平成30/11/30 野崎歴史散歩講座に参加した時(先に薄葉小学校、八雲神社等に)
平沢公民館に行き撮った写真です。
平沢の庚申供養塔の道標は 元文五年(1740)10月に建てられた。
この塔は供養塔であると同時に道標であった。
「右 大田原道、 左 石林道」と刻まれ、箒川方面から来て、
ここで二手に分かれ白河方面は左に、大田原方面は右に分かれていった。
奥州街道の脇街道(奥州荷物街道)として重要な位置を占めていた。
原街道は会津藩主保科正之が年貢米を江戸に輸送するために正保2年(1645)に開設した。
途中には会津藩廻米方から任命された問屋があった。
原街道(牛街道)がにぎわったのは元禄、享保の頃であったという。
奥州荷物街道と名がついたのは、寛永4年(1627年)の奥州街道開通によって
主道(奥州街道)が混雑する場合や急ぎの旅人が副道としてこの道を利用した。
人々の往来は、原街道より古く、奥州街道開通以前からの街道であった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原城を攻略の後、
奥州征服の途中大田原に二泊している。平沢から大田原に行き宿泊
広報おおたわら8月(NO.1277)に特集として「豊臣秀吉と大田原」が掲載されていた。
豊臣秀吉の小田原攻めの時全国の大名に参陣するよう求めました。
那須資晴は小田原に出陣しませんでした。
北条氏は秀吉に降伏したあと、秀吉は戦後処理で大田原にきました。
大田原で秀吉は大関氏、福原氏をはじめとする
那須地域の有力者の謁見をうける。
その中に藤王丸(のちの那須資景)5歳がいて
大田原城主(大田原晴清)が「那須資晴の子で父に代わりご挨拶に参りました」 と紹介。
秀吉は那須氏の再興を約束。
藤王丸は秀吉から所領五千石を賜りました。