
神は私たちを覚えておられます
神が私たちを忘れることは不可能です。私たちは神の子供であり、神の手に刻まれているのです。
イザヤ書 49:13-18 新共同訳
[13] 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。 山々よ、歓声をあげよ。 主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。 [14] シオンは言う。 主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。 [15] 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。 [16] 見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。 あなたの城壁は常にわたしの前にある。 [17] あなたを破壊した者は速やかに来たが あなたを建てる者は更に速やかに来る。 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。 [18] 目を上げて、見渡すがよい。 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。 わたしは生きている、と主は言われる。 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい 花嫁の帯のように結ぶであろう。
神様があなたのことを忘れてしまったように思えることはありませんか。見過ごされたり、見捨てられたり、重要ではないと感じたりすることはありませんか。苦難の時期には、神様は私たちが経験していることを見ておられず、気にかけておられないと考えがちです。エルサレムが破壊され、住民のほとんどがバビロン捕囚に送られたとき、イスラエルの人々も神様が自分たちのことを忘れて見捨てられたと考えそうになりました。
しかし、今日の聖句は、痛みや困難は神の不在のしるしであるという仮定に真っ向から異議を唱えています。神はイスラエルが見捨てられることを恐れていることをすべて知っていることを認めた後、無条件の愛を主張して反論します。神は乳飲み子に対する母親のように近くにいて、気配りがあり、惜しみなく与えてくださるので、神が私たちを忘れることはあり得ません。不安で疲れたイスラエル人にこの点をはっきりさせるために、神はそれを自分の手のひらに刻んだという安心感を与えました(49:16)。このイメージは聞き覚えがありますか?
数世紀後、イエス・キリストは十字架にかけられ、両手に釘を打ち込まれました。これは神の言葉が真実であり、私たちは想像以上に神にとって価値があることを証明しています。私たちは神の忘れられない愛すべき子供です。私たちがいつも神の心に留まっているという安心感を持って生きたら、私たちの日々の生活や天の父との関係はどのように変わるでしょうか。
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