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志ん馬うぇぶ 付”録”(ぶろぐ)

元噺家の家内が何気ない日常を勝手気ままに綴ります

1月8日(金)

2016年01月08日 | 独り言
失業中でも、決められたことをしないと失業認定がされないので、
仕方なく?上野のハローワークへ行ってきました。

ハロワの職員さんに、就職活動について叱咤激励され、
「若造がこんなこと言ってすみません」と何度も言われちゃったけどさ。

ふーん。むこうはこっちのデータを見てしゃべってるけど、こっちは職員さんの年なんてわかんないもん。
見た目だけだとそんな若造には見えないけどねー、だ。
ま、いっけど。


ハロワ帰りに、すぐ近くの区役所で自分の戸籍謄本をとる。
昨年亡くなった父の関係で必要らしいのだけれど、特に銀行関係はやたら必要書類が多くてめんどくさいのです。
下手すると預金残高が1000円しかなくても、しかるべきものがなければ戸籍とかいろいろ要求される勢いだって、手続きに動いてくれた妹が憤慨していました。


ところで、

区役所のフロアーに何人もいらっしゃる案内係のおじさんがみな真っ赤なジャケット(制服)を着用していたのですが、どうにものいるこいる先生に見えて仕方がなかったです。

のいるこいる先生



 




体中いたるところが痛いー
何でこんなところが?っていうところまで痛いのは、ホント何で??
これじゃますますフットサルは無理だな。。

今年もよろしくお願いいたします

2016年01月01日 | 独り言
どうやら私は喪中のようなので、新年おめでたい的なご挨拶は控えさせていただきますが、

昨年はたくさんお世話になりまして有難うございました。


その2015年は、
(志ん馬さんから)体調が戻ったら飲もうねって言われていたとか、二ツ目になったら飲もうねって言われてたという話を、

後輩の方からいくつか聞くようになって、それがきっかけでいろいろな広がりもありました。

仲間に入れてもらって嬉しかったり楽しいこともたくさんありました。

それとは別に、胸が痛くなることも、いろぉぉんなことだってあったのだけれども

お酒が飲めない私は、好きなことにすがるしか気持ちを逃がす方法がないのです。きっと。

だから家族の冷たい視線にもめげず飛び回るのは、、、言い訳かな。

「お姉ちゃん何やってるの」と、妹に何度言われたことか。

ええい、なんと言われようが、たくさんの方に優しくしていただいて、嬉しいことがたくさんあって感謝の年でした。

有難うございました。




今年は、どうしよう。

12月9日(水)

2015年12月09日 | 独り言
12月ももう9日も過ぎてしまいました。

目覚ましを気にしない生活は、あっという間に夜更かし人間になってしまう。

とにかく今月は好き勝手に、だらだらしちゃえーというつもりで、とはいうもののこれでいいのかなーという気持ちと戦いつつ、好き勝手しています。


大好きな漫才や歌舞伎を観に行ったり。落語も。

ランチに誘ってもらったり誘ったり。

まだこれからもイベントやライブがいくつかあって、とても楽しみです。

だって、そうじゃないと…。


今日は、先日の漫才大会の様子を見せてもらえて大感激。見たかったんですー。

秘蔵映像も話には聞いていましたが、なんと、ホント!参りましたー!!

かっこいい人は昔っからかっこいいね。

もちろん若いですが、変わらないのね。




ちなみに大会当日、この件に関して大瀬うたじ先生が「僕、ものすごーくかわいい頃の写真出したの」って仰ってましたが。

先生、私が拝見したところ、お若いだけで今とちっともお変わりありません。


何かと気にかけて下さるうたじ先生(>お世話になってます。ありがとうございます.ホントいい方なんです)が、

私に用事があると仰って下さっているので、

はい、おおせの通り明日浅草に伺います。(あー座布団取らないでー)


ぱいちでらんち

2015年11月09日 | 独り言
久しぶりに笑組ちゃんの漫才を拝見しましたっ。

来年結成30年のお二人。余裕だもん。とても楽しかったー!!


その後、浅草のぱいちでかずおちゃん一家とランチ。

かずおちゃんいつも有難う。

笑組のお二人は、前日名古屋の旅から戻ったばかりとのことで、リニューアルした大須演芸場の話など聞く。

懐かしいな、大須。でも、もうあの床が抜けそうな2階の楽屋は無いんだ。

私も、かずおちゃんも奥方のゆみちゃんも、この間父親を亡くしたばかりで、ゆたかちゃんのお母さまも今年だったとのこと。

親をおくる年代になったね、なんて話もしたのでした。。。


ところで私の父ですが、大阪で生まれ、山梨で育ち、上京。昔の話はあまり聞いたことがありません。

生年月日が石原裕次郎さんと同じというのが自慢で、

その年代の人がたいていそうであるように裕ちゃんが好きで、裕ちゃんに憧れていました。

  …憧れというのは、実家にあった若かりし頃の写真などからの私の推測です。


若いころは違ったようですが、私が物心ついて我が父と認識してからは、ずっとデブでした。

特に、私が子供のころの親父はデブデブだったので、

知り合いに石原裕次郎さんより南伸介さんに似てる、と言われて憤慨していたことを思い出します。(南伸介さんごめんなさい)

かずおちゃんの二人の娘さんは、お父さんのことが大好きでとてもいい娘さん達なのだけれど、私が二十歳くらいの時は父親のこと好きじゃなかった。。

家では無口で、話すようになったのは年をとってからです。




お弔いの時、叔母が「若い頃は勝沼の裕次郎と呼ばれていたのよ」と言っておりました。


ま、まじかぁー


…もう時効、ということでっっ

35年くらい前らしいっす








なんだかんだいっても苦労して育ててくれた両親には感謝しかありません。

父への思いは別として、、
入院中、例えば点滴やカテーテルや、注射のあとの青あざを見るにつけ、

あえて記憶から消し去っていた志ん馬さんの最後の入院がフラッシュバックして、とても怖かった。

なるべくみんなのいるところに行って笑って帰宅してドア閉めたとたんに涙が出ちゃう日があっても、なんとかなるよね。これからもきっと。