす。」「山川」は水に関係し、陰気であり、「六」も易では陰を代表する数字で、「四」は死に通じ、鳥も死の世界へ渡すゆえに、あの世へ旅立つことを示しています。長寿の末の死で悲しいものでなく、生まれ変わる目出度い死です。
第八 「山川に、立てるクロ芽スコ芽将吹くや。良き子に手を取りかけて、いざや遊ばむ。」(飛ばします)
第九 「南無き鳥ばかりにぞある、霰降り、霜置く世も、世とも定めず。」北すなわち陰気、死の国に飛んでいく鳥ばかりだなあ。冷たい霰が降り、霜が降りる、そんなあの世とこの世の定め無き世を往復していることよ。
第十 「於呂の川、柳は広くたてたる、於呂の川、柳良き簗にて、囮掛けて、いざや遊ばむ。」於呂の川に、水を好む柳は広範に生えている。これはいい簗になるので、これを掛けて魚を採ろう。
第十一 「厩に出でて、遊ぶ千鳥なり、あやしナキコマツカヲエニ、網尚枯れそ。」
第十二 「橘が下に、道を踏みて、香ばしや。我が通えばぞ、妻もそろふ。」
 椎・柳・橘は木気で、五行では風のことも意味します。さらに、風は四緑木気、方位は東南=辰巳、つまり蛇はこれに入ります。すなわち蛇神は、風の神でもあるわけです。また蛇は火気で、火を意味します。火は木を燃やすので、木気より強く、風を鎮める力があります。つまり蛇は風であると同時に風を克服するものでもあります。さらに一般的に蛇は水神とみなされていて、これは火を鎮める力を持ちます。また同時に水は植物を育てます。火=太陽もまた同様です。 蛇神はこのように、単なる水神ではなく、太陽神でもあり、太陽はすべての生きとし生けるものを育むわけですから、人に関して言えば、その寿命も掌るのです。それゆえ黄泉の国の王であるともいえるでしょう。そして火神であることで、風を防ぐ神でもあります。こうした恐ろしいが権威のある神、人の寿命を掌り、農業を邪魔する風を防ぎ、豊かな水を保証する、そういう神が住む国が遠江の国でありました。
 それゆえに伊勢神宮では、自らの荘園である「浜名神戸」を直接に謳わずに、竜蛇神の国である引佐郡や、麁玉郡の寿の歌を歌い舞い、それによって、その入り口である浜名神戸を間接的に寿いだといえるのではないでしょうか。
 自らの神民を直接寿がず、その奥のイナサの国、さらには於呂・麁玉(天竜)川を歌ったのは、後者は先の詞章のように考えられるからであり、前者は渭伊神およびタツサの神の存在があったからでしょう。













 
 
   


金剛寺ー浜松市北区三ヶ日町

2022-10-02 08:27:15 | 郷土史
金剛寺
所在地 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日 曹洞宗 本寺愛知県宝飯郡伊奈東漸寺 本尊地蔵菩薩
 創建寺伝 文和二年(1353)浜名清政が近江国三井寺の僧を招聘し開創と伝えます。

 金剛寺を末寺とする東禅寺の本寺宇宙山乾坤院(愛知県東浦町)は、文明七年(1475)尾州緒川城主水野貞守が創建し、遠州一雲斎(現磐田市豊岡)川僧慧濟を勧請第一祖、実質開山はその法嗣逆翁宗順です。長享元年(1487)、そのたった一人の嗣法の弟子芝崗宗田に席を譲り、翌年逆翁は示寂しました。川僧慧斎は遠江国森大洞院如仲天誾法嗣真巌道空から法を受け近江国洞寿院住持を勤め、後遠州一雲斎を開き、能登総持寺住持にも就任した僧です。金剛寺開山の乾坤院四世享隠慶泉は芝崗宗田に嗣法しました。

