おりがみと日記

Kasaneの備忘録

大田原市平沢の道標を見てきました

2020-08-31 | 散策(大田原)

平成30/11/30 野崎歴史散歩講座に参加した時(先に薄葉小学校、八雲神社等に)

平沢公民館に行き撮った写真です。

 

平沢の庚申供養塔の道標は 元文五年(1740)10月に建てられた。

この塔は供養塔であると同時に道標であった。

「右 大田原道、 左 石林道」と刻まれ、箒川方面から来て、

ここで二手に分かれ白河方面は左に、大田原方面は右に分かれていった。

奥州街道の脇街道(奥州荷物街道)として重要な位置を占めていた。

 

原街道は会津藩主保科正之が年貢米を江戸に輸送するために正保2年(1645)に開設した。
途中には会津藩廻米方から任命された問屋があった。
原街道(牛街道)がにぎわったのは元禄、享保の頃であったという。

奥州荷物街道と名がついたのは、寛永4年(1627年)の奥州街道開通によって
主道(奥州街道)が混雑する場合や急ぎの旅人が副道としてこの道を利用した。
人々の往来は、原街道より古く、奥州街道開通以前からの街道であった。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原城を攻略の後、
奥州征服の途中大田原に二泊している。平沢から大田原に行き宿泊

広報おおたわら8月(NO.1277)に特集として「豊臣秀吉と大田原」が掲載されていた。

 

豊臣秀吉の小田原攻めの時全国の大名に参陣するよう求めました。

那須資晴は小田原に出陣しませんでした。

北条氏は秀吉に降伏したあと、秀吉は戦後処理で大田原にきました。

大田原で秀吉は大関氏、福原氏をはじめとする

那須地域の有力者の謁見をうける。

 

その中に藤王丸(のちの那須資景)5歳がいて

大田原城主(大田原晴清)が「那須資晴の子で父に代わりご挨拶に参りました」 と紹介。

秀吉は那須氏の再興を約束。

藤王丸は秀吉から所領五千石を賜りました。

 

 

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