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大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

2022-12-05 05:04:13 | 郷土史
応長元年(1311)十一月二十八日「大福寺御堂供養」が開催されました。第一日「大曼荼羅供」、二日目「御堂供養会」という式次第でした。前者は空海が修したもので、それを見るだけで罪障消滅の功徳があるといわれているので、近隣在郷の住民がこぞって押し掛けた非常に華やいだにぎやかなものだったでしょう。
 その法会の導師には京都東岩蔵山(大日山)の観勝寺別当浄円が招聘されました。別名東岩蔵寺とも呼ばれた観勝寺(現廃寺)は、文永五年(1268)良胤が再興しました。良胤は字大円、岩蔵上人とも呼ばれ、藤原基輔の子で醍醐寺座主・東寺長者を歴任した大僧正実賢の弟子です。また源頼政裔ともいわれています。
 浄円は実名良季といい、建長三年(1251)生まれ没年不祥、初め京都池坊不断光院に住し、のち観勝寺に移ったというほかよくわかりません。(『密教辞典』)言うまでもないことですが、「良季」は俗名でなく、法名です。良胤に安名されたものでしょうから、その法を受けたのでしょう。そして、大阿闍梨であり大円の後継とすれば、醍醐三宝院流の真言密教僧だったのだと考えられます。大法会の導師にはその寺を管掌する僧たちと関わりのある高僧が呼ばれることがほとんどですので、つまり、このころ大福寺は醍醐三宝院流が支配的な寺であったということです。
 読師(おそらく理趣経を唱える経立)に三河国富賀寺(新城市)道性房でした。この寺は大阿闍梨を出すような密教の学問所でもありました。その下での声明斉唱に八人の鳳来寺僧が招かれています。そして夜、延年が演じられます。讃衆及び琵琶の役がまた鳳来寺僧でした。舞台は神仏の顕現する場ですので、芸能者も修行を積んだ清浄な者が行います。そうした者の多くは修験(山伏)・呪師・遊僧という下級宗教者でした。ここではおそらく熊野系修験であると考えられます。鳳来寺には証誠房があり、武士庶民に変わり、のちには先達として彼らを率い、熊野立顔を果たす山伏の集団がありました。この山はとくに三河一国の信仰を集めていました。
 そのほかの楽師の西善寺は不明ですが、ほかの今水寺(新城市)・船方寺(豊橋市)・真福寺(岡崎市)などの寺院がすべて三河の国にあるので、やはり三河にあったのでしょう。また同国神谷上野公・中条越前公を含め、楽師・舞師として招聘されたこれらの人々は修験山伏だと考えられます。
 こららが熊野修験か、醍醐三宝院系の修験かに関わらない幅広い修験のネットワークが構築されていたのです。