 享隠慶泉は「金剛寺歴代統系図」で永正元年(1504)正月五日寂とありますが、『東浦雑記』所載「住山記」には、二世芝崗宗田遷化の日である同じ明応九年(1949)三月三日頃とあります。芝崗のあと周鼎中易が三世となり翌年永正元年五月退院、その後約一月間金剛寺一世璧渓慧球監司が視篆したとします。他方『知多郡史』も前説と同様の記事を載せますが、芝崗遷化後から永正元年まで享隠が住持を勤め、のち璧渓が後継となったとします。おそらく乾坤院住持は、川僧慧濟・逆翁宗順・芝崗宗田・周鼎中易・享隠慶泉・璧渓慧球と続いたのです。享隠慶泉の寂年は永正元年で間違いないでしょう。
 金剛寺住持は「金剛寺歴代承統系図」に、享隠慶泉(永正元年正月五日寂)―大中一介(天文元年正月廿九日寂)―一世璧渓慧球(当寺開山、天文十一年八月三日寂)―二世延宝元祝(正月廿二日寂)―三世招翁慧隆(天文十六年二月廿五日)(以下略)と継承するとします。
 享隠慶泉は本寺万年山東漸寺(愛知県宝飯郡)開山として、明応元年(1492)二月五日に同寺を開創しました。大中一介は東漸寺二世で、ほかに明応四年五月、廃寺であった本宮山松源院(豊川市上長山)を再興しました。同六年二月の「薬芝草奥書」に「本宮山松源院山主一介」と記しています。
 享隠慶泉は金剛寺の本寺東禅寺開山ですので、最初に名前が載っていても不思議ではありませんし、また大中一介も二世ですので、おそらく金剛寺は二人の僧を勧請一、二世としていたのです。しかし、実質開山は、第一世璧渓慧球の開山によるものでしょう。永正元年以降乾坤院の住持を勤めたといいます。その後金剛寺に移り、天文十一年(1542)寂というので、『浜名史論』が言うように、この人はまさに浜名政明代の僧です。天文八年(1539)五月、前備中入道成繁(政明)が「金剛寺之事、堅固申定候上者、於末代可為御門流之寺候云々」と約しています。つまり、この年正式に徒弟院(一流相承)の寺となり、東漸寺流以外の派を住持とすることはありませんでした。

 ところで金剛寺そのものは、これ以前にも存在していました。古くは鎌倉時代末期、元応二年(1320)四月八日、ときの住持白高敬白の鐘銘があり、観応三年(1352)七月五日付の大福寺文書に「金剛寺殿」が北朝のために、大福寺に御願書を籠められたとあり、文亀元年(1501)十二月、堀江左衛門尉為清が、借銭の担保にとっていた寺領をこの日、同寺に寄進したという文書が残っています。
 この間のことを寺伝等では、金剛寺殿、すなわち浜名清政が、元弘の乱後廃頽していた真言寺院を再興し、文和二年(1353)近江三井寺円満院から僧を請待して天台宗に改めたと説明します。のち嘉吉二年(1442)火災で烏有に帰したのを、乾坤院より享隠慶泉を請じ曹洞宗に転じたとします。しかし乾坤院開創は文明七年(1475)創建であり、享隠和尚による金剛寺本寺東漸寺開創も、明応元年(1492)ですので、嘉吉二年再興は明らかに誤解です。曹洞宗に転じたのは、璧渓慧球によって永正元年(一五〇四)以降、政明が東漸寺門流の寺とした天文八年(1539)以前の間ということになるでしょう。
 つまり少なくとも、堀江為清寄進状の文亀元年十二月までは、伝承通りであれば、三井寺系天台寺院であったと思われます。為清が「於浜名之名字不可有違乱之儀候」と書くのは、この寺が金剛寺殿以来の浜名氏進止の領内にあったからです。
 永禄元年(1558)十二月十七日付金剛寺宛「今川氏真判物写」で、三世延宝元祝(没年無記)の嗣子南隆と東禅寺三世大甫一巨との間に相論が始まりました。それにより諸公事徴収に影響が出たため、今川氏真が金剛寺檀那浜名兵庫助に、彼と師檀関係にある一巨を召連駿府に来いと名代を通じて命じたのですが、参府しなかったので南隆を金剛寺住持として浜名氏と師檀の儀も変わらずに保ち、寺領を安堵するとしたものです。
 この南隆なる僧は、「承統系図」の二世延宝元祝の次、三世紹翁慧隆に当たると思うのですが、この僧は、天文十六年(1547)二月二十五日寂とあるので、逝去の年が合いません。しかし延宝の逝去の年は抜けているので、「天文十六年」は延宝に付すべきものであったのですが、写し違いをしたのではないでしょうか。一世璧渓と三世紹翁との間が、系図通りだと六年しかなく不自然で、また寺領等安堵に加え、「先師延宝為嗣法」とあるので、この僧が金剛寺住持になったのに、系図に名前が載らないことも不自然です。この誤写が四世明岩修哲にも影響し、彼が永禄元年より前の、弘治二年(1556)に逝去していることになったのではないかと想像しています。
 書状中「法祖一巨」とあるのも良くわからないのですが、たぶん「法祖」と「大甫一巨」二人のことだと思います。大甫一巨は弘治二年富士山光明寺(豊川市上長山)、永禄元年海潮山蛤珠庵(豊橋市前芝)、永禄十二年加羅陀山本性寺(豊橋市足山田)等を開いたと伝えられています。
 以降はほぼ系図通りなのではないかと思います。

 江戸時代に入ると、金剛寺は本寺東漸寺が末寺と号するのは不当だとする訴訟を起こしますが、幕府の裁定は今まで通りだとします